(Entrada al Mountain Pine Ridge Forest Reserve)
カラコル遺跡はサン・イグナシオから南へ 80Km、海抜 500m のマヤ高地の一角にあります。
松林保護区 "Mountain Pine Ridge Forest Reserve" を通り抜けていきますが、ホテルを出て 45分位で写真の保護区の入口に
着きます。
(Camino a Caracol, con la guia del Ejército Beliceño)
この辺りは花崗岩質の山塊でアルカリ性土壌になり、松以外の植生には適さないとの事。 伐採と山火事の為に若い木ばかりですが、一面松林です。
マヤの建造物には石灰岩が使われるので、ここには建築材料がありませんね。
途中軍隊の駐屯地で停車、「ここで他の車を待つ。」と。 何で?早く行った方が…、と思ったのですが、何と他のツアー客の車と
隊列を組みベリーズ軍兵士の乗ったジープに先導されてコンボイです。 グアテマラから越境してくる蛮族対策だそうで、カラコルは
大事な観光資源と言う訳です。
(Cruzando Macal River hacia Caracol)
駐屯地から 25分位でマカル川を渡るとその先はカラコルがあるチキブル森林保護区になり、植生も明らかに変ってきます。
マカル川は雨期に氾濫するとカラコルへ行けなくなる事もあるそうで、乾期に入っているのに水溜りがありました。
川の先は道路の状態が酷いですが、以前はカラコルへ行く道は全てこういう状態だったとか。
(Camino medio roto y luego pavimentado)
写真左はガタガタ道の様子ですが、右の写真でガタガタ道が舗装道路に変った継ぎ目がわかるでしょうか。 急に道が綺麗になり
そのままカラコル遺跡まで舗装道路が続きます。
昔は車で 5-6 時間、四駆でないと行けなかったそうですが、今では2時間半程度、ガタガタ道が舗装されれば2時間位で行けそうです。
(Llegada a Caracol)
カラコルは行くのが大変と聞いていたので アクセスの説明が長くなりましたが、いよいよカラコル到着です。 遺跡入口の看板
の先は芝生が綺麗に整備され、もっと荒れ果てた様子を想像していたのですが…。
(Museo del sitio en preparación y el señal de Caracl)
駐車場の奥に真新しい建物があり博物館を 車止めの横のカラコルの看板、ここからは
準備中との事でした。従来の博物館は閉鎖中? 歩行者オンリー。 歩きましょう。
(Mapa del sitio que se requiere cambio)
遺跡エリアに入った所に地図がありましたが、割れて歪んでいます。 これでは地図が起こせません。 困った!
地図の前でガイドさんがカラコル発見から今日までの状況を説明してくれました。 1938年に遺跡が発見され最初の考古学的確認が
行われた後、1950年にペンシルバニア大学の調査が入り、1985年からはセントラル・フロリダ大学が毎年調査を続けているとの事。
しかし大学の活動は発掘による学術研究が中心で、建造物の修復はベリーズ考古学局の手により 2000-2004年に行われ、今日見る姿に
整備されているとの事でした。
カラコルとはスペイン語でカタツムリや巻貝を意味し、 1938年に遺跡の確認をしたアンダーソンが命名したそうで、遺跡を歩くと
化石化した小さなカタツムリの殻がよく地面に転がっています。
さて地図ですが、前述のセントラル・フロリダ大学が
caracol.org archaeological project と言うカラコル・プロジェクトの
サイトを開設していて、
カラコルPRJ 2006の地図
があり、これに少し手を加えて利用させて頂きました。 地図は上がほぼ北の方角になります。
(Grupo Raleigh)
最初にガイドさんが案内してくれたのが地図で右の方にある ラーレイ・グループと言う小規模な住居跡でした。 四方を低い基壇で
囲まれた矩形のグループで、写真右奥が東の基壇です。
(Grupo Raleigh)
写真左は上の写真には写っていない西側の基壇、右は東の基壇を正面から見た所です。 基壇だけなので草葺きの建物が建てられていたよう
です。 中流階級(middle class)の住居だったそうですが、マヤで中流階級って?
