ベカンは 1934年に発見され、遺跡を取り巻く濠の存在から、人工の水場で要塞が作られていたと考えられ、ユカテク・マヤ語で
「水で形作られた谷間」 を意味する 「ベカン」 と命名されました。 そしてベカンはリオ・ベック様式で古典期後期に繁栄期を迎えた
要塞都市だったと言う見方が定着していきます。
その後 1969年に調査に着手し、80年代、90年代と調査・発掘が継続しますが、1999‐2001年の測量を伴う本格的な発掘・修復活動の結果、
従来からのベカンの定説は根本から見直される事になります。 濠も外敵からの防御ではなく雨期の氾濫を防ぐ治水が目的だったと…。
ベカンはチェトゥマルとエスカルセガを結ぶ国道186号沿いで、シュプイルから西へ 7Km、チカナから東へ 3Km とアクセスが非常に良く、
リオ・ベック地域の中心都市として必見です。
(訪問日 2002年1月5日、2006年11月20日、2013年1月15日)
(Area de entrada de Becán)
国道186号を北へ折れて 500m位で遺跡到着です。 写真は入場料を支払い遺跡に入った所で、正面にベカンの地図があり、左へ行くと風化した石碑が
置かれていて、右の小道の先が遺跡です。
(Pasillo "6" sobre el foso)
ベカン中心部を囲む濠には7つの通路が設けられていましたが、現在は下の地図の 6 と 7 の通路が残され、写真は入口の先にある 通路 6
です。 資料によると通路の大きさは 長さが 12m から 18m、幅は 2.5m から 4m なので、通路 6 は大きな方になるようです。
(Foso seco al lado de Pasillo "6")
これは通路から右側を見下ろした所で、濠と言っても水の無い 空濠です。 濠の幅はおよそ 16m、全周が 1900m 近くあり、深さは 2.5m 位
になるそうです。
濠の内側に城壁のようなものもあり、防御の為に作られたと考えられていましたが、綿密に地形を精査した結果、北から南への高低差が確認され、
中心部を雨期の氾濫から守る為に人工の濠が築かれ、雨水を南へ流していたと考えられるようになりました。 濠の作られた時期が、
マヤ混乱期だった古典期終末期ではなく、先古典期末には既に存在していた事もわかり、この点も治水説の根拠になったようです。
遺跡の案内板にあったスケッチを加工して地図代わりにさせて貰いました。 実際の案内板の番号は薄れて読めない為、建造物番号と
広場名を加筆してあります。 また濠の周囲の番号は7つの通路です。
(Lado norte de Estructura IV y su Anexo)
さて通路 6 を通り濠を渡ると広場があり、周りに建造物が姿を現します。 写真中央は建造物 IV の北側で、正面は広場 A に面した南側
なので裏側と言う事になります。 右側にも居室跡が広がりますが、これは建造物 IV の北西に伸びる付属建造物で、地図のスケッチには正しく
書かれていません。
(Lado norte de Estructura IV)
建造物 IV の裏側は広場に面して中央に階段とその左右に居室があり、階段を登ると上の段にも居室が広がり、更にその上に建物が続きます。
階段を上がった所が、南側の広場 A の高さになるので、広場 A を基準にすると階段左右の居室は地下1階と言う事になります。
(Portada con decoración de escultura en mosaico)
中央階段の上には戸口が3つあり居室が前後に計6部屋設けられ、更に左右の端にもう2部屋ずつ居室があります。 建造物 IV 全体の作りは広場 A
に登ってから見る事にして、北側でも随所に見られるリオ・ベック様式に注目してみます。
階段上の居室の戸口の左右にはリオ・ベック様式に特徴的なモザイク彫刻のパネルが部分的に残され、戸口のアプローチ部分には大きめの切り石
を組み合わせて大地の怪物の顔がモザイク状に表現されていました。 下の段の戸口左右の飾りはより単純な十字型でした。
(Soportes decorados de banqueta)
これは左右に設けられた居室の右の方で、ベンチの支えの彫刻が特徴的です。 ベンチの支えを下に拡大しましたが、上の段の支えは王の
ムシロ目に似たもので、下の段の丸い車輪のような飾りは他では見かけないユニークなものでした。
(Anexo de Estructura IV)
