マヤ遺跡探訪
TENAM PUENTE
マヤ圏南西部の周縁に位置する テナム・プエンテ遺跡。 古典期後期末の所謂マヤ崩壊を乗り越えて後古典期前期まで 居住が維持されたマヤ遺跡です。

今回12年振りの再訪で、遺跡自体は新たな発掘修復は無く以前のままでしたが、新しく管理事務所と駐車場が整備されていました。  石造建築物を覆う木々は成長し修復された建物の石材は古色を帯びて やや写真写りが悪くなった印象ですが、2度の訪問で 多少とも理解が深まったので全面的に書き直しました。

遺跡はコミタン市南東 13Km で、国道 190号を南下し 8Km 地点で右折してフランシスコ・サラビア村を通り抜けると程なく 遺跡の駐車場が見えてきて、車で 30分もかかりません。

それ程有名な遺跡ではなく訪れる人もまばらですが、自然の丘を造成した巨大なアクロポリスと 周辺では随一の大きさの 球戯場があり、是非行ってみたい遺跡のひとつです。

            画像

                                       画像
    (訪問日 2016年 2月22日、2004年 2月14日)
画像

遺跡の管理事務所   Oficina para Tenam Puente
画像
 (Oficina y Estacionamiento de Tenam Puente)

遺跡は道路の左側ですが、反対側に広い駐車場と管理事務所があり、こちらに車を停めます。 朝一番乗りで他に訪問客も 居らず閑散としています。 (帰る時も殆ど人が居ませんでしたが…。)

画像
 (Oficina y Sala de información)

受付で入場料を払います、40ペソでした。 受付と向かい合わせでパネルで遺跡を紹介する部屋があり、予習してから 遺跡に向かうのも良いかもしれません。

画像
 (Entrada al sitio arqueológico)

舗装された歩道を通り、道の反対側の遺跡入口に向かいます。 入口でチケットを確認して遺跡へ。

アクロポリスへ   Hacia Acrópolis
画像
 (Hacia Acrópolis)

入口からなだらかな坂道を 100m も行くと、遺跡の看板、説明プレートに地図があり、広場に行き着きます。

画像
 (Plano del sitio)

地図は一部の建物しか明示されず、北が左下を向いていて使い勝手が今一つ。

画像

                                                    画像
ウェブで テナム・プエンテの PDF 資料 が入手可能で、詳しい地図が載っていたのでお借りしました。
(一部建物名を加筆しています。)

テナム・プエンテ全体はおよそ 2 ㎢ の範囲に広がり、発掘修復されているのはその中心となる祭祀センターであり 高位の貴族が居住したアクロポリスで、80 を超す建造物が確認されているそうです。

自然の丘をマヤの崇拝する聖なる山に模して作られたアクロポリスは、四段の基壇を造成して神殿や球戯場、住居が配され、 基壇の間には防護壁のような壁が築かれています。 防御的な意味合いもあり 重要な建物ほど上の方に配置されたようです。 遺跡の名前の テナムはナウアトゥル語の要塞を意味し、プエンテは 20世紀初頭に存在した農場の名前になるようです。

テナム・プエンテの歴史はまだ十分研究し尽くされていませんが、街の建設は古典期前期に遡り、古典期後期に繁栄期を迎えて 現在見る形に外観が形作られ、後古典期に入っても建物の増改築が続いて、最終的に 1100年以降に放棄されたようです。


広場 F、球戯場 1     Plaza F, Juego de Pelota 1
画像
 (Plaza F)

さて ここから遺跡です。 まず目に入ってくるのが広々とした広場 F で、写真を2枚繋いでパノラマ画像にしました。 左にアクロポリスの 最初の基壇が見え、右側の木々の向こうに球戯場 1 があります。 中央に石碑が1本横たわっていますが、 風化してしまったものか、彫刻の代わりに彩色されていたものが消えてしまったのか?