(Grupo Barrio)
次に林の中を北の方へ抜けて、グループ Bのバリオ・グループ(Barrio Group)に出ました。 こちらは宮殿風で部屋が細かく仕切られ
貴族の住まいだったとの説明です。 グループへの入口となる写真にある前面 B24 と B25 はカーナ神殿を向いています。
(Grupo Barrio)
バリオ・グループの内側は広角レンズでも納まらないので3枚の写真をパノラマ合成してみました。 多少不自然ですが雰囲気は
伝わると思います。 正面が地図の B21, 22 にあたります。 北側の B26 は神殿で それ以外は宮殿との事、外観は 800AD 頃のもの
になるようです。
(Grupo Barrio)
写真左は神殿 B26 で、奥にも建造物があるようですが、未修復。 右は B25 との境目を撮ってみました。 壁面が傾斜していて
住居ではなく神殿風に見えます。
(Templo de Caana)
潅木の林の中を暫く歩いていくと目の前に巨大な建造物が姿を現します。 これがカーナ神殿(Sky Palace =天空の神殿)で、
下からは見えませんが大きな基壇の上には広場と3つの神殿があります。 カラコルを表わす神聖文字は3つの丘の神殿を
意味し明らかにカーナ神殿を示しますが、当時の発音は不明で便宜的に音節を読むとオシュ・ウィッツ・ハ(ox witz ha)に
なるようです。
(Estructura B5)
広場 BはグループA の広場 Aと並んで カラコルの中心になり、カーナ神殿を北にして 南に写真の神殿 B5 があります。 B5 の右に見える遺構が B9 で 裏側にある B8 と共に球戯場を形成し、広場東にある大きな建造物は未修復です。
(Templo de Caana)
カーナ神殿は幅 100m、奥行き 120m にもなるようで、高さは NICH (ベリーズ文化歴史局)の資料によると 43m あり、どう
撮ればこの大きさを写真に納められるのか? 斜めから撮ってみましたが、上部神殿は殆ど見えず 100m ある前面も写真から
はみ出します。
(Templo de Caana)
広場南の神殿 B5 まで下がり、基壇を1段登って正面を撮りましたが (B5 の上までは登れません)、結果はあまり変らず、
カラクムルの2号神殿同様、上部神殿が見渡せません。 カラクムルの2号神殿は幅 120m、高さ 45m でしたから、カーナ
神殿は同盟国だったカラクムルの神殿に引けをとらなかったと言えます。
カーナ神殿の威容がわかるのはやはり空からしかありません。 上の方で紹介した カラコル・プロジェクト
caracol.org archaeological project に航空写真が紹介されて
いるので、そちらを参照下さい。 3つの上部神殿 オシュ・ウィッツ・ハの様子がよくわかります。
(Templo de Caana)
カーナ神殿に登ってみます。 最初の幅広の階段を上がると左右に居室跡 B15、B14 が広がり、写真は東側 B14 の一列目の居室跡です。
(Templo de Caana)
居室は一列目の後ろにもう一列続いていて、二列目は前後の厚い壁が屋根の高さまで残ります。 二列目の居室跡の後方からは
神殿が更に上へ伸びています。
(Templo de Caana)
居室跡 B14, 15 を上から見るとこんな具合。 2枚の写真を合成してあります。 一列目の前面の壁は崩れていてこの写真で
確認できるのは後方二列目の居室跡になります。
(Templo de Caana)
ふたつ目の階段を登ると更に2列の居室跡 B17, 16 があり、壁には上が少し閉じたマヤアーチの通路が見られます。下の
B15, 14 の通路も同じ形でした。 写真は西側の B17 です。
(Templo B19)
更に階段を少し登るとカーナ神殿上部の広場に出て、正面に神殿 B19 が姿を現します。 B19 の上部からは 1986年の発掘で
豪華な墓室が発見され、墓室に残された碑文から 634AD にバツ・エク王妃が埋葬されたものとされます。
バツ・エク王妃は 584AD にカラクムルからヤハウ・テ・キニチ王の側室として嫁ぎ、息子のキニチ・サク・ウィッツ(カン二世)は
父王の2代後に即位、バツ・エク王妃自身 息子を後見したと言う、カラコル王朝で重要な人物になりますが、こうした詳しい
王朝史は最近の碑文学の成果によります。 カラコルの歴史は石碑、祭壇のところでもう少し詳しく触れます。
(Templos B18, 19, 20)
神殿 B19 の左右には形の異なる神殿 B18 と B20 があり、少し強引に合成を試みましたが、よく雰囲気が出ていると
思います。 デジタルは便利です。
