OAXACA
オアハカ州
サポテカ文化、ミシュテカ文化が有名なオアハカ州は、現在でも先住民の人口が多く、遺跡も数多く残されています。 世界遺産に登録されているモンテ アルバン遺跡が最も有名で、1部ではモンテ アルバンの前身とも言われるサン ホセ モゴーテ 遺跡、そしてモンテ アルバン、更にセロ デ ラ カンパーナを紹介し、モンテ アルバン衰退後に最盛期を迎えるミトラ遺跡他を 2部で紹介します。
OAXACA I
SAN JOSÉ MOGOTE
サン ホセ モゴーテ
あまり知られていない遺跡ですが、サポテカ発祥の地とも言える極めて重要な遺跡です。 州都オアハカ市の北 15Km オアハカ盆地 の田園地帯エトラ谷にあり、申し訳程度の遺跡表示が手がかりです。
1960年代半ばから科学的調査が行われ、モゴーテでの居住が紀元前 1000年以前に遡る事が解明されました。 下の方の写真の土偶 (3人の女性の立像と下にひっくり返った1人の坐像)は 1150BC-850BC と3000年も前のものだそうです。
モンテ アルバンに匹敵する規模の大きな街だったようで 写真の建造物Ⅰのみ発掘されていますが、650BC にかけて 建造されたものとの事、驚きです。 ここでは日付の文字と共に捕虜の生贄が浮き彫りされた石碑3号が発見され、日付の掘られた石板 としてはメゾアメリカで最も古いものとされ、モンテ アルバンの有名な踊る人の石板はこの流れを汲むものと思われます。
北向きの中央階段を登ると基壇の上はところどころ建物跡が残ります。 モゴーテの一部の人々が 500BC 頃からモンテ アルバンへ 移り街の建設を始めたと推定されており、200AD 位までモゴーテもモンテ アルバンも共存しますが、その後モゴーテが衰退、 モンテ アルバンが隆盛を迎えます。
モゴーテには火災の痕跡も見つかり、モンテ アルバンとの権力争いに敗れたのではとの推測もあります。 私有地買収を含め 遺跡保全の努力はあるものの、建造物Ⅰも民家に隣接して基壇上には民家の家畜も放し飼い…。
建造物Ⅰの近くに球戯場跡と思しき遺構がありました。 そして村の博物館、閉まっていましたが何とか管理人を捜し出して 中に入る事が出来ました。 国宝級の遺物が村の博物館に! 唖然です。
左の写真は上で説明した 1150BC-850BC の土偶。 中央が同じく上で説明した メゾアメリカで最古とされる文字が刻まれた石板です。 右の緑の立像は 200AD 頃の 50cm以上ある立派なもので、一部赤い 彩色が残ります。
同じくモゴーテから発掘された骨壷(左)とボラドール(飛ぶ人)の塑像。 200AD 頃の サポテカ芸術の水準の高さが窺われます。
真っ赤な辰砂が残る人面像、モゴーテの貴族でしょうか。 右は案内してくれた管理人。
この人面像の発掘現場に居合わせたそうです。
オアハカからの帰り道に何気なく寄って見た遺跡ですが、とんでもなく重要な遺跡で
ただただビックリでした。
MONTE ALBÁN
モンテ アルバン
サポテカ人の都、モンテ アルバン、1987年に世界遺産に登録された壮大な都市遺構です。 500BC 頃から街の建設が始まり、100BC - 250AD 頃に中心部の建造物が築かれ、250AD 以降に都市が完成してテオティウアカンと並ぶ大都市となります。 800AD 頃から衰退して二級の センターになりますが、後古典期後期にもミシュテカ人の痕跡等も認められ、スペイン人到来まで街は維持されたようです。
北から見た遺跡の全景。 南から見た遺跡の全景
オアハカ市の西 8Km で多くの観光客を集めます。 写真左は遺跡の入口で併設の博物館があります。 写真右は北の基壇の北側。
北の基壇は 250AD 以降 テオティウアカンの時代に築かれたもので、テオティウアカン様式のタルータブレロも見られます。
北の基壇の北側には墳墓が幾つも見つかっていて以前は墓室迄降りられましたが、現在は遺跡保全の為に閉じられています。 墳墓 104 はメキシコ市の考古学博物館で複製(写真)が見られます。