画像
 (Juego de Pelota 1)

                                                   画像

これは南西側から見た球戯場1で、広場を掘り下げて作ってあり、長さ 50m、幅 29m のダブルT字型です。  幅が広く2枚の写真を繋ぎましたが大きめの画像で細部を確認できます。 北東方向の森の中に四層のアクロポリスが あり(写真正面)、頂上部が隠れてしまっていますが、最盛期の下からの眺めは勇壮なものだったと思います。

画像
 (Acrópolis vista desde Juego de Pelota 1)

                                                   画像

冒頭で 「木々が成長して…。」 と書きましたが、これは 2004年の写真で、上の写真では見えなくなった上部基壇の 壁面がまだ見えていました。

画像
 (Acrópolis vista desde Juego de Pelota 1)

球戯場の中心からアクロポリスを見てみました。 上の写真と見比べると木々の成長には目を見張らされます。

球戯場の真ん中に全天球カメラ THETA をセットしました。 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA

 (Foto de 360° de Juego de Pelota 1)

球戯場の真ん中に全天球カメラ THETA をセットしてみました。 全方位画像はマウス操作で画像をくるくる回したり拡大縮小して全方位を見渡す事ができます。

RICOH THETA をクリックすると Theta360°com に移動し大きな全方位画像が開きます。

ActiveX コントロールが制限されている場合はこのページに画像が表示されませんが、F5 ボタンを押してブロックされているコンテンツを 許可すると小さな画面で全方位が楽しめます。


画像
 (Escalera adosada al primer cuerpo de Acrópolis)

これはアクロポリスの一層目に登る中央階段で、左右の土塁で囲まれていますが、地図と照合すると建物 32 と 33 が この土塁にあたるようです。

基壇に登る手前の広場 F は開かれていて一般大衆も球戯場 1 で行われる球戯は観戦出来たものと思われますが、 アクロポリスに登るにはこの階段を使わなくてはならず、階段から先はより制限されたエリア だったようです。


一層目 広場 E、建物 29    Primer Nivel - Plaza E, Edificio 29
画像
 (Juego de Pelota 1 visto desde primer nivel de Acrópolis)

一層目の基壇に登り、球戯場の方を見返してみました。 正面に見える丘にも崩れた石材が散らばり、テナム・プエンテの南西部が 広がっていますが、こちらは全く修復の手が加えられていません。

画像
 (Edificio 29)

一層目の基壇中央に建てられた建物 29 、広場 E の中心です。 頂上部にあたる四層目の建物 17 から 聖なる山を左右に分ける基軸上に建てられた4つの建物の中の一番下の建物になり、頂上に向いて建てられています。  階段の前には彩色の残る石碑があったそうですが、今残っているのはその断片でしょうか。

画像
 (Parte noroeste de primer nivel)

基壇の北西側には土塁が並び、写真を繋いでみました。 左から建物 31、28、27 の土塁になるようです。  将来発掘修復されるのでしょうか。

画像
 (Esquina noroeste de primer nivel)

これは一段目の基壇の北西角で土塁は建物 27、目の前の二層目の壁面は階段状になっていますが登るには 傾斜がきつく側壁と言って良さそうです。 この角から上の方に登れ、一番綺麗な建物 7 があるので、 ここから上がってしまいましたが、正しくは壁面中央にある階段から二層目に登ります。

画像
 (Muro escalonado de segundo cuerpo)

二層目に上がる側壁を横から。 中央階段は側壁が上まで伸びている所です。

画像
 (Vista aérea de Tenam Puente por Google Earth)

二層目の基壇から上は林の中になるので、Google Earth の空からの画像で位置関係を確認しておきます。  道路沿いの赤い屋根が遺跡の入口で、ダブルT字型の球戯場 1 と 一層目の建物 29 は開けた所にあるので わかり易いですが、二層目から上は見ての通り緑に覆われています。
画像をクリックすると大き目の画像が開きます。


二層目 広場 A、建物 20、球戯場 2    Segundo Nivel - Plaza A, Edificio 20, Pelota 2
画像
 (Subida al segundo cuerpo)

二層目に登ります。 写真は 2004年に来た時のものです。

画像
 (Subida al segundo cuerpo)

中央の階段を登っていくと建物 20 が見えてきます。 写真は同じく 2004年のもの。

画像
 (Edificio 20 en 2004)

建物 20 の北西側面、北寄りと南寄りです。 北側には三層目に上がる階段が迫っています。

画像
 (Juego de Pelota 2)