中央の B19 が一番高く、この上部構造物の高さを足して広場 Bから 43m という事になるようです。 B20 の内部からも墳墓が
4つ発見され、翡翠他の副葬品も数多く見つかり、残された神聖文字から 537AD と古典期前期に遡る墓室もあったそうです。
(Desde B19 hacia Plaza B)
さて、少し素晴らしい景色を楽しみましょう。 B19 の上まで登って見下ろしました。 左右に神殿 B20 と B18、正面には住居跡 B16,
B17 の向こうに広場 B の神殿 B4, 5, 6 が望めます。 そして遠く稜線にはマヤ山脈の山々が。
(Foto panorámica)
3枚の写真のパノラマ合成です。 実際の人間の視野がどの位広いかわかりませんが。
(Desde B19 hacia norte)
神殿 B19 の裏になる北側は緑のジャングルの向こうにやはり稜線が。 写真を撮っていなかったのでビデオの切り出しで
不鮮明ですが。
(Templo B20)
神殿 B19 の上から撮った 神殿 B20。
(Templo B18)
同じく神殿 B19 の上から撮った 神殿 B18 です。
(Templo B18)
神殿 B18 の北側にも広場と住居跡が続きます。
(Templo B20)
そして神殿 B20 の北側にも同様に広場と住居跡が広がります。
カーナ神殿は全体で少なくとも71の区切られた部屋を持ち、マヤ低地では他に例を見ない精巧で洗練された神殿ピラミッドでした。
(Resto de decoración y Altar 16)
復元されたカーナ神殿からは、当時の装飾や彩色は想像出来ませんが、神殿 B18 の階段脇には漆喰装飾の一部が残されて
いました。 ベリーズシティーの博物館には彩色の残った漆喰装飾の断片が展示され、当時の姿を僅かに偲ぶ事が出来ます。
また神殿 B19 の基部には祭壇 16 (多分レプリカ?)がありました。 830AD のカトゥンの終わりを祝ったものでカラコルの
晩年の記念物になります。
(Templo B5)
カーナ神殿はこの辺にして広場 Bに降りますが、降りる前に神殿 B5 を高いところから。 左右に繋がる B4, B6 は居住区
でしょうか。
(Mascarón de B5)
広場 B には沢山の石碑と祭壇がありましたが、破損の少ないものは移動されていて、残っているのは残骸ばかりです。
写真は B5 に近づいて中央階段左の壁面装飾です。
(Mascarón de B5)
こちらは階段右側の壁面装飾、モチーフは水の神、トラロックだそうで、"DO NOT TOUCH" と書いてありますが、オリジナル
にしては保存状態が良すぎる感じがします。 でも作業場ではこのレプリカが作られていましたが…。
(Juego de Pelota del Grupo B)
広場 Bで もうひとつ修復されているのが球戯場で、東側の B9 は小神殿の裏に球戯場の半分が付設され、対になる B8 と
合わさって球戯場を形作ります。 球戯場のマーカーには古典期後期のキニチ・ホイ・カウィール王の即位(798AD)が
刻まれていたそうです。
(Acrópolis Central y Grupo A)
グループ B を後にして南西方向へ進みます。 左手に中央アクロポリスの遺構(写真左、未修復)があり、右手にはグループAの裏側
(写真右)が見えてきます。
(Camp para los investigadores)
その先がキャンプ、地図で CAMP と印してあります。 ここはカラコルの発掘調査の際にスタッフが寝泊りし作業を行う所です。
写真を撮り損ないましたが、この写真の右側に草葺きの屋根が設けられ、屋根の下には石碑や祭壇の石造物が集められていました。
カラコルはその規模も然る事乍ら、残された碑文から 古典期マヤ史を書き換える王朝史が解明されて、注目を浴びています。
石碑は23号まで 祭壇は24号まで発見されていますが、風化が進んでいて解明が困難を窮める中、王朝の創設からティカル、
ナランホとの抗争、カラクムルとの連携等が明らかになってきています。 解明の手掛かりになった石碑と祭壇の一部がこの草葺きの屋根の下に。
(Altar 1 y Estela 1)
カラコル王朝は テ・カブ・チャークにより古典期前期の 331AD か 349AD に創設と されますが、カラコルが絶頂期を迎えるのは
ヤハウ・テ・キニチ二世(在位 553-599AD)の時代で、この王の時代に作られた祭壇1と石碑1がありました。
もともと広場A 建造物 A1 の南に石碑と祭壇がセットで置かれていたもので、写真の通りボロボロに風化していますが、
ヤハウ・テ・キニチ二世が 593AD にあたるカトゥンの終了 ( 9.8.0.0.0.) を記念して作らせたと読み解かれています。 石碑には王の姿が
