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VERACRUZ     ベラクルス州
カリブ海沿岸に広がるベラクルス州はトトナカ族が知られ、世界遺産のエル タヒンの他、多くの遺跡があります。  古代オルメカ文明からトルテカ、アステカを経てスペイン人上陸を迎える歴史を経てきた遺跡です。

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CASTILLO DE TEAYO   カスティーヨ デ テアヨ

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タヒン遺跡を訪問した翌日、ポサリカの北 30Km位の所に遺跡マークがあるので行ってみました。
遺跡と同名の街の中心にピラミッドがひとつあり、ウアステカとトトナカの境界にある遺跡でした。

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1000年位前のウアステカの街が、その後トルテカやアステカに支配され、ピラミッドもアステカ風になっているようです。  ピラミッドの外壁は作業用の石の出っ張りがそのまま残してあるのが特徴です。

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高さ 10.5mですが、上部神殿はレンガが使われているようにも見えます。

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ピラミッドの下に浮き彫りの石碑があり、複製で実物は州都のハラパの博物館と書いてありました。 ハラパの博物館の 写真を捜したらありました、右の写真です。 ウアステカ風に見えますが?



EL TAJÍN    エル タヒン                         画像

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壁龕(へきがん)のピラミッドと沢山の球戯場で有名なタヒン遺跡、1992年に世界遺産に登録されています。 古くから街がありましたが、 最も繁栄したのは 800-1150年頃でこの時期に現在目にする多くの建造物が築かれたようです。 写真奥が壁龕のピラミッド。

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南側から遺跡に入ります。 4つの大きな建造物に囲まれた大広場があり、写真は北側の建造物 16。

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建造物 16の南東角。壁龕を用いた建築様式です。 建造物 16 北側の球戯場(建造物 13/14)。

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右上の球戯場の東側にある球戯場(建造物 17/27)。 球戯場角に嵌めこまれた石像(人面と蛇)。

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先へ進み建造物 15と 23の間から見る壁龕のピラミッド。 建造物 23上部から南側、手前が建造物 15。

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建造物 23上部から見た建造物 5、屋根飾りの壁龕が特徴的です。 写真右は同じ所から西方向。

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壁龕のピラミッド、東側正面と北側(写真右)で、壁龕の数は 365個と現代の暦と合致します。

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正面上部。 建築当時は全体が赤と黒で彩色されていたと推定されています。  壁龕に入って昼寝?

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壁龕のピラミッドの直ぐ東側にある球戯場。 東側に保護の屋根があり、内部に彩色壁画が残ります。

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建造物 5 東側に一番大きな南球戯場があり、側面に浮き彫り彫刻があります。 左の写真では図像が不鮮明なので右に拡大しました。  球戯の衣装を付けた 3名の競技者が描かれ、右の競技者が中央の競技者の胸にナイフを突き立てている、生贄のシーンです。  球戯に負けると生贄? 恐いです。

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壁龕のピラミッドの北東の広場にある球戯場(24/25)。 ここにも神々を刻んだ浮き彫りがあります。


北東の広場の北側は一段高くなっていて、ここからが Tajín Chico (タヒン チコ、小タヒン)。

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建造物 I の壁龕がある側面上部には屋根が付けられ、中に彩色壁画が残ります。

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壁画はかなり損傷していますが、青、緑、黄、赤、黒などの極彩色です。   タヒン チコの建造物。

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タヒン チコには規模は小さい乍ら、装飾を凝らした建造物が密集します。 球戯場が無い事から、タヒンの支配者階級の貴族層が住んでいた 住居と考えられています。

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これだけ異なる壁面装飾が同じエリアに集中していて、さながら住宅展示場みたい。

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タヒン チコの東側に Xicalcoliuhqui シカルコリウキという舌を噛みそうな名前のエリアがあります。
雷紋と言う意味ですが、写真のような特徴的な城壁で囲まれたエリアです。

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タヒン チコの奥、北西側に列柱のグループと呼ばれる所がありますが、見学できるようには整備されていません。 柱の一部は遺跡 の博物館に展示してあるので、見事な彫刻を目にする事が出来ます。

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博物館には他にも発掘された石彫り、土器、壁画の他、遺跡の立体模型もあるので、必見です。



VOLADORES DE PAPANTLA    ボラドーレス デ パパントラ

エル タヒンの入口付近に、ボラドーレス デ パパントラ(パパントラの鳥人)のアトラクションがあります。  メキシコ市の人類学博物館前、テオティウアカン遺跡やユカタン半島のリビエラ マヤにもありますが、ここ トトナカ族のベラクルスが本場。 名前のパパントラ市はエル タヒンから 13Km です。
神に鳥の踊りを捧げたトトナカ族の儀礼で、30m位の柱から鳥人に扮した4人が逆さに飛び降りて13回まわって地上に降りてきます。  上に残った一人が笛と太鼓でピーヒョロ トントン音楽を奏で、笛が鳥の囀りで太鼓が神の声だそうです。 4人が13回まわり、計52回は メゾアメリカの暦で太陽が生まれ変わる周期を表します。