これは北西に伸びる建造物 IV の付属建造物で、向かって左には二層目も確認出来、部屋数は全部で10以上あったように見えます。 そしてここでも
リオ・ベック様式が随所に顔をだします。
(Decoración de Fachada con diseño de damero)
戸口の左右は正方形の小さな切り石を並べた市松模様が鋸状の逆三角形で縁取りされていて、リオ・ベック遺跡の建造物 6N1 でも同様の
装飾が見られました。
まだここまでは広場 A に行く手前で、一般の観光客は素通りしてしまいそうな所ですが、今回は3回目の訪問で、細部を注意してみるとなかなか
興味深い所でした。
(Ruta cubierta por Street View en Becán)
さてここでベカンのストリートビューです。 衛星写真は残念ながら部分的に雲がかかっていますが、青い線に沿ってストリートビューで辿れます。
中央下の大きな建物が建造物 I で広場 A の向かいに建造物 IV があるのですが、雲で隠れています。 そしてその雲の上で青い線が巻いていますが、
ここが濠を渡って最初に出た広場でした。 この下の広場から階段を登って広場 A に行くのですが…。
(Subida a la Plaza A por Street View)
これは実際にストリートビューで見た広場 A へ上る階段 (画像左側) です。 ストリートビューで右下隅の黄色い線の上を辿る事は出来ますが、
まだ階段は上れません。 それではストリートビューでカバーされていない広場 A に行ってみましょう。
広場 A PLAZA A
(Parte norte de Plaza A)
階段を上ると右側に建造物 IV の東側面が聳え、基部にはリオ・ベック様式の見せかけの階段が残されます。 左に見えているのは建造物 III
の西側正面です。
(Estructura III)
これは北西側から見た建造物 III で右側が広場に面した正面です。 建造物 III はベンチ等にリオ・ベック様式が認められるものの、
独特な壁面彫刻は見当たらず、広場 A を囲む建造物の中では一番装飾性のないシンプルな作りで、幅 50m を超える建物には居室が二層に
わたって設けられています。
(Estructura III y Altar Circular)
これは広場 A の西側から円形の祭壇越しに見た建造物 III の正面南端です。 建造物 III は古典期から度々増改築が繰り返されたようですが、
南正面にある円形祭壇は後古典期に入り 1100-1200年頃に作られた 羽毛の生えた蛇 ククルカンを祀った祭壇で、古典期にリオ・ベック様式で
ベカンを隆盛に導いた部族が去った後も別の部族がベカンに居住した事を示すものと言えます。
(Lado trasero de Estructura I)
建造物 III の二層目に登り南端からみた建造物 I で、リオ・ベック様式特有の丸く処理された基壇の角が確認出来ます。 ここから見える
建造物 I は裏側になり広場の南斜面に居室が広がる正面があるので、先に他の建造物を見る事にします。
(Lado frontal de Estructura IV)
広場に降りて、これは建造物 IV の正面を南東側から見たところです。 広場 A に上る前に北側の裏面を見てきましたが、この写真の裏に
階段状に四層にわたって居室が設けられていた訳で、正面は写真の通り居室は階段を上った最上段だけです。
(Sección norte-sur de Extructura IV)
言葉では判り難いですが、案内板にあった断面図で確認できます。 これは南北に切った断面図で左が南の広場 A で、この図を参照すると
上の説明が判り易くなると思います。
(Panel de Explicación de Estructura IV)
(Fragmento de Portada frontal de Estructura IV)
正面階段の上は屋根が崩れていますが、入口は全面に大地の怪物のモザイク彫刻が施されていたようで、部分的にその跡が残ります。 正面
は急傾斜ですが実用の階段で、縄が一本這わしてあり助かります。
(Parte superior de Estructura IV)
階段を上ると中庭を囲む形で正面と左右に居室があります。 左右には前後に2部屋ずつ、正面は部屋がひとつで、
左右脇には下へ降りる階段が口を開けています。
(Parte superior, izquierda y derecha)
