PUEBLA
プエブラ州
1531年に創設されたプエブラ市を州都とするプエブラ州には、テオティウアカンの時代から大都市だったチョルーラ遺跡や テオティウアカン衰退前後から大規模な街を形成したカントーナ遺跡等があります。
CENTRO HISTÓRICO DE PUEBLA
プエブラ歴史地区
プエブラの旧市街は世界遺産です。 遺跡ではありませんが、ホテルの10階から撮った良いアングルの写真があった ので…、ドームと2本の塔、プエブラの大聖堂です。 右の写真は中央広場通路のアーチ越しに撮った大聖堂。 プエブラ市はメキシコ市と共にメキシコで最も古いスペイン人の町です。
CHOLULA
チョルーラ
チョルーラ遺跡はプエブラ市郊外西 7Km にあります。 遺跡の博物館にはチョルーラの大ピラミッドの復元模型があり、繰り返し新しい建造物が積み重ねられ最後にフランシスコ会の 教会が建てられた様子がわかります。 ピラミッドは最大 400m四方の大建造物で、テオティウアカンの太陽のピラミッドより更に 大きなものでした。
1967-71年の調査ではピラミッド内部に全長 6Kmに及ぶトンネルを掘りめぐらして古い建造物を調べていきました。 その結果 少なくとも4度にわたり大規模な建増しが繰り返された事が判明、写真左はトンネルから土砂を運び出す為に使われた トロッコです。 博物館を出て写真の階段を登りピラミッドのトンネルへ。
このトンネル、実は一部が観光用に開放されているだけで、奥深くへは行けません。 運良く州政府の高官の紹介で INAH の方に 案内して貰いました。 奥深くは全くの漆黒の闇で全員懐中電灯持参です。 壁画の写真はお願いしてフラッシュを焚かせて貰いました、 秘蔵写真です。
壁画の図案は2匹のバッタが顔を付き合わせてひとつの髑髏になっており、紀元200年前後に一番初めに築かれたピラミッドの側壁 を飾ったものです(博物館の模型の内側のピラミッド)。 ピラミッドはタルータブレロのテオティウアカン様式で建造もテオティウアカンと同時代。 トンネルは古い建物沿いに掘り進められ、建物角は右の写真のように更に垂直に掘り進めて確認が行われています。
最後の5層目のピラミッドは表面の石材が失われ写真の通り現在は単なる小山の上に教会が立っているという状況で、博物館の 復元模型の外壁は4層目のピラミッドのものになります。 ケツァルコヨトル神信仰の中心だったチョルーラは 8世紀頃衰退した後も 崇拝の対象で 小規模に居住が続き、写真右のような後古典期の埋葬跡もあります。
大ピラミッド南側の広場には当時の建造物(五層目?)が発掘修復され、石碑や石像もあります。
トラロックのような石像があり、外壁には綺麗な雷紋の装飾も回復されています。
そしてこれはピラミッド南西側の建造物。 屋根の下に雷紋と彩色された側壁があります。
一般の見学コースから見れる側壁はここまで。 実は横の扉の奥に興味深い壁画があります。 この壁画を見てみたいと思って 州高官に頼んでいたのでした。 扉は施錠されています。
扉を開けて中に入ると、有名な「BEBEDORES(飲む人)」の壁画がありました。 1969年に発掘の過程で壁が崩れて偶然発見されたもので、 80年代初めまで公開されていましたが、その後壁画保全の為に非公開にされたそうです。 写真は 56m ある長い壁画の中で一番有名な 部分で、蟻のような顔をした奇妙な人が器を掲げ、横の小さく描かれた人はプルケの入った容器を支えています。
酒を飲んで酔った状態で神々と交信している祭礼を描いたものとされ、ユニークで考古学的にも重要な壁画で、メキシコ市の 人類学博物館に複製が展示されています。 でも実物とは迫力が全然違います。 酒はプルケと言われ、テキーラの原料にもなるマゲイから蜜水を抽出して発酵させたものです。
建物の出っ張りとその左右の壁に 56m にわたり描かれている壁画には、祭礼の様子が活き活きと描かれ 幾何学模様以外は 繰り返しがありません。 擬人化された人、マスクを被った人、ターバンを巻いた人、全て帯をつけただけの裸で、プルケで 宴会を楽しんでいるようです。 人の数は 110人と酒を入れた器は 168個あるそうです。
これは壁画の南側部分で かなり傷んできているようですが、紀元200年頃の壁画がこれだけ残っているのも驚きです。 右側の写真は 上の博物館の複製と同じ部分で、右下は耳飾りを付けた若者。
壁画上下の帯には菱形や花模様、更に上の帯には金星をあらわす星型が描かれています。
BEBEDORES の壁画は地表に近く薄明かりが射すのでフラッシュ無しで何とか写真を撮りました。
滅多に見る事の出来ない貴重な壁画を目にする事が出来、幸運でした。 ピラミッドの上の教会、そして手前の屋根の下が BEBEDORES の壁画でした。 写真右は大ピラミッドの古い時代の西側正面が修復されたもので、あまりに人工的な修復と の批判があります。
チョルーラの隆盛は 100-700年頃で、オルメカ-シカランカ族、チチメカ族、トルテカ族等の存在が指摘されますが、700年頃から 衰退の道を辿り、大規模な建設は行われなくなったようです。
CANTONA
カントーナ
プエブラ州中西部 ベラクルス州に近い原野にあり、道に迷いながら必死の思いで到着しました。
テオティウアカン衰退に時を同じくして勃興した都市です。 本格的発掘が 1992年からで あまり有名な遺跡ではありませんが、 とても規模の大きな遺跡です。
発掘・修復は一割弱で詳しい解明はまだですが、12K㎡に及ぶ大遺跡だった事が判明しています。
自然の地形を生かし3000以上の中庭が500本以上の道で結ばれた大都市で8万の人口がありました。
発掘されたのは遺跡の南部で貴族層が住み祭礼も行われたアクロポリスを中心とした所です。
球戯場が全部で24面確認され その数はメキシコ・中米の遺跡の中でも群を抜いています。
火山地帯にあり 玄武岩を加工し積上げる独特の建築法で、漆喰等の接着材は使用されていません。
とにかく広場に道路、球戯場にピラミッドで、変わり映えしませんが、この辺りがアクロポリス東端です。
中央高原とカリブ海岸の中間で、黒曜石の開発流通を抑えテオティウアカン没落の遠因を作ったとも言われます。
どういう民族だったか不明ですが、恐らく多民族だったでしょうか。 10世紀を越える頃、トルテカ人の隆盛に伴い 没落していったようです。
YOHUALICHAN
ヨウァリチャン
ベラクルス州の有名なタヒン遺跡とそっくりの遺跡。 辺鄙な所でとうとう行けず仕舞いでした。
知合いのメキシコ人が写真を撮ってきてくれたので、自分の写真ではないですが折角なので。
直線で 60Km のタヒンと同様、トトナカ人が古典期に築いた遺跡でタヒンと同様の歴史のようです。