画像

JUEGO DE PELOTA    球戯・球戯場

画像
    カンペチェ州 エツナ遺跡の球戯場。 Edzná

古典期マヤ遺跡には付き物の球戯場。 球戯の敗者は生贄として首を刎ねられたとか、勝者が生贄の栄に浴して生贄になったとか、面白おかしく 解説されますが、そこで行われた球戯は単なるスポーツではなく、宗教、政治、軍事等にも密接に関連した重要な 儀式でした。 球戯場と球戯について少し掘り下げて見ましょう。

球戯の歴史  Origen del Juego de Pelota

球戯の歴史は古く、先古典期の紀元前10世紀頃に遡るようです。 オルメカ文明のラ・ベンタ遺跡に球戯場跡が発見されており、チアパス州 パソ・デ・ラ・アマーダ遺跡では更に古く前12世紀以前の球戯場の痕跡が見つかったとの報告もあります。 オアハカ州のモゴーテ遺跡では緑に覆われた 球戯場跡を見ましたが、これも紀元前になるものと思います。 同様にチアパス州の太平洋岸に近いイサパ遺跡にも球戯場がありました。  これも紀元前後の古い球戯場になります。

画像画像
  モゴーテ遺跡の球戯場跡。 San José Mogote               イサパ遺跡の球戯場。 Izapa

球戯について知る手掛かりは、当時の球戯者はもう居ないので、まずは球戯場と言う事になります。 その球戯場も長い歴史の中で土の中に埋もれ 近年その発掘が相次いでいると言うのが現状です。 arqueología の2000年7-8月号によると 1981年には全メゾアメリカ地域で 568ヶ所 691面 だったものが、2000年には1250ヶ所以上 1500面以上確認され、今後調査発掘が進めば更にその数は増え、球戯場、球戯そのものの解明も進む ものと思います。

先古典期に始まった球戯の歴史ですが、メゾアメリカの一大文明 テオティウアカンの隆盛に伴い古典期前期には衰退したようです。 テオティウアカンには球戯場が無く、 テオティウアカンの影響を受けた周辺地域でも球戯が廃れていったと言う定説ですが、そのテオティウアカンでも壁画に 描かれた球戯者や、球戯場のマーカーが見つかっているので、果たして本当にテオティウアカンには球戯場が無かったのか?

画像画像画像
 テオティウアカン    テパンティトゥラ宮殿にあるトラロカンの天国の球戯のシーン。        ベンティーリャ地区出土のマーカー。
 左:左の競技者の足元にボール、左手の先に首。 中:競技者はバットを持ち、右上に横になったマーカー。  Tepantitla, Teotihuacan


テオティウアカンに球戯場があったかどうかはさて置いて、古典期前期に球戯場建設があまりなかったのは事実のようです。 と言う事は 先古典期の球戯場は数少ないので、球戯場の殆どが古典期後期の 7-8世紀以降というのは 遺跡訪問の際の時代考察で大きな手掛かりになります。  後古典期になるとまた球戯はあまり行われなくなったようで、後古典期の代表的な遺跡のマヤパンやトゥルムでは球戯場が見当たりません。

後古典期後期グアテマラ高地のキチェ、カクチケル族はまた盛んに球戯場を建設しましたが、これはマヤ地域よりメキシコ中央高原の影響が大きいようです。

マヤ地区以外の球戯場  Juego de Pelota - fuera de Mayas

既におわかりのように、球戯場はマヤの専売特許ではありません。 トウモロコシや260日暦等と並んでメゾアメリカ共通の文化と言えます。

以下マヤ地区外の主要な遺跡の球戯場ですが、メキシコ中央高原を中心に サポテカ人、トトナカ人、マトラシンカ人、チチメカ人、 トルテカ人等々 異なる民族の間で幅広く球戯が行われていた事がわかります。 メゾアメリカ地域の北のパキメにも球戯場があったそうですが、 ここは行った事がありません。 マヤでは後古典期に衰退した球戯もアステカでは引き続き行われていたようです。  しかし首都のテノチティトゥランはスペイン人に破壊された為、アステカの球戯場と言うのは残念ながら見た事がありません。