これはそれぞれ左と右の居室の戸口で、基壇上の小さな中庭に面した3つの居室の壁面は全て同じ彫刻で飾られていました。
(Decoración con diseño de cruces)
右(東)の壁面の装飾が一番状態が良く、戸口右側は上から下まで完全な形で残っていました。 正方形の切り石を凹ませた十字型は世界の
4つの基軸を表わし、リオ・ベック様式で特徴的な装飾になり、チカナやリオ・ベックなどでも全く同じものが見られました。
(Escalera y pasillo para bajar a un nivel inferior)
東側の階段を降りてみます。 そして階段の先の通路を右へ行くと外に出ますが…。
(Abertura en el lado norte)
多分ここに出てきたのだと思います。 (建造物 IV の裏側です。)
(Anexo de Estructura IV)
通路の先からは建造物 IV の下を眺め下せました。 建造物 IV の付属建造物を含めて部屋の配置が確認出来ます。 ここから下へ降りられるのかと
思いましたが、どうも下には繋がっていないようでした、通路が崩れてしまっているのかもしれませんが。
(Estructura IV vista desde Estructura II)
建造物 IV は以上で、次に建造物 II へ移りますが、その前に建造物 II の上の方から見た建造物 IV です。 建造物 IV の正確な高さがわかりませんが、
広場 A と入り口の広場との高低差が 6m との事なので、広場 A に面した南側は 20m 近く、北側で 25m 位ありそうです。 現在見る形に仕上げられたの
はリオ・ベック様式全盛の古典期後期で、高位の貴族の居住に供されたようです。
(Estructura II vista desde Estructura IV)
さてこれは逆に建造物 IV の上から見た建造物 II です。 一層目の前面に居室が並び、建物の幅は 43m あります。 下からだとよくわかりませんが、
上から眺め下すと 一層目に前後に2列居室が設けられ、その奥に基壇を積み上げて二層目の居室が築かれている様子がわかります。 二層目の天辺
までで高さは 15m になるようです。
(Panel de Exlicación de Estructura II y su reconstrucción hipotética)
説明板に想像復元図が描かれています。 一層目と二層目の間に3段のピラミッド基壇があったようで、居室に屋根をつけた復元図は現状とは随分
趣きが違って見えます。
(Lado frontal de Estructura II)
広場から建造物 II を見るとかなり崩れている事もあり、高さもあまり感じられませんが、よく見るとそこここにリオ・ベック様式の特徴が
見られます。
(Decoración en diseno de damero y cruz)
これは一層目にある壁面装飾で、市松模様と十字型の模様ですが、下の広場の付属建造物と殆ど同じです。 リオ・ベック遺跡の建造物 6N1 にも
全く同じ市松模様と十字型が用いられますが、ベカンとどういう繋がりだったのか、興味深い所です。
(Techo abovedado en arco falso)
建造物 II も中央右手の階段を使って登れます。 一層目の屋根の上から南東方向に居室の側面に残されたアーチ天井が見えました。
(Lado oeste de Estructura I)
そしてその先に建造物 I の巨大な塔が迫ります。 ここから建造物 I の説明に移りましょう。
建造物 I は南が正面で、広場 A に面した北側は入り口が無い裏側になり、高さ 15m の塔が東西に聳えます。 南正面は 下の案内板の
復元図にあるように塔の手前に二層にわたって20室以上の居室が設けられ、幅が 50m を超える壮大な建造物です。 右下には建造物 I を
南北に切った断面図がありますが、居室が設けられた南側は広場 A より下がっているので、南側から見た塔の高さは 23m になるようです。
(Panel de explicación para Estructura I)
案内板の解説は 「ベカンで最も古い建物のひとつ… 」 という説明で始まりますが、これは最新の解釈とはやや異なります。
1999-2001年の調査・修復活動を踏まえたベカンの最新情報が Arqueologia #75 Sep-Oct 2005 にまとめられていて、濠についての新しい解釈も
