(Museo Nacional de Arqueología y Etnología de Guatemala, y Museo POPOL VUH)
グアテマラ2日目、グアテマラシティーから北西へ約60Km のミスコ・ビエホを訪問します。 着いた初日は
国立考古学民俗学博物館 と
ポポル・ブフ博物館 の見学でした。 国立博物館はマヤ・ファン
必見で、ポポル・ブフ博物館もお奨めです。
(Saliendo de la Ciudad de Guatemala, Acueducto y Carretera principal)
ミスコ・ビエホを目指して朝8時にホテルを出発、コロニアル時代の水道橋を横に見ながら通勤ラッシュ
の街中を反対方向へ。 下り車線も内側一車線は上り側に解放されていました。
(Camino hacia Mixco Viejo y Chicken Bus)
シティーを出て30分も走ると民族衣装が目についてきます。 右は名物チキン・バス。 坂道を必死に登ってくる姿は、グアテマラの活力と
活気を感じさせますが、黒煙は頂けません。
(Iglesias de San Pedro Sacatepequez y San Juan Sacatepequez)
途中サン・ペドロ・サカテペケスとサン・フアン・サカテペケスと言う原住民の色濃い街を通り過ぎて行きます。 左がサン・ペドロ、右
がサン・フアンの教会。
(Mercado de San Juan Sacatepequez)
サン・フアン・サカテペケスの教会前広場の市場。 車中からのスナップです。
(Derrumbe, Puente de Río Pixcaya)
ミスコ・ビエホへの道は殆どが上下一車線づつ。 街の渋滞を通り過ぎ、街を出ても道は曲がりくねった坂道の連続、おまけに崖崩れ補修中が
何ヶ所もあり、結局遺跡まで2時間15分かかりました。 チキン・バスに乗ったら大変です。
左は崖崩れ修復中、右は遺跡に近づいてピスカヤ川にかかる鉄橋です。
(Río Pixcaya)
鉄橋からピスカヤ川を覗いてみました。 ピスカヤ川は大河ではありませんが、少し先でモタグア川に合流し、ミスコ・ビエホは両河川に
挟まれていています。 モタグア川はキリグア経由カリブ海に注ぐ重要な交易ルートで、ミスコ・ビエホは交易ルート沿いの要衝を
占めていた事になります。
(Llegando a Mixco Viejo)
ピスカヤ川の先をパチュルムへ向かい、パチュルム手前 13Kmの標識で左へ折れてミスコ・ビエホへ。 ピスカヤ川を渡って5分で
遺跡でした。
(Estacionamiento en Mixco Viejo)
遺跡の駐車場です。 平日の午前中とあって遺跡は貸切状態。 入場料を払いに行くガイドのホセ君の先に遺跡の石組みが望めます。
(Vista aérea por GOOGLE EARTH)
GOOGLE EARTH で空から見たミスコ・ビエホ。 シティーを出てサン・ペドロ・サカテペケス辺りで 2000m を超えますが、ミスコ・ビエホはまた
大分下がって、海抜 880m です。
画像の右下に見える道から北へ折れて遺跡に着きました。 道の突き当りで白く光って見える辺りが遺跡の駐車場になります。
(Maqueta grande a la entrada del sitio)
遺跡に博物館が付設されていると書かれた資料もありましたが、遺跡に入ると大きな立体模型がありました。 屋外で雨ざらしです。
地勢が立体的に作られ、その上に建造物の模型が置かれていて、なかなか良いアイデアです。 立体模型横の壁面には地図が描かれ、
モタグア川とピスカヤ川、周りの集落が示されます。 (地図は南北が逆さで、北のモタグア川が下に。)
遺跡は15のグループに分かれるそうですが、主要部で修復されているのはグループ A から D です。 主要部全てをカバーする地図が
手に入らなかったので、GOOGLE EARTH を頼りに遺跡の見取り図を作ってみました。
アルファベットはグループ名です。 数字は建造物を表し
ますが、参考にした資料が不鮮明な為、番号を振り直した所もあり、必ずしも正式な建造物番号ではありません。
”P" が駐車場で、グループ D からスタートします。
(Grupo B vista desde D-1)
冒頭で「定説…。」と書きましたが、実はミスコ・ビエホについては異説だらけ。 ポコマム族の都と書いてあるものや、初めからカクチケル族