  画像 画像
   ベラクルス州エル・タヒン   El Tajín         オアハカ州モンテ・アルバン   Monte Albán

  画像 画像
  プエブラ州カントーナ   Cantona      モレロス州ソチカルコ   Xochicalco

  画像 画像
  メキシコ州テオテナンゴ   Teotenango   イダルゴ州トゥーラ   Tula

カントーナ遺跡は最近の発掘調査ですが、球戯場が 24面も確認され、遺跡中球戯場といった感があります。 エル・タヒンも 17面と多くの球戯場 がある事で知られます。 因みに、エル・タヒン、モンテ・アルバン、ソチカルコは世界遺産です。

マヤの球戯場とその形態  Diferentes tipos de Juego de Pelota Mayas

話をマヤに戻しましょう。 これまで訪問した90ヶ所位のマヤ遺跡の中で球戯場を確認できたのは、30ヶ所位です。 まだ発見されていない所 や破壊されてしまった所もあるでしょうし、球戯場建設が活発になる古典期後期以前に勢力が衰え建設されなかった所もあるかもしれません。  また球戯が衰退した後の後古典期遺跡には無くて当然かもしれません。

何れにせよ、球戯場のある遺跡は古典期の主要なマヤセンターだったと言えそうです。 そういう意味では、カンペチェ州北部のサンタ・ロサ・ シュタンパック遺跡や キンタナ ロー州南のシバンチェ遺跡等は古典期に地域の大きなマヤセンターだったので、見つかっていないだけで 立派な球戯場があったのではと思います。

球戯場の形状は競技の仕方、ルール等の違いからか 色々なバリエーションがあり、学術的な分類では10数パターンに分けられますが、 あまり細かい分類は判り難いので主だったパターンを図示してみました。 上が平面図、下が断面図です。 マーカーの形状、位置でも 異なるパターンがありそうです。 マヤの場合球戯場を構成する二つの細長い基壇は殆どが太陽の運行を示して東西に並びます。 (一部 南北に並んだ例外もありますが。)

     画像
       (記号は便宜的に付けたもので、学術的なものではありません。)

チアパス州コミタン市近郊のテナム・プエンテ遺跡はあまり知られていませんが、 自然の丘を五段に造成したアクロポリスに球戯場が 3面ある なかなかの規模の遺跡で、ここの球戯場で形状を見てみます。

下の写真1枚目は、五層のアクロポリス前に広がる広場を掘り下げた、球戯場1です。 形状は大雑把に言って上の図の ④ A でしょうか。  球戯場のサイズはデータがありませんが、かなり大きな球戯場です。

     画像
     画像画像
       (Juego de Pelota 1 y 3, Tenam Puente)

左上の写真は上の球戯場1をアクロポリスの2段目から俯瞰した所。 右上の写真はアクロポリスの3段目辺りにある球戯場2?です。 修復が不完全なので写真では見づらいですが、木がまとまって生えている所が球戯面です。

     画像
     画像画像
       (Juego de Pelota 2, Tenam Puente)

この3枚の写真は、球戯場2の上の段にある球戯場3で、こちらはかなり綺麗に整備してあります。 形状は⑤ A、写真下左が球戯場の 北側半分でアクロポリスの上の段との壁で仕切られ、写真下右が南側半分で東南端と西南端は仕切りの壁が無く下の段に口を開けています。  (球戯場 2と3はアクロポリスの基壇に沿って球戯場1とは直角に設置されます。)