建物 20 に並んで東寄りに球戯場 2 があり、球戯面は二層目の基壇上に設けられています。 長さ 40m、幅 27m あり、テナム・プエンテの 後期に作られ、3つの球戯場の中では一番新しいものになるそうです。

遺跡に来て晴天は有難いのですが、陽光が創り出す光と影で遺跡がまだら模様に。 林立するは木々を整理してくれると もう少し球戯場らしく見えるのですが。

画像

画像
 (Edificio 11 en 2004)

二層目の基壇を北西の方へ行くと広場 A の建物 11 があり、北西を向いた正面(写真下) は盗掘されたままで崩れていますが、 基壇の周囲(写真上) が残されています。 後古典期前期のタルー・タブレロ様式の変型だそうで、完全に修復されていないので 見栄えがしませんが、古典期から後古典期への移行期を示す注目すべき建物だそうです。  (写真はまだら模様の少なかった 2004年のものです。)

画像

画像
 (Edificio 7)

広場 A に面して北に建物 7、北西側に建物 4 があり、これは典型的なチアパス東部高地様式を示す建物 7 です。 高さ 15m の矩形のピラミッド は何層の基壇になるのか正確な記載がありませんでしたが、見た所マヤで一般的な9層の基壇で、 基礎しか残っていませんが上部神殿があったようです。 発掘時には多くの奉納品と埋葬と副葬品が回収されているそうです。

画像
 (Edificio 7)

北西側の建物 4 に登って建物 7 を見てみました。 一層目の基壇が広場 A 上にあるのでアクロポリスの二層目にまとめましたが、 時代と共に基壇が積み重ねられ、アクロポリスの何層目という考え方はあまり適切ではないかもしれません。 実際 建物 7 の頂上は アクロポリス中央最上部にある建物 17 より高く、アクロポリス北西側でひと際高く聳え立っていたようです。

画像
 (Edificio 7 en 2004)

これは 2004年に撮った写真で、90年代に修復されたものと思いますが、まだ白く輝き 木の枝も少なく綺麗に撮れました。 中央階段下に 矩形の祭壇のようなものが写っていて、チアパス地方博物館にある石碑 1 はこの辺りにあったもののようです。 石碑 1 はこのページの 一番下で画像と共に説明します。

画像

画像
 (Edificio 4 en 2004)

建物 4 は下からでは頂上部が見えないので建物 7 から撮りました。 建物 7 同様 古典期後期の建物で、中央階段左右の幅広の 手摺り部分は、 チンクルティックフンチャビン 同様 チアパス西部高地独特の建築様式 (Estilo arquitectónico de Altos Orientales) になり、この地域ではマヤ独特のマヤアーチや建物の屋根飾りは見られません。  精巧に切り出した石灰岩をモルタルなしで組合せ、表面を漆喰で仕上げていたそうです。

画像
 (Parte inferior de Edificio 4)

建物 4 はまだ下まで続いていて、これは広場 A から立ち上がった建物 4 の下部です。 広場らしく木々は少し整理して欲しいですが。

画像
 (Vista desde primer niver hacia sureste)

アクロポリス二層目の北西側はこの辺にして中央に戻ります。 写真左の木々の奥に建物 20、下の基壇には建物 29 が臨めます。

画像
 (Edificio 20)

これは建物 20 の南西側面。 まだら模様で何が何だか。

画像
 (Edificio 20, en 2004)

こちらは建物 20 の北西側面、まだらにならなかった 2004年の写真。 階段があるのでこちらが正面でしょうか。 アクロポリスの中央基軸上に 並ぶ下から2番目の建物で、時代と共に改築が加えられ、上面には墓があったようです。

画像
 (Juego de Pelota 2)

球戯場 2 に戻り、写真左に見えている階段でアクロポリスの三層目に登ります。


三層目 広場 B、建物 21、球戯場 3    Tercer Nivel - Plaza B, Edificio 21, Pelota 3
画像
 (Escalera adosada al tercer cuerpo)

これが三層目へあがる中央階段でした。 結構 幅が広く余り排他的な感じは無く、既に特権的なエリアの中と言う事でしょうか。

画像
 (Juego de Pelota 3)

階段を登ると右側に球戯場 3 があり、球戯場 2 のすぐ上で、上下に隣り合っています。 球戯場 3 は3層目の基壇から 掘り下げられ、長さ 33m、幅 20m のダブルT字型ですが、球戯場 2 同様南西側は下の基壇に向かって開かれています。 古典期後期に 古い球戯場の上に重ねられ、見た目には一番均整の取れた美しい球戯場で、球戯面には彫刻のない円形のマーカーが残されます。

画像
 (Juego de Pelota 3)

これは球戯場の北西側で、上部は上の基壇の建物に繋がった感じで、上から球戯の様子は見下ろせた筈です。 アクロポリスの中心になる 広場 B に直結しており、ここで行われた球戯の結果、広場 B で審判が下された、つまり生贄の儀式が…?