ここで説明されていました。 建築時期について解釈の別れる建造物 I については、徹底したボーリング調査と土器の分析が行われ、
古典期前期から後古典期に至る建物の変遷が明らかにされています。
古典期前期の建造物 I は下の広場の一層目奥の7部屋だけで、広場 A に作られた二層目の居室と塔はまだ存在せず、広場 A の南は開けた状態
でした。 古典期後期に入り、700-800年頃に 広場 A が盛り土され、建造物 I に二層目の居室が追加されて、広場 A が閉じられたそうです。
その後 800-900年頃に巨大な塔が建てられ、居室が2列に追加されて、復元図のような現在遺跡で見る姿に仕上げられたそうです。
つまり 「最も古い 」 のは内部だけで、外側は古典期後期の ベカンでは比較的時代の新しいものでした。
(Lado sur de nivel superior, Estructura I)
長い説明はこの辺にして写真に戻りましょう。 これは二層目の居室跡を西から東へ見渡した所です。 正面にある5つの居室の横幅が大きい
ので開口部はそれぞれ2本ずつの柱で支えられ、外壁には彫刻がありません。 床面は一層目居室の屋根で、左上には西の塔が見えています。
(Lado sur de nivel inferior, Estructura I)
下の広場に降りて同じく西から東方向です。 一層目は広場に面して屋根の崩れた居室が7つあり、奥に屋根とベンチが残された居室が同じく7つ
あります。
(Torre Oeste de Estructura I en 2002 y 2013)
これは西の塔の南側に注目してみたもので、左が 2002年のものですが、崩れた部分がその後しっかり修復されています。
(Torre Este de Estructura I en 2002 y 2013)
気になって東の塔もチェックしてみました。 左は 2006年の北東角の写真で、やはりその後補修されています。 本格的な修復ではないにしても、
メンテはしっかり行われているのでしょう。
(Fachada central de nivel inferior con panel de decoración en mosaico)
一層目の中央の居室です。 ここだけ左右の壁面にモザイク彫刻のパネルがあり、奥の部屋のベンチも他より大きなものでした。 他の部屋と比べて
より重要な部屋だったようです。
(Detalle de panel de decoración)
左側のパネルは下半分が綺麗に残っていました。 右側中程の円形が交差する幾何学模様はユニークですが、建造物 IV の北側にも類似した模様が
ありました。 パネル全体のデザインと円の数が違うので同じ時代とは言えないと思いますが。
(Lado este de Estructura I)
これは下の広場から見た建造物 I の東側面で、東向きに居室がひとつ追加されています。
(Lado este de Estructura I)
東向きの居室の壁面には十字型の装飾が施されており、その右側の狭い戸口の中に上に通じる階段があって二層目に出られました。
(Lado sur de nivel superior, Estructura I)
これは二層目に上がって東から西方向です。 建造物 I は巨大な塔と二層の居室群から見るものを圧倒しますが、マヤの儀礼を執り行うための
建物だったのでしょうか、この点はあまり説明がありませんでした。
(Basamentos de Estructuras I-A y 1-B)
同じ場所から下の広場を見下ろすと建物跡がふたつあり、左手前が I-A、右奥が I-B です。 共に後古典期に入ってきた別部族の手による
もので、木の柱に草葺の屋根で古典期より粗末な作りでした。 I-B は一辺が 15m、高さ 9m で、後古典期にベカンで作られた一番大きな
建造物でしたが、石材は他の建造物からの流用だったそうです。
この新たに入った部族も後古典期前期のうちに姿を消して、ベカンは無人になったようです。
(Pasillo hacia Plaza B)
さてベカン遺跡、まだまだ続きます。 最初に濠を渡って建造物 IV 北側の広場に出ましたが、広場の北に通路があって遺跡の西側に
通じています。 (地図のスケッチに矢印があるところです。) 通路の入り口に小さなプレートがあり、西語、マヤ語、英語で説明