彫られています。
(Altar 21)
祭壇 21 はカーナ神殿 B19 に埋葬されたバツ・エク王妃の息子、カン二世が 633AD のカトゥンの終了 ( 9.10.0.0.0.) を記念して作らせたものですが、
カラコルの歴史が詳しく記されていたようで、父王ヤハウ・テ・キニチ二世の即位がティカル王の後見の下に行われた事や、その後カラコルが
ティカルの支配を外れたのか 556年にティカルの攻撃を受け、562年になりティカルが決定的な敗北を喫した事等が解読されているそうです。
祭壇 21 の現状は写真の通り割れた部分を繋いであり 屋根で保護されているとは言え表面の磨耗も激しく、どうやって解読
できたのか不思議なくらいですが、話を聞けばその歴史の重さを感じざるを得ません。 祭壇 21 はもともとグループAの球戯場
に置かれていたそうです。
(Altar 2)
祭壇 2 も ここ石造物集積所?に置かれていました。 広場B B5 の前に置かれていたもので、祭壇 21 同様 カン二世の
ものですが、詳細はわかりません。
ヤハウ・テ・キニチ二世はティカル王の後見で 553AD に即位後、556AD にはティカルの攻撃を受け、562AD になると今度は
ティカル王が捕獲され…と言ったこれまで知られていなかった古典期マヤの状況がカラコルの碑文学から明らかになり、
ティカルの敗北はカラクムルとカラコルの同盟によって成し遂げられたと考えられます。
ティカルのその後の一時的な衰退と カラクムル、カラコルの隆盛、またカラクムルとカラコルの婚姻関係などは、碑文学から明らかに
なった古典期マヤ王朝史を裏付ける事柄と言えるでしょうか。
(Altar 23)
カン二世の時代にカラコルは隆盛を続け、カラクムルと共に 631AD には 42Km 北にあるナランホも制圧したようですが、
カン二世を継いだカック・ウホル・キニチ二世は 680AD に逆にナランホに攻略され、カラコルは 100年以上に亘る暗黒時代を
迎えたようです。
カラコルが復権してきたのは 798AD に即位したと思われる キニチ・ホイ・カウィールの時代で、広場Bの球戯場が建設され、
写真の祭壇 23 も B4 の北側に残されていました。 この祭壇には 800AD の年号があり、ウカナルとビタルの王が捕虜として
刻まれていて、カラコルの軍事的成功を示しています。
(Altar 12)
祭壇 12 は 804AD 即位のキニチ・トービル・ヨアートもので、大きく割れていますが彫りが深く見事なものです。
右がヨアート王自身で、左のウカナルの王と会話しているところだそうで、祭壇が作られた 820年にはウカナルの別の王
がカラコルに従属していた様子が窺われます。
古典期終末期には主要なマヤセンターは次々に姿を消していきますが、カラコルも 859AD の文字記録が最後で、遺跡の残像物の
調査からは895AD 頃の火災の痕跡も見つかり、二度に亘って繁栄したカラコルも歴史の舞台から姿を消していったようです。
カラコル遺跡到着のところで準備中の博物館の画像を紹介しましたが、ここにある石造物は新しい博物館へ移されるそうです。
(Fabricando las replicas)
石造物集積所?の一角で、レプリカの製作が行われていました。 左のレプリカは B5 のトラロック像の一部です。 右は
カーナ神殿の漆喰装飾でしょうか。
貴重な漆喰彫刻の風化を避ける為、オリジナルの上に被せる 若しくはオリジナルと付け替えるのが目的のようで、ベリーズでは
こうした修復方法が採られているようです。 ベリーズ遺跡訪問最終日に行ったセロス遺跡では仮面の神殿に真新しい仮面のレプリカが
4つ嵌め込まれていましたが、分かり易いと言うか、情緒無いと言うか。 ラマナイ遺跡でも付け替えの為の仮面が製作中でした。
(Aguada de Grupo A)
さて、石造物集積所で大分足止めされてしまいました。 先を急ぎましょう。
グループA と南のアクロポリス の間に貯水池(Aguada)があります。 カラコルは高地にあり水の確保は重要な問題
で、グループBにも小さめの貯水池がありました。 底に漆喰を厚く塗り込めて水を閉じ込めたようですが、乾季の12月で
水はありませんでした。
(Acrópolis Sur)
貯水池の直ぐ南が 南のアクロポリスで、ここは修復済みです。 貴族の居住区だったそうで、写真はアクロポリスの北側ですが
前面に階段がひろがります。
(Acrópolis Sur)
東側の D7 の上から見ると南のアクロポリスが東西に細長い矩形だった事がわかります。
(Acrópolis Sur)
細長い広場の南側に石造りの居室が多く、部分写真を集めてみました。 マヤアーチの天井と室内にはベンチもあります。