墓室が見つかったところは建物の基礎を残すだけで地上面に鉄の扉が取り付けてあります。 写真右は北の基壇の複合体のひとつで ピラミッドに囲まれて中庭があります。
北の基壇に登ると遺跡の南側が見渡せます。 写真右は北の基壇にある Patio Hundido(沈んだ中庭)です。
北の基壇南側に中央広場が広がり、広場の北側、北の基壇下に図像の刻まれた石碑があります。
北側から見た建造物G、H,I,J(左)とシステムIV(右)、共に 100BC - 250AD の古い時期の建造物。
中央広場西側の 踊る人の建造物。 地下建造物は 100BC に遡るモンテ アルバンで最も古い建造物で、内部と南側に浮き彫りの 石板が並びます。 生贄にされた捕虜を刻んだもので、オリジナルは入口の博物館に展示されています。
南の基壇北側の階段(左)を登ると南の基壇上に大きな建造物(右)が残ります。
唯一南北の機軸から外れて北東に階段がある建造物J(左)。 鏃の形をして先端(右)が南西向きです。 天文観測に用いられた と推定され Observatorio(天文台)の別名があります。
北の基壇に戻り南側の階段(左)と基壇南東角にある浮き彫りの残る部屋(右)。 内部の浮き彫りの実物は入口の博物館に展示 されています。
最後に広場北東角にある大きな球戯場(左)。 球戯場の西側マウンド上には石碑が聳えます(右)。
MUSEO DEL SITIO
モンテ アルバン遺跡併設博物館
併設の博物館は「踊る人」の石像の展示が充実しています。 メキシコ市の人類学博物館にあるものは複製ですが、ここは実物は。
踊る人とは彫られた人が踊っているように見えた為につけられた異名で、実際はサポテカ族に生贄にされた別部族の捕虜を 彫ったもので、裸にされ去勢されているそうです。
異民族征服の記念であるとか、先祖に捧げたものとか、いろいろ解釈はあるようです。
この浮き彫りは北の基壇南東角の部屋に置かれていた石碑の実物です。
遺跡の博物館には石造彫刻の他、土器、土偶等も展示されていますが、墳墓から回収された黄金の副葬品はオアハカ市内の文化博物館に 収められています。
MUSEO DE LAS CULTURAS DE OAXACA
オアハカ文化博物館
オアハカ市内のサントドミンゴ教会はモンテ アルバン遺跡と併せて世界遺産になっています。 教会の左側に元修道院の入口が あり、ここが現在はオアハカ文化博物館になっていて、オアハカ州の過去の文化が広く紹介されています。 写真右はサントドミンゴ 教会の主祭壇。
博物館はコロニアル時代の修道院なので展示品以外にも建築と装飾に見るべきものが沢山あります。 左は中庭の噴水、右は天井の 豪華な装飾です。
モンテ アルバンはサポテカ人の都でしたが、800AD 頃の衰退後ミシュテカ人が入り、多くの副葬品を伴った墳墓は後古典期の ミシュテカ人のものが多いようです。 1932年に発見された第7墳墓もミシュテカ人のもので、黄金の副葬品は博物館の目玉です。 コスタリカ方面から金細工製法が伝わったと言われますが、ロストワックス製法や打ち出し製法に金糸を用いて 素晴らしい出来栄えです。
これはオアハカではなく、メキシコ市の人類学博物館にある第7墳墓の再現。 黄金のマスクは 10cm 位の小さなもので、右の 拡大写真の真ん中に写っているものです。 Xipe-Totec神を模ったもので、この神は生贄の皮剥ぎを要求した恐い神様だそうですが…。
ついでにメキシコ市の人類学博物館にあるモンテアルバンからの展示物。 サポテカ文化は煌びやかなミシュテカ文化と比べると 地味ですが、荘厳な趣きです。
CERRO DE LA CAMPANA
セロ デ ラ カンパーナ
1985年にサポテカの素晴らしい彩色壁画が発見された遺跡で是非行ってみたいと思っていましたが、オアハカの遺跡めぐりの帰途探して 見ました。 Huijazoo の名前で探し、道行く人に尋ねながら行きつ戻りつ、Suchilquitongo の村で博物館を見つけてやっと遺跡の 所在がわかりました。 教会の横から砂利道を上り詰めると丘の上にお目当ての遺跡がありました。