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4人の鳥人が次々に飛び降りたところ。       写真はテオティウアカンでのアトラクションです。

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縄は腰の帯につけられ、地表に近づくと体を反転させて着地します。 右の写真はタヒンで撮ったトトナカ族の衣装をつけた少年。



LAS HIGUERAS   ラス イゲラス

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州都ハラパの考古学博物館に ラス イゲラスの壁画が展示されていて、どんな所かとても興味がありました。  ポサリカからパパントラを通り越して海岸に出、ここから海岸沿いを南下しベガ デ アラトーレから遺跡に向かいます。  白壁の中に、博物館と写真右の建物跡がひとつあるだけですが…。
漁師が水溜を作ろうと私有地を掘ったところ偶然壁画が見つかり 1970年頃発掘と壁画の回収が行われました。  気象条件の厳しい所で、現地保存は無理な為、上部神殿ごとハラパの博物館へ移設されたそうです。

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左は遺跡の博物館にある壁画のある神殿の模型。 右はハラパの博物館に移設・展示された実物。

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壁画にはトトナカ人の祭礼の様子が活き活きと描かれ、当時の様子を伝える貴重な歴史的資料です。

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旗を持つ人たちの行列の壁画。 複製とオリジナルを並べてみました。 左が地元に残された複製ですが、良く出来ています。  右側の3枚がハラパの博物館に移された実物を撮ったもの。 一番上がパラソルを持つ人、次が旗を持つ女性たち、 最後の旗持ちの女性は切り落とされた生贄の首をぶる下げています。 ぞーっ。

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この6枚の写真は全てハラパの博物館に移された実物を撮ったもの。
遺跡はこの神殿だけではなく、球戯場を含め幾つもの建造物跡があるそうですが、現地で見学できるのはこの神殿だけです。  古典期末期からの遺跡ですが、19層にわたり塗り込められた壁画は後古典期のもののようです。  19層全ての壁画が回復できたら面白いのですが。


QUIHUIZTLAN   キウイストゥラン

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ラス イゲラスから海岸沿いを更に南下、緑の看板があります。 ここから 2Km の上りです。 未舗装の坂道を車で行きますが 途中障害物が。 なかなか退いてくれませんでした。

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キウイストゥランはトトナカ人の街であり、墓地であり、砦でもあった所で、車で上りつくと早速立ち並ぶ墓が目に入ります。 ここは 中央墓地で 34基の墳墓が密集します。

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中央墓地から東へ傾斜を上ると広場とピラミッドがあり、写真右はピラミッド2、後ろは断崖絶壁です。

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広場の北側にピラミッド1があり、その北側に写真の東の墓地があります。 ここにも23基の墳墓が。  見渡す限りの大海原、お墓としては最高の立地です。

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墓石は神殿のミニチュアで、マヤやアステカ等とは全く異なる埋葬方法です。 祭壇の前で手を合わせたくなるような、何か日本の墓 との共通性を感じさせるトトナカ人の墓地でした。

エル タヒン等のトトナカ人が北の民族から圧迫されて、守りの堅いキウイストゥランに移り住んできたようで、尾根沿いに 防塁があるそうです。 しかし 800年頃にはトルテカ人、1200年頃にアステカ人の侵入を許し、アステカ時代は貢物や人質を 常に提供する属国でした。 この為コルテス軍と同盟を結び、テノティトゥラン攻略にはコルテス軍に従軍し、歴史に よれば、このキウイストゥランにはコルテスも訪れたそうです。


CEMPOALA    センポアラ

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エル タヒンに次ぐトトナカ族の第二の都とされるセンポアラは 11-12世紀頃トルテカに追われたトトナカ族が 築いた街で、1469年にはアステカに征服され属国になります。 1519年のコルテス軍到来時には3万人程度の人口を擁した ようです。

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大神殿や柱の神殿などの大きな建造物もありますが、3つの円形の構造物がユニークです。

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写真左の一番大きな環には上部に 40 の突起物があり、写真右の手前の環は 13 の突起、奥の環は 28の突起があって、 天文観測に用いられたという説もありますが、儀式や闘技に用いられたという説明もあり、定かではありません。  コルテスはこの環の中で野営したとの事です。

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左が柱の神殿、右が大神殿です。 スペイン人到来時はここにトトナカの王が住んでいて、スペイン人と同盟を結び アステカ王国と対峙することになります。

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緑の芝生で綺麗に整備された遺跡公園には他にも沢山の建造物があります。 丸石を多用し上を漆喰で塗り固めた建築 様式です。

アステカ崩壊後は センポアラの住人はスペイン人により移住させられ、街は放棄され無人になります。


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