がありました。 写真は西語を拡大してあります。
(Pasillo hacia Plaza B)
通路はマヤアーチで閉じられ、長さは 66m あったそうですが、現在アーチが残るのは半分以下でしょうか。
広場 B PLAZA B
(Salida del pasillo)
通路を抜けるとその先は広場 B です。 通路の北側 (写真で通路の左) にあった建造物は未修復ですが、更にその北側で広場の東側を
閉じる建造物 VIII と、広場の北の建造物 IX が修復されています。
(Estructura VIII)
これが南西側から見た建造物 VIII で、中央に幅の広い階段がついた大きな基壇の上に柱や居室跡が見えます。
(Estructura VIII)
広場 B の東側に西向きに建てられ大きな建造物は、基壇の大きさがミニガイドに 45 x 20m とあり、多分幅と高さだと思います。
(Estructura VIII vista desde Extructura IX)
下からでは判り難いので上から見下ろした写真です。 (隣の建造物 IX から)
(Templo superior de Estructura VIII)
基壇上部をズームしました。 建物はかなり崩壊していますが、下の案内板にある想像復元図で、左右に見せかけの塔を配した典型的な
リオ・ベック様式宮殿だった事がわかります。
(Panel de explicación y reconstrucción hipotética de Estructura VIII)
想像復元図を拡大してみました。 説明文には中央の戸口に怪物の仮面があると書かれているのですが、
その痕跡は見当たりませんし、復元図にも描かれていません。
崩れた塔の上に残るのが疑似神殿なのか、その屋根飾りなのかもよくわかりません。 復元図には屋根飾りまでありますが、破片があったのかどうか?
この辺りが不明で、基壇の高さだけで建物の高さには触れられていないのかもしれません。
大きな基壇の南側内部には 8m 近い高さの狭い空間が10室分確認されているそうです。 倉庫だったのか特別な儀礼の為に設けられたものだったのか
謎のようですが、北側にも空間が存在するようで、建築材料の節約の為の工夫だったとも考えられるようです。
(Templo superior de Estructura VIII)
中央階段を上って円柱の前に来ました。 正面に石碑が1本立っていて、これにロープを結んで下に垂らしてあります。 階段は急なのでロープは
有難いのですが、それにしても風化して何も読めないとは言え、マヤの石碑を何とも手荒い扱いです。
(Aposentos del lado trasero)
基壇上部にある居室は円柱の奥で、全部で9つある部屋は東を向いてU字型に並び、写真はその内の南寄りの前後2室です。
(Estructura IX, gran pirámide, vista desde Extructura VIII)
建造物 VIII はこの辺にして、建造物 VIII 基壇上から北西に見える建造物 IX です。 リオ・ベック地域には数少ないピラミッド神殿で、
リオ・ベック様式が広まる前の先古典期末に建築が始まった ベカンの歴史を見る上でも重要な建造物になります。
(Estructura IX en 2002)
これは 2002年にベカンに初めて来た時に撮った同じ建造物 IX です。 建造物 IX は 1999-2001年の活動で初めて本格的な発掘が行われ、当時
修復されたばかりのピラミッドは朝日を浴びて白く輝いていました。 修復には新しい材料も使われたのか、まるで新築したかのように
見えました。 それから10年が経過し、すっかり古色を帯びて立派なピラミッドなりました。 (^-^)
(Estructura IX en 2002)
折角なので出来立てのピラミッドの写真をもう少し。 西側面にはまだ足場が組まれたまま残っていました。
(Mascarón de Estructura IX en 2002)
(Mascarón de Estructura IX en 2006)
中央階段はかなり急ですが、一番上まで登れます。 上部神殿の直ぐ右下に大きなマスクの壁面装飾がありますが、これは古典期前期に
入る前の先古典期後期のものが発掘され修復されたものです。
上は 2002年の修復直後の写真で、下の 2006年の写真では古色を帯びてきています。 マスク左側の階段が斜面に変更されているのが