モンテ アルバンの最盛期、北西のミシュテカ人に対する前線基地の役割を果たしたようです。 スチルキトンゴとウイハソーの 二つの村の境界の小高い丘にあるので、文献では同じ遺跡に二つの名前が混在しますが、十字架が置かれた鐘の丘 (Cerro de la Campana) の名前も用いられ、両村痛み分け。
さて肝心の極彩色の壁画は? しっかりした屋根が取り付けられ、鉄の赤い蓋がしてあります。 殆ど誰も来ませんが INAH の係員 は常駐していました。 でも扉は施錠してあり鍵はオアハカ市に有るとの事、壁画のご対面は適いませんでした。 折角ここまで 辿り着いたというのに。 泣く泣く麓のスチルキトンゴ村博物館へ。
村の博物館とは言え、壁画のある墳墓が一部再現され、発掘されたものも展示してあり、それなりに立派な博物館でした。 この遺跡に行くなら必ず寄るべき博物館です。
墳墓は丘の上の屋根の下でしたが、当時の貴族の館の地下に設えられたもので、サポテカの墳墓としては最も規模が大きく、モンテアルバンの墳墓も凌ぐそうです。 それだけこの遺跡の重要性も高かったようです。
墳墓の内部は写真パネルで紹介されていました。 実物代わりにパネルを写真に撮って来ました。 パネルでも写真にしてしまう と実物を撮ってきたように見えますが、写真の写真です。 墳墓は 700AD 頃に築かれたそうです。
博物館には遺跡からの石碑や土器の類の展示もありましたが、サポテカ文化の粋を集めた壁画の実物を是非見てみたいものです。
2部では ZAACHILA, DAINZU, LAMBITYECO, YAGUL, MITLA 遺跡を紹介します。
OAXACA II
オアハカ2部はモンテアルバンの南にあるサーチラ、東部のダインツ、ランビトゥイェコ、ヤグール、最後にこの写真の ミトラ遺跡です。
ZAACHILA
サーチラ
素晴らしい副葬品と漆喰壁画が残された墳墓で有名なサーチラ遺跡はオアハカ市南 15Km のサーチラ谷にあり、モンテ アルバンの衰退後に 繁栄を迎えサポテカ人の主要都市のひとつになりました。 後古典期になるとミシュテカ人の侵入が頻繁になり、戦争や婚姻を 通じてサポテカ人地域へミシュテカ人の浸透が計られたようで、サーチラの副葬品にもその影響が見られます。
遺跡は植民地時代の町に取り込まれ現在はその主要部を残すだけで遺跡の広がりは定かではありません。 日干し煉瓦が多用されたようで、 地下墳墓を除いて石造建造物は殆どなく、写真右のマウンドAに地下墳墓1と2が口を開けます。
墳墓1と2の写真を並べてみました。 左側が墳墓1、右が墳墓2で、作りは殆ど同じですが保存状態の良いのが墳墓1の方です。 どちらもセロ デ カンパーナの墳墓を小さくした形で、降りると前室がありその奥が玄室です。 250-650AD のサポテカ人の時代に作られたもの ですが、その後何度か使い回しされ、最後はミシュテカの支配者が埋葬されたようです。
ここからは壁面に漆喰装飾が残る墳墓1の写真です。 前室左右の側壁にミミズクの装飾(写真左)があり、奥の玄室(写真右) にさらに壁面装飾が残ります。 言い忘れましたが、墳墓内は照明があり、入場料を支払うと係員が墳墓へ案内して照明を点灯 してくれます。
前室のミミズクの装飾の拡大写真と、右は玄室突当りの壁にある亀の甲羅から手足頭を出した人物。
玄室左右の側壁に亀人間を囲む形で一対の人物像があり、それぞれ「5花」、「9花」と
記されています。
玄室左右の側壁、前室寄りにやはり一対の、こちらは骸骨の頭をした像が描かれています。
現在のサーチラ遺跡の全景。 前述の通り石造建造物は殆ど無く土のマウンドが広がります。
遺跡の北側(写真左)と、お決まりのコロニアル時代に築かれた教会(写真右)。 遺跡に有った石材は教会の建築に転用 されたのかもしれません。
墳墓1、2からは遺骨と共に金銀、クリスタル、多彩色土器等の多くの副葬品が回収され、主だった出土品がメキシコ市の 人類学博物館に展示されています。 幾何学模様の施された直径 10cm ほどの小さな器の縁には青く彩色されたハチドリが とまっています。 太陽神の化身であるハチドリが 捧げられた血をすすっている場面、との事ですが、後古典期のミシュテカ土器の最高傑作 でしょう。 写真右の彩色土器もサーチラからのもので、爪の出たジャガーの足を持つ三足土器です。