の街だったと書いてあるものもあり、グアテマラ・シティー近郊のミスコの町の存在も混乱を引起こした一因かもしれません。 もともとの
マヤ語の遺跡名も、"Saqik'ajol Nimakaqapek" だったり "Chwa Nima Ab'aj" その後 "Jilotepeque Viejo" と呼ばれ 現在は
"Mixco Viejo" 。
アルバラードによる征服は 1525年だと思いますが、1527年とする資料もあります。 地球の歩き方 09/10年版では 1547年頃の陥落になって
いますが、これは間違いでしょう。
こんな状況ですから、遺跡には入り口の立体模型以外に何も資料がなく、看板は「グループA」、「グループB」…だけです。
以下遺跡の説明は建造物番号が主体になり、この写真は D-1 から見たグループBです。
(Templo D-1 y sus altares)
D-1 の神殿とその前の祭壇。 右端に「グループD」の標識が見えます。
(D-4 en frente y Grupo B vista desde D-2)
D-2 横からみたグループB。 手前は D-4 でその先は谷間です。
(Grupo A vista desde D-4)
同じく、D-2 横からみたグループA。
(D-4)
建造物 D-4。 奥は谷間で、その先にグループBの双子の神殿 B-3が見えます。
(A-9 y A-1, de derecha a izquierda)
谷間を歩いてグループAへ。 写真右手前は A-9、その左の神殿ピラミッドは A-1 です。
(A-8 Juego de Pelota)
南方向から見た A-8 の球戯場です。 谷の斜面から上がった所に作られ、球戯面が周りより低く、掘り込んであります。
マーカーはなく、球戯面の漆喰もありませんが、それ以外はほぼ完全に修復してあります。
(A-8 Juego de Pelota)
北方向から見た同じ球戯場 A-8。 西側の壁の外側は谷間の急斜面になります。
(A-7、A-6、A-5)
球戯場の北東角から見た、A-7、A-6、A-5。
(A-5)
これは上の写真で一番右側に見える A-5 の全景です。
(Indicación de Grupo A)
広場Aを示す標識は、文字が薄れていて近寄らないと読めません。
(Templo A-1)
これが広場Aの中心になる神殿ピラミッド A-1。 4層の基壇の前面には左右に階段がふたつあります。 表面が薄べったい
石の化粧材で仕上げられていて見難いですが、急な階段です。 往時は漆喰で表面が塗られていた筈で、階段の段数は目で見て数えられたと
思いますが。 (^-^)
(Indicación de Grupo B)
グループBへ移動します。 比較的平坦な道だったと思います。
(Pirámides Gemelas B-3)
グループBで一番目につくのがこの双子の神殿ピラミッド B-3。 5層の基壇(基部と上部を加えると7層)の前面に階段がついた
神殿ピラミッドが二つ並びます。 かなりの急傾斜ですが、手前のピラミッドに登ってみました。
(Vista desde B-3)
B-3 の上から見た B-4 (写真左)と、その左側、B-6~8 (写真右)です。
(Vista desde B-3)
更にその左に B-1 の球戯場と B-2 があり、隣の双子の神殿の上部に続きます。(写真左) 階段のステップ数は 20段ですが、
この急勾配。 ステップの幅も狭く、恐る恐るゆっくりと降ります。
(B-3 desde B-2)
B-2 上から見た双子のピラミッド。
(Juego de Pelota B-1)
これは B-2 の端からみた B-1 球戯場。 グループAの球戯場より大きさも深さもある立派なもので、球戯面にはまだ漆喰が残り
ます。
(Juego de Pelota B-1)
球戯場の球戯面に降りてみました。 下からだと球戯場の大きさが更に実感できます。
(Marcadores del Juego de Pelota)
球戯場の両側壁中央には蛇の口から人の顔が現れた彫刻がマーカーとして置かれています。 両方ともレプリカのようですが。
(Vista hacia Grupo C)
グループBはこの辺にして、グループCへ向かいます。 グループBの南端から南西方向にグループCを取り巻く外壁が見えてきます。
(Lado este de C-4)
グループBから南へ向かい西に回り込むと、見えてきたのがこの建造物、C-4 の東正面です。
(Indicación de Grupo C)