ちょっと気になりましたが。
(Panel de explicación de Estructura IX)
ピラミッド下の広場に置かれた案内板は、文章による短い説明だけで、危険なので登らないようにと書いてあります。 多分 1999-2001年
の修復前に付けられたものでしょうか。
先古典期に遡る巨大マスクの存在から 建造物 IX 及びベカン自体の古さがわかりますが、発掘・修復の過程で最新の発掘技術を駆使し、時代を追った
建造物 IX の変遷が明らかにされています。
Arqueologia #75 によると まず先古典期後期に四層の基壇を持つピラミッド神殿が築かれ、高さは修復された巨大マスクの装飾の所まで達していました。
古典期前期に上部神殿が追加され、2001年の活動の最後に発見された奉納物はこの時に埋納されます。 古典期後期の初めにピラミッドは一回り
大きく増築され、巨大マスクは隠され 上部神殿は 42m の高さに達したようです。 その後古典期後期の終りにかけて正面階段の両脇に四層に
わたり居室が追加されます。
修復された姿は、巨大マスクのある四層目は先古典期のものですが、その下は居室跡があるので古典期後期の増築時のもので、異なる時代のものが
露出している事になります。
(Estructura IX)
2013年には正面の植栽が整理されていて木に邪魔されずに正面写真が撮れましたが、あまり高さが感じられません。 これまで建造物 IX の高さ
は 32m とされ、遺跡の案内板も旧版のミニガイド(1992年板)もこれに倣っていますが、修復後に発行されたミニガイド(2009年版)と
2002年発行の Arqueologia #56 では 42m となっています。
(Estructura IX)
現状の高さが 32m で、無くなった屋根飾りを含めると 42m なのかもしれませんが、いずれにせよ高くて周りの見晴らしが効くので登って
みましょう。 写真の通り上からロープが垂らしてあり、途中からはこれを助けに登っていけます。 案内板には登らないように
書いてあるのに、ロープがあるのは矛盾しています。
(Estructura X vista desde Estructura IX)
建造物 IX の天辺から見回すと一面緑ですが、建造物 VIII が見下ろせ、その先に建造物 IV や I も頭を出し、写真にあるように
西側には建造物 X の上部神殿が確認できます。
建造物 X は広場 B の西側を閉じるので、広場 B の中で扱っても良いのですが、その裏側からは
広場 C になるので、便宜的に広場 C に含めて説明を続けていきます。
広場 C PLAZA C
(Fachada oriental de Estructura X)
建造物 IX のピラミッド神殿前から西方向へ向かうと木々の先に建造物 X が見えてきます。
(Fachada oriental de Estructura X)
建造物 X は 1994年の活動で発掘された横長の建造物で、高さは 14m になるようです。 下から見ると階段ばかりで掴みどころが無いのですが、
建造物 IX から見たように階段の上に神殿があります。
(Panel de explicación y reconstrucción hipotética de Estructura X)
案内板には上部神殿の復元図が示され、戸口が全面 大地の怪物のモザイク彫刻で飾られ、左右に一対の居室を伴う チカナの建造物 II に似た
姿になっています。 二層にわたって部屋が12室設けられていると書いてありますが、上層には復元図にある3つの戸口の東西面に2室ずつ
合計6室あります。
(Templo superior de Estructura X)
階段を上り上部神殿中央です。 確かに大地の怪物のモザイク彫刻があったようですが、中央部は正面が殆ど崩れてなくなり、四角い戸口は奥の部屋
との壁に開けられたものでした。 復元図は残った部分と他の類似したリオ・ベック建築を参考に作られたのではと思います。
四角い戸口の木製のまぐさは当時のままのようで、左右角の斜め上にはカーテンを吊るした穴がありました。 まぐさの真上に当たる所には
屋根飾りの基礎部分も残されています。
(Templo superior de Estructura X)
これは左右の居室部分です。 左の写真は右側に中央の戸口の大地の怪物の彫刻が大きく写っていますがその左に僅かに残っている戸口の周りが見えます。