DAINZU
ダインツ
オアハカ盆地には北のエトラ谷(モゴーテ)、南のサーチラ谷、そして東にトラコローラ谷があり、500BC 頃に3つの谷の間の丘 にモンテ アルバンが築かれましたが、ダインツの建設はモンテ アルバンより古く 700-500BC とされ、モンテ アルバン以前に トラコローラ谷の中心的なセンターだったようです。
ダインツは 1000AD 頃までは維持されたようですが、最盛期は4世紀頃までのようで、現在残る遺跡も多くはこの時代のものと 思われます。 東側の高台に写真のA地区があり、三層の垂直の基盤の正面に幅広の手すりが付いた階段があります。
A地区西側にはB地区の住居跡が広がります。 墳墓も4つ発見され墓室入口(写真左)の鴨居にジャガー彫刻が残る 墳墓もあります。 A地区の手前(写真で屋根の付いた所)には球戯のプレーヤーを彫刻した石板が嵌めこまれた部分があります。(写真右)
球戯プレーヤーの石板。 かなり風化が進んでいますが、全身防具をつけた競技者の躍動的な場面が刻まれています。
球戯を司る神官の浮き彫りと、ダインツの球戯場。 球戯場は南のマウンドだけ修復されています。
LAMBITYECO
ランビトゥイェコ
ダインツ遺跡の東寄り、オアハカ市から 31Km の国道沿いにあるランビトゥイェコもモンテ アルバン建設以前からの古い街だ そうですが、その最盛期はモンテ アルバンの勢力が衰え始めた 600-750AD 頃とされます。 現在残る遺跡の規模は大きく ありませんが、モンテ アルバンの支配が弱まり中規模センターが割拠した時代を反映して、ランビトゥイェコの支配者の面影を 偲ばせる墳墓があります。
国道沿いにある遺跡の入口(写真左)と建造物 195 の東に広がる住居跡(写真右)、ここに祭壇と地下墳墓があります。
左の写真は一般の見学コースからの写真ですが、係員に無理を言って(鼻薬を効かせて)墳墓に近寄らせて貰い撮ったのが 右の写真。 一般コースからは墳墓の入口が見下ろせません。
住居内にある祭壇と、地下墳墓(墳墓6)の拡大写真。 ここに4世代にわたる支配者の名前が登場します。 最後の支配者は 「8死」、その妃が「5サトウキビ」で祭壇中央に漆喰装飾で表されていたと推定されています。 祭壇下左(写真下左)は その曽祖父母で「4顔」と「10猿」、右(写真下右)が祖父母の「3トルコ石」と「8ミミズク」を表したものだそうです。 地下墳墓の鴨居装飾(写真上右)は先代つまり父母の「1地震」と「10サトウキビ」。 全てサポテカ芸術の傑作です。
直ぐ東側にもうひとつの住居跡があり、祭事を司った高僧(恐らく支配者の弟)がいた場所と想定されます。 コシホの中庭と 名付けられた中庭があり、西側の祭壇(写真左)に一対の漆喰装飾、反対側(東側、写真右)に墳墓2があります。
コシホはサポテカの雨と雷の神で 祭壇左右の一対の漆喰像で表されています。 大きな頭飾りの他、耳飾、胸飾り、そして 目、鼻、口にも被り物が施されています。
建造物 195 は大きな広場と祭壇(写真右)を伴い、建物壁面には後古典期特有の雷紋(写真左)も一部認められますが、 後古典期後期は部族間の紛争が頻発しランビトゥイェコは放棄され 5Km先のヤグールに移り住んだと言われます。
YAGUL
ヤグール
遺跡に残る建造物は 750-1500AD に作られたそうですが、トラコローラ谷の他のサポテカ中心センター同様、モンテ アルバン の衰退に伴い勃興し、モンテ アルバンからも人々が移り住みました。 隣のミトラが 1000AD 頃から隆盛になる為、トラコローラ谷の サポテカの地域の中心はヤグールからミトラへ移っていったようです。 モンテ アルバン衰退後、北西からミシュテカ人が侵入し、 ヤグールの建築にも一部ミシュテカの影響が見られます。