主要なマヤ遺跡の球戯場  Juego de Pelota de Sitios Principales

主要なマヤ遺跡の球戯場も見ておきましょう。

  画像 画像
   チアパス州パレンケ  Palenque              チアパス州トニナ  Toniná

  画像 画像
   チアパス州チンクルティック  Chinkultic    カンペチェ州カラクムル  Calakmul

  画像 画像
   カンペチェ州ベカン  Becán                      ユカタン州ウシュマル  Uxmal

  画像 画像
   ユカタン州オシュキントック  Oxkintok           ユカタン州チチェン・イッツァ  Chichen Itzá

  画像 画像
   ユカタン州エク バラム  Ek'Balam                    キンタナ ロー州コバ  Cobá

  画像 画像
   キンタナ ロー州コバ  Cobá                   キンタナ ロー州コフンリッチ  Kohunlich

  画像 画像
   ベリーズ カラコル  Caracol                        ベリーズ ラマナイ  Lamanai


  画像 画像
  グアテマラ ティカル  Tikal             ホンジュラス コパン  Copán

後古典期グアテマラの球戯場。

  画像 画像
   グアテマラ ミスコ・ビエホ    Mixco Viejo

  画像 画像
   グアテマラ イシムチェ  Iximché      グアテマラ ウタトゥラン  Utatlán

球戯場は平行に並ぶふたつの基壇から成り、基壇に挟まれた地上面と基壇の傾斜面がプレイグラウンドでした。 基壇とプレイグランドはおよその比率の範囲で、 その地形に応じて変形されたようです。 これが地上面に作られたり、地上面を掘り下げて作られたりして、また色々な付属の建造物が付けられたり、写真で わかる通り殆ど同じ形の球戯場はありません。 それぞれの遺跡の球戯場詳細はその遺跡のページを参照下さい。

球戯のマーカーと球  Marcadores y Pelota de hule

球戯ですから球と的がありました。 最も大きな球戯場で有名なチチェン・イッツァ の球戯場の的を見てみましょう。 ここの球戯場は形が 特殊で 普通なだらかな傾斜の基壇が 垂直にそそり立ち、その上部に的の環が取り付けられています。  側壁中央に左右一対の環が有るのが 見えるでしょうか。

     画像
     画像画像
      (Juego de Pelota y Marcadores de Chichen Itzá)

左は遺跡に残された複製品? 右が遺跡の博物館に展示されたもの、実物でしょうか? 2匹の羽毛の有る蛇が向き合い、絡み合った胴体 の間に目が6つ覗きます。

     画像画像
      (Marcadores de Oxkintok y Uxmal)

同様の環は他の遺跡でも見られ、左はオシュキントック出土の球戯の環(メリダ博物館蔵)、右がウシュマルの球戯場にあるもの、 複製? どちらも神聖文字が刻まれています。

     画像画像
      (Marcadores de Copán)

では的は全て穴の開いた環かと言うと、こちらはコパン遺跡のマーカー。 コンゴウインコが刻まれたマーカーが球戯場の両端と中央で3対、合計6個 あります。 球技のルールはどうだったのでしょうか。 右はコパン博物館に展示された形の異なるマーカーです。

     画像画像画像
      (Marcadores de Cobá)

キンタナロー州南のコバ遺跡にも興味深い球戯場が2つあり、基壇斜面上部にある環の他に、グループDの球戯場の地面中央には髑髏の目印、 端には首の落とされた ジャガーの目印が埋め込まれています。 基壇斜面にある大きな石彫り彫刻もとても興味深いものですが、 そちらはコバのページを参照下さい。

     画像画像
      (Marcadores y Pelota de hule, Museo Nacional de Antropología)

球は生ゴムを硫化せずに固め、重さ 3Kg位の重くて硬いもので、プレーも危険だったようです。 人類学博物館メシーカ室前の通路に 球戯場のコーナーがあり、球戯の球が展示されています。

球戯のプレーの仕方  Como se juega el juego

プレーの仕方ですが、広い地域で長い期間にわたって行われた為に、統一したルールは無かったようです。 球戯場のサイズ、形状、的の 位置・種類は様々で、更にはバットを使ったプレーもあったようですから、プレースタイルのバリエーションがあって当然でしょう。

2チームに分かれ(チームは1人から7人)、的をめがけて球を打つのが基本ですが、上腕、肩、背中、腰、臀部で球を打ち、手、足、頭は 違反だったようです。 低い球を打つには体全体を地面に投げ出すようにするので 肘や膝に防具をつけ、3Kgもの球を打つ為に 上腕や腰にも防具のようなものを付けました。

球を環の穴に通せば勝ちですが、的に行くまでにパスで球を落とせないし、手足頭で触れてもいけないので、環の穴に球が通るのは 奇跡的だったように思えます。 現代にもこの球戯を継承する人達は居ますが、古典期のルールがどのようであったかは不詳です。

     画像画像画像
      (Figurilla de jugador de pelota, Jaina y jugador grabado en estela de Veracruz)

当時の遺物から、球戯の一端を垣間見る事ができます。 左のハイナ出土の競技者の土偶には 上腕と腰周りに付けた防具が認められ、姿勢も 競技中の動きを示しています。 中央と右の写真はベラクルス州テパトゥラスコの石碑で、競技者に腰周りの防具(Yugo)を縛り付けている様子が 刻まれています。 土偶も石碑も国立人類学博物館蔵。