右の写真は右側の戸口まわりで、左側同様 ヘビの横顔がモザイク彫刻されたパネルがあった事がわかる程度で、居室のかなりの部分は既に
ありません。
(Detalle de escultura de mosaico)
これは中央の戸口の右側で、大地の怪物のモザイク彫刻の右の耳辺りで、1994年の発掘以来 風雨に晒されているものと思います。
幸いにもまだ所々赤い彩色が残っていますが、このまま放っておくと早晩色が消えてしまうのではないかと心配になります。
(Patio noroeste de Estructura X)
1994年の発掘は建造物 X の東側と上部神殿だけで、基壇の西側は土砂を被ったまま 未発掘でした。 1999-2001年の活動でその基壇西側
の発掘が行われ、何もない単なる基壇だと思われていたところから夥しい居室跡が出てきて一躍注目を浴びました。
正確にどの部分が新たに発掘された所かわかりませんが、上部神殿から西側を見下ろしてみます。 この写真は建造物 X の北西部分です。
(Juego de Pelota)
そしてその南側で、球戯場の球戯面の芝が見えてきます。
(Anexo de Estructura X y Juego de Pelota)
球戯場と建造物 X 南西側の基壇の間に二層の宮殿が回復されています。 ここからそのまま西側へは降りられないので、一度東側の階段を
降りてから西側へまわります。
(Lado norte de Estructura X)
西側へ行く為に建造物 X の北側をまわりましたが、これは南北に細長い建造物 X の北側面です。 建造物 X は上部神殿の中に
6室ある他に、一層目にも居室が南北共に設けられていて、それぞれ中庭に面した階段から入るようになっていました。
(Lado poniente de Estructura X)
これは北西方向から建造物 X を見上げたところで、単なる基壇と思われていた基壇西側に沢山の居室が口を開けています。
(Aposentos techados en la fachada poniente de Estructura X)
上の写真から少し南へ。 中庭に居室が複雑に組み合わされて…。
(Patio y aposentos)
更に南へ進みます。 西側基壇から球戯場にかけて三層の宮殿複合が設けられ、全部で70近い部屋数が確認されているそうです。
(Juego de Pelota, vista desde norte)
宮殿複合の西側の球戯場を少しだけ見てみます。 これは北側から見た球戯場で、両端は閉じられていない一番シンプルな形状で、
二列の基壇は規則通り東西に向かい合います。 的になる環やマーカーはなく、木製の的があったと考えられるようです。
(Edificio anexo a Estructura X)
また宮殿複合に戻って、球戯場横の二層に張り出した部分です。 兎に角部屋が沢山あって説明のつけ様に窮しますが、部屋はそれぞれベンチ
を備えていて、基本的に貴族の居所だったと考えられ、時代的には古典期後期に増築が繰り返されたもののようです。
(Segundo nivel y pasillo hacia sur)
これは上の写真の左側にある階段を上り二層目に出たところで、中央にある通路から更に南側へ抜けられます。
(Los aposentos hacia sur de Estructura X)
通路の先にはまた居室と中庭があって、何処がどうなっているのか理解しづらくなります。 多分左の芝面は建造物 X に付属した南の中庭だと
思います。
(Patio Sur de Estructura X)
これはその南の中庭の全景で、実はこの写真中央の居室の裏側が一大発見があった場所でした。
(Friso descubierto y ahora protegido bajo edificación especial)
一大発見とは南の中庭の建物2の発掘でその地下建造物の壁面から見つかった大きな彩色漆喰彫刻で、古典期前期に遡るものでした。
写真の通り現在は建物で覆って厳重に温湿度管理が行われていますが、嬉しい事に大きな
ガラスをはめ込んで訪問者が実物を見学できるよう配慮されています。
(Friso con mascarón modelado, Subestructura del Edificio 2 en el Patio Sur)