遺跡に入った所(写真左)と、北にある丘から見下ろしたヤグール遺跡(写真右)、6つの中庭のある宮殿は下からだと迷路ですが、 上から見ると6つの中庭がよくわかります。
遺跡の入口付近から南の一段下がった所に中庭4があります。 覆いの下に蛙の石像彫刻がありますが、ボロボロに風化して いて言われないと蛙に見えません。
中央の祭壇を挟んで蛙の反対側に墳墓の入口があります。 墳墓に下りると、壁のパネルに幾何学模様があり、左右に一対の頭 の彫刻が嵌めこまれて、ミシュテカ風との事です。
中庭4に続いて北西側に球戯場があります。 500-700AD に作られ 700-900AD に今ある大きさに拡張されました。 球戯場の北西にある 通路(写真右)の側壁に やはりミシュテカ風の雷紋が残ります。
6つの中庭のある宮殿は6つの中庭を持つ一つの宮殿ですが、通路が複雑に入り組んでいて迷路です。 迷ったら壁の上を 乗り越えられますが…。 住居に墳墓が設けられ、宮殿の中に幾つもの墳墓があり、装飾の雷紋も認められます。
MITLA
ミトラ
ミトラの繁栄は 1000AD 頃からスペイン人の到来までで、ミシュテカの影響を受けた独特の文化を開花させた興味深い遺跡です。 ミトラでは5つのグループが確認され、最も古い南のグループ、アドベ(日干し煉瓦)のグループは、あまり見るべきものは 無いようです。 ミトラ川の支流沿いのアロヨ(小川)のグループも壁面装飾が殆ど無い廃墟、有名なのはカトリック教会のグループと 柱のグループです。
南北に3つの中庭を持つカトリック教会のグループは南側の中庭に教会が建てられ一部破壊されていますが、中央の中庭を中心に 幾何学模様の壁面装飾を持つ建物跡が残されています。
中央の中庭の外側、東側面(写真左)と、中の様子(写真右)です。 壁面上部に壁面装飾があり、アロヨのグループと共に ミトラ繁栄時初期の建造です。
モザイク彫刻がある壁面上部の下側には、帯状に描かれた壁画の一部が残ります。 ミシュテカ初期王朝の王達が描かれて いるようですが、ほんの小さな部分で注意していないと見落としてしまいます。 教会のグループは教会に付属している為か、入場料 の支払いは無く、自由に見学できます。
教会の南側は色とりどりのオアハカの民芸品を売るマーケットになっていて、その南側に柱のグループがあり、ここで入場料を徴収 されます。 中庭を住居が取り囲む矩形が斜めに二つ繋がりますが、北東側の保存状態が良く、ここが見所です。 写真は西側 の側壁です。
入口は南側に面して中央に階段があります。 側面下部は赤く塗られていますが、オリジナルの彩色なのか??? 写真右は 中央階段左側の拡大です。 柱のグループはモザイク彫刻が一番綺麗に残っていますが、ミトラでは最後に作られたグループとの 事です。
そして中央階段の拡大(写真左)、入口の2本の幅広の柱の中にも幾何学模様が嵌め込まれています。 中央階段の右側(写真右) は左側とシンメトリックになっていますが、幾何学模様は異なります。
中央階段を登り中に入ると列柱の広場(写真左)があり、大きな岩から切り出された継ぎ目の無い6本の柱が並びます。 列柱の広場の奥に4面が豪華にモザイク彫刻された中庭(写真右)があり、東西北面は同様にモザイク彫刻のある個室が 繋がっています。 支配者階級の特別な場所だったようです。
異なるモザイク彫刻のデザインを集めてみました。 他にも幾つか違うデザインもあるようですが、大半はこのモティーフを 組み合わせて作られています。 それにしても直線に一部曲線を組み合わせた シンプルかつ洗練されたデザインです。 赤い塗色 が残るものもあり、彩色された当時の威容は如何ばかりだったでしょうか。
南西側の矩形はかなり崩壊してしまっていますが、一部壁面装飾が残ります。 中庭の傍らには墳墓の入口もあり、中へ降りられました。
ミトラはオアハカ市から東へ 43Km にあり、ダインツ、ランビトゥイェコ、ヤグールと見学してくると最後の遺跡です。 スペイン人到来の直前にはメシーカ(アステカ)に敗れて属国になりますが、その影響を強く受ける事無く、サポテカ、ミシュテカ 文化が残る事になりました。