C-4 を登り後ろ側に出ると、ここがグループC で 標識がありました。
(Vista desde C-4 hacia noreste)
C-4 の上から北東方向を見返したパノラマ画像、左隅にグループBの双子の神殿が見えます。
(Grupo B, vista desde C-4)
C-4 の上から見えるグループBを少しズームしてみました。 グループCの方が髙い位置にあり、グループBを見下ろす感じになります。
(Lado trasero de C-1)
C-4 から西側に見えるのが神殿 C-1 で、これは背面です。
(Lado frontal de C-1)
こちらが C-1 の前面で、階段と壁面の一部にはまだ塗られた漆喰が残ります。
ミスコ・ビエホの発掘は 1954年から 1967年に行われ、その後一部が修復されたとの事ですが、この C-1 の正面は当時のまま残ったものの
様に見えます。 上部構造は崩れているので当時の姿がよくわかりませんが。
(C-6)
C-1 に向かい合ってC-6 があり、ここは鉄条網で柵がしてあります。
(C-6)
C-6 を横から見てみました。 中央の階段は漆喰がそのまま残り、その左右は石を積み始めた所で修復がストップしている感じです。
手前に置いてある石材で修復を進めるのかもしれません。
(Valles y barrancos)
グループCの北西端から北方向を見ると深い谷になっていて、グループBとグループAは右側の丘の上でした。 谷を登って攻め込むのは
難しそうです。
(Muralla de Grupo C)
グループCの北側は石材で頑丈な外壁が作られています。 大きな建造物を作るよりも大きな土木工事だったでしょう。
写真中央奥に見えるのがグループBです。
(Desagüe de la muralla)
外壁の下の方には雨水を逃がす為の排水溝が設けられていて、外壁が崩れないよう配慮が為されていたようです。
(Vista desde Grupo C hacia oeste)
グループCの更に西にグループEがあります。 右側の丘の上がグループEで、左側の丘陵の中腹に見える白い建物辺りから
アルバラードの軍隊が侵入してきて、このグループEが最初の激戦地になったそうです。
ミスコ・ビエホの人口は1万人に達していたそうで、高地に陣取ったカクチケル族は弓矢や投石等で必死に抗戦した為、アルバラードの
征服軍は3ヶ月を超える包囲戦を強いられたようです。
(Grupo E)
グループEは私有地になるそうで、午後の予定もあり、ここから引き返す事にしました。
(Muralla y escalera del Grupo B)
グループBの南の谷を抜けて駐車場に戻ります。 これはグループBの東側の外壁で、球戯場と B-2 の裏にあたる外壁にはそれぞれ
階段があります。 ゆっくり登るには問題ありませんが、ここから攻め入るのは難しそうです。
(D-5 y D-6)
来た時と別の道を通り、グループDの D-5 とD-6 に出ます。 D-6 は急階段の方形ピラミッドで、A-3、B-1 と同じ様式ですが、一番
小振りです。
(Altar moderno y D-6)
D-6 の前には現代の祭壇がありました。 休みの日には周辺に住むマヤの末裔の人達が香を焚いて祈りを捧げる場所でしょう。
(Cantaros de Mixco Viejo exhibidos en el Museo Nacional))
遺跡には併設の博物館はなく、ミスコ・ビエホからの出土品は見れませんでしたが、前日に訪れた首都の国立考古学民俗学博物館には
ミスコ・ビエホからの展示品が幾つかありました。 後古典期ミスコ・ビエホ出土の甕(写真の2点)とだけ説明があります。 ウタトゥランの
甕にも3つの穴が開けられていて、副葬品として埋納される時に役割を終えた標として穴を開けられたようです。
ミスコ・ビエホの滞在は2時間弱。 遺跡は広いのでグループA-Dでもこれだけ時間が掛かってしまいます。 周辺部ももう少しまわって
出来れば寝転んでゆっくりもしたいところですが、午後は
カミナルフユ に行く予定にしており、
早々にミスコ・ビエホを後にする事に。
ミスコ・ビエホはグアテマラで初めて訪問する本格的な後古典期のマヤ遺跡でした。 強力な王権を背景に、重厚な建造物を築き上げ、
歴史を石碑等に刻んだ 古典期の遺跡と比べると多少面白味が薄れますが、スペイン人に攻め滅ぼされた遺跡がどのようなものだったのか、
一度行ってみたいと思っていました。 まずは納得です。