     画像画像
      (Yugo hecho de piedra, y Escultura de Juego de Pelota, Tajín)

この2枚の写真もベラクルス州のもので、左の緑の石造物は腰周りの防具(Yugo)を表現しています。 右の浮き彫り彫刻はタヒンの 球戯場の基壇側壁に刻まれたものの複製で、球戯の衣装を着けた競技者が敗者の胸にナイフ(赤丸の中)を突きつけている様子が窺えます。  ともに人類学博物館。

     画像画像
      (Jugadores en la Escultura de Juego de Pelota, Chichén Itzá)

これはチチェン・イッツァの大球戯場側壁下面に彫られた浅浮き彫りで、東西両面にほぼ同じ絵柄が刻まれています。

絵柄のモティーフは、髑髏が彫られた大きな円盤(球戯の球ですが)を挟んで リーダー以下メンバー計7名の2チームが対峙している ところで、 全員球戯用の豪華な衣装をつけ、右の写真では球の右側の勝者チームのリーダーが手にナイフを持ち(右の赤い円)、左の敗者 チームのリーダーは首は落とされ 首から流れた血を表す6匹の蛇(左の円)が頭を出しています、写真では4匹しか見えませんが。

球戯の目的  La finalidad del Juego

最後に球戯がどういう目的で行われたのか考えて見ましょう。

と言ってみてもこれは確かな事はわかりません。 生贄と言う社会暴力を球戯の勝ち負けを通して純化したなんていう見方もありますが、 具体的には、永遠の太陽の存続の為に春分や夏至などの季節の変わり目に球戯を行い太陽に生贄を捧げたとか、トウモロコシの豊作を願う為に敗者 の血で土壌を潤したとか、或いは支配者が権力の座に就く為に自らの強さを示威する祭礼として球戯を行ったとか、色々言われます。  また 部族間の領土紛争解決の手段として、或いは単なる賭け事として行われたとも言われますが、実際の所どうだったのか。

でもあるルールの下、勝敗を争い、その結果として生贄にされる人が決まった、この辺りは共通項でしょう。 戦争の捕虜を相手に 球戯を行い、最初から敗者が決まっていたと言うような事もあったようですが。

マヤ神話がアルファベットで書き残された 『ポポル・ブフ』 にも球戯が登場し、双子の兄弟、 フンアフプとイシュバランケはシバルバ(地下世界、冥界)で地下の諸王や怪物を球戯などを通して退治します。 こんな神話を背景に、 マヤの支配者は生贄が必要な時に宗教儀式としての球戯を行い、自らの権力をつまびらかにして社会を統治した、こんな所が球戯の目的だった と言えるかもしれません。

     画像画像画像
      (Estela de Veracruz y Marcadores de Chinkultic y Toniná)

左の写真はベラクルス州の石碑で、生贄の首から鮮血を表した7匹の蛇が頭を出しています。 中央と右の写真はチックルティックと トニナのマーカーだそうですが、それぞれ 591年(9.7.17.12.14.11. 11ix, 7zotz)、810年(※)(9.19.0.0.0. 9ahau, 11mol)の日付が刻まれ、 何かを記念する目的で球戯が執り行われた事が明らかです。 トニナの方はカトゥンの最後の日付ですから新しいカトゥンを祝って球戯が 行われたと解釈してよさそうです。
(※) 人類学博物館の説明には 550年とありましたが、計算し直してみると 810年でした。
    19 カトゥンが 7 カトゥンより古い筈ありません。 カレンダーの学習が活きています。


  画像
      (Tablero esculpido de Toniná)

最後に球戯が彫刻された石板をもう一枚。 トニナ4代目王の球戯での勝利を記念して作られたとの事です。 日付は 727年(9.14.16.2.12. 7eb, 5kankin)、長期暦の西暦換算は間違いありません。 王の権威付けにも球戯が用いられた証拠と言えます。


球戯場の説明はこれで終わりです。 簡単に纏めるつもりが長編になりました。   兎に角わからない事だらけのマヤなので、これでも到底説明し尽くせたとは言えませんが、あとは写真を見て想像して頂く他ありません。


     画像