漆喰彫刻は縦横 2,5m 四方の大きさで、ガラス越しに背景の映り込みを避けて写真を撮ります。 神ではなく実在したベカンの王の肖像と
考えられ、冥界の入り口を表わす花弁の穴の下で、大地の怪物カウアックを背景に描かれます。
(Friso con mascarón modelado)
現世に現れた王は上下に二重になった仮面の頭飾りをつけ、大きな四角い耳飾りや大珠の鼻飾り、更に頭飾りから出た2本の棒から
垂れ下がった珠など、翡翠をふんだんに用いて着飾っています。 腕を曲げて指を下に垂らしている仕草はユニークで、何を示して
いるのか何とも想像をかき立てるリアルな肖像です。
図柄、様式等からバラムクやコフンリッチ、或いは人類学博物館に収められているプラセーレスの漆喰彫刻と特徴を共有し、古典期前期の 400年頃
のものと考えられます。
(Camino de regreso)
遺跡の地図スケッチを見ると広場 C には西側に大きな建造物 XIII が書かれ、北側には建造物 XIV もあったようですが、共に鬱蒼と茂る森の
中で、ベカンで見学できるのは此処までになります。
広場 B 経由 マヤアーチで閉じられた通路を通って入り口に戻れますが、建造物 X の南から写真の小道を通って 広場 A の南に抜けるルートもあります。
帰路はどちらでもお好きなルートを。
ベカンは古典期後期のリオ・ベック様式で、周囲を濠で囲まれた環濠都市だったと言うのが従来の定説でした。 しかし既に見てきたように
1999-2001年の活動により従来の定説は大きく書き換えられています。
濠は外敵からの防御ではなく、氾濫を防ぐ治水目的の水路だったと言うのが新しい定説になり、遺跡紹介のミニガイドで 1992年初版の旧版では
要塞説が紹介されていましたが、2009年の改訂版では治水説に訂正されています。 環濠都市の方が一般受けしやすい説明だからか、まだ旧説の
ままの資料が多いですが、徐々に新説に取って代わられるものと思います。
もうひとつ注目されるのは古典期前期以前のベカンの繁栄です。 建造物 IX の発掘で古典期前期を通り越して先古典期後期
の大きなマスクの壁面装飾が発掘され、古典期前期 400年頃の改築も数々の奉納物と共に確認され、更に建造物 X の建物2で見つかった古典期前期の
王の彩色漆喰彫刻と併せて考えると、ベカンが単に後古典期にリオ・ベック様式の中心だっただけでなく、それ以前からこの地域の中心的な存在
だった事が明らかになりました。
下のイグアナがデザインされた多彩色容器と、同じくコンゴウインコの多彩色容器は、古典期前期に建造物 IX に上部神殿が追加された際に埋納
された奉納物で、2001年の活動最終期に発見され、当時のペテン地域との繋がりを示すものとして注目されます。 また他に造形的な黒色土器に
線画が施された土器類も併せて埋納されており、これ等はカラクムルの流れを汲むものでした。 建造物 X の北側では古典期後期の多彩色の壺
(写真右下)も発掘され、併せて州都カンペチェのマヤ考古学博物館に展示されています。
(Vasija policromada, Ofrenda funeraria de Estructura IX)
(Vasija policromada, Ofrenda funeraria de Estructura IX) (Vaso policromado, Basurero de Estructura X)
(Estela No. ?, exhibida en el area de Entrada)
リオ・ベック様式ではあまりマヤ神聖文字は残されていないのですが、ベカンはリオ・ベック様式の前にペテン地域の影響を受けていた訳で、
ベカンの歴史を記した文字の存在を期待したくなるところです。
実際石碑が10本以上ありますが、建造物 IX の基部に建てられた石碑3は風化してボロボロであり、建造物 VIII の上部基壇に置かれた石碑11
に至っては登攀用のロープが結びつけてあると言った具合で、歴史的価値のある石碑が少ないのですが、遺跡の入り口エリアに図像に文字も記
された石碑がありました。 風化していますが多少なりとも解読できそうです。 何が書かれているのでしょうか。
1999-2001年の2年半にわたる活動でかなり定説が書き換えられたベカンですが、まだ未発掘の大きな建造物が残っています。 今後更に調査、
発掘が行われ、ティカルやカラクムルとの関係を含めてベカンの歴史が明らかになると面白いのですが、いつの事でしょうか。