南のアクロポリスからは古典期前期から後期の初めにかけての墓が幾つも見つかっており、古典期前期には既に使用が始まって
いた事になります。
(Estela 5)
南のアクロポリスから北へ貯水池の西側を通ってグループAに入ります。 未修復の A13 の土塁があり、その前に石碑が1本
建っています。 これは石碑 5号で もともと石碑 6, 7 と合計 3本の石碑ありましたが現在はこの石碑 5 のみ残されています。
と言ってもオリジナルはアメリカに持ち出され、これはレプリカのようですが。
(Estela 5 y A13)
3本の石碑は全てアハウ・テ・キニチ二世の後を継いだ 結び目アハウの手になるもので、5号石碑の肖像も 結び目アハウの
ものになります。 613AD のカトゥンの終わりを祝ったもので、集積所で見た 石碑 1、祭壇 1 が 593AD のカトゥン、
祭壇 21 が 633AD のカトゥンでしたから、これら2回のカトゥンの間のものになります。
(Juego de Pelota del Grupo A)
石碑 5 の直ぐ傍に グループAの球戯場があり、グループBの球戯場とほぼ形式が同じようにみえます。 上の方で紹介した祭壇 21
はもともとここにあったものでした。
(Juego de Pelota y replica de Altar 21)
球戯場の西半分の A11 と祭壇 21 の複製。 複製と言っても古色を帯びてそれなりの雰囲気を醸し出していますが、
実物を見た後では…。
(Templo A2)
さて カラコル訪問最後の広場A、と言ってもここは広場Bと並んでカラコルの中心です。
写真は A1 の東側から広場に入り、A2 を斜めから見たところ。 A2 は高さ 25m との事ですからなかなかの大きさです。
(Templo A3)
そしてこちらが広場北側の A3。 A2 も A3 も土砂被りの古い写真を良く見かけますが、現在は綺麗に修復してあります。
(Mascarón de A3)
A3 の中央階段脇には大きな壁面装飾がありましたが、上の方が崩れているので何のモチーフなのか? 太陽神のようにも見えますが、
聞き損ねました。 石で下地を作りその上に漆喰彫刻を施したようですが、残っている漆喰部分も新しく作られたみたい。
(A6, Templo del Dintel de Madera)
広場東側に A4-8 の複合建造物がありますが、写真は木製まぐさの神殿 (Temple of the Wooden Lintel) として知られる
中央部の A6 です。
(Dintel de A6)
階段を登ったところの入口にある木製の鴨居の部分が「木製まぐさ」で、発見時には当時の木製のまぐさがそのまま残されており、
年代測定の結果 100AD 頃のものと判明したそうです。 その後改築を重ねられているにしても、建物が原古典期に遡る事になります。
(Complejo de A4-8)
A6 を含む複合建造物は横長で近くからは写真に納まりませんが、ここは向かいの A2 に登れます。 A2 の上から広角レンズで
何とか全体が撮れました。
左右対称の均整の取れた複合建造物ですが、それもその筈、天体観測に使われたとの事。 グアテマラのウアシャクトゥン同様、
A2 から前面の複合建造物( A-5, 6, 7 )の位置 で春分、秋分、夏至、冬至の日の出が観測されたそうです。
(Estelas 7 y 22)
A2 の頂上にはふたつの石碑が残されています。 倒れているのが石碑 23 で結び目アハウのもの、壁に埋め込まれている方は
カン二世の石碑 22 で、こちらはカラコルで最も長い碑文が刻まれていたそうです。 集積所に集められていないので複製でしょうが、
オリジナルは何処に保管されているのでしょう。
(Templo A1)
広場A、最後に A1。 調査は繰り返し行われていますが、修復途上といった感じで、ここは登れません。
上から見ると神殿前に祭壇や石碑が散らばっている様子がよくわかります、程度の良いものは集積所でしょうが。
(Aguada de Grupo B)
さてさて、今回の旅の目玉のカラコル、見所沢山でした。 グループBの小さな貯水池の南側を通って帰途につきます。
貯水池の向こうにカーナ神殿が。
(Templo de Caana otra vez)
B4 裏側からもう一度カーナ神殿を。 もう一度ゆっくり遺跡をぶらつきたいところですが、ツアーなので帰る時間が
決まっています。
(Regreso a San Ignacio)
駐車場に戻り、用足しと土産物屋を覘いて…。 出発時間は午後2時と決まっていたようです。 またベリーズ軍の先導で
一路サンイグナシオへ。
明日はベリーズ訪問も7日目、目指すは
シュナントゥニッチ です。