画像
 (Edificio 21 en 2004)

三層目中央の建物 21、アクロポリス中央基軸上の上から2番目の建物です。 木の陰で写真がまだら模様になってしまったので、 2004年に撮った写真で形を見てみます。 四方に階段がある矩形の建造物で、高位の貴族を埋葬した古典期後期の墓があり、豪華な副葬品が 回収されているそうです。

画像
 (Foto panorámica de Plaza B)

建物 21 と上の四層目で基壇で中央基軸頂点になる建物 17 を同じ画像に納めました。 2枚の写真を繋いだパノラマ画像で、中央が広場 B に なります。

画像
 (Plaza B y Edificio 17 al fondo)

建物 21 の北東側から見た広場 B です。 広場の両側の側壁が入るように超広角画像から切り出してみました。  中央に聳えるのが上の基壇の建物 17 です。

画像
 (Edificio 17 y Altar 18 en frente)

広場 B の北東側に聳える建物 17。 4層目に建てられた建物ですが、4層目にあがる側壁に作られた階段はそのまま建物 17 の頂上へと繋がり、 階段は広場 B で行われる儀式の為の観覧席の役目も持っていたようです。 手前には矩形の祭壇があり、アクロポリスの中心部に位置する 広場 B ではテナム・プエンテで一番重要な祭事、儀礼が執り行われていたと考えられるようです。

画像
 (Edificio 17 y Altar 18)


四層目 建物 14、17、広場 D、   Cuarto Nivel - Edificios 14, 17, Plaza D
画像
 (Parte superior de Edificio 17)

広場 B から四層目の基壇に登ると建物 17 は目の前で、建物全体はカメラに収まりませんが、見上げるとこんな感じです。  写真はまだら模様の少なかった 2004年のもの。

画像
 (Edificio 17)

これは北西側から見た建物 17 の側面で、上の方は柵があり登れませんが、柱の跡があり草葺き屋根の神殿があったそうです。  アクロポリスを左右に分ける中央基軸最上部に位置する建物ですから、最も重要な建物のひとつで、古くから改築が重ねられ、 後古典期に入る頃には左右の建物 14, 40 とひとつの基壇でまとめられたそうです。 上部神殿の埋葬からは古典期後期から 後古典期に入る頃のプロミソ式土器も発掘され、テナム・プエンテ最晩期までの使用が裏付けられています。

画像
 (Panel de explicación de Edificio 17 y Escultura de prisionero)

建造物 17 の説明プレートは下の広場 B の階段前に置かれていましたが、階段中央基部から発見された墳墓には多くの副葬品と 共に写真の捕虜を刻んだ石像も納められていたそうで、実物はコミタン市の考古学博物館で見る事が出来ます。 古典期後期の石彫り で、80km 位北にある トニナ遺跡 の石造様式と似ていますが、トニナとはどういう関係あったのか気になる所です。

画像
 (Edificio 14)

こちらは建物 17 の左側にある建物 14 で、多層の基壇を持つ矩形の建物の上部には神殿の跡を残します。  建物の内部から古典期後期の終わり頃に壊され埋められた石碑の破片が見つかっており、テナム・プエンテ全体で彫刻のある石碑は1本しか 残っていませんが、こうして破壊された石碑も多くあったのかもしれません。

画像
 (Edificio 14 en 2004)

建物 17 の中腹から見下ろした建物 14。 建物 14 から発見された埋葬は火葬された骨が壺に納められていて、 後古典期に入ってからのものになるようです。 写真は建物 17 から見下ろした 2004年のものです。

画像
 (Edificio 13 en 2004)

建物 14 の南西側に細長い建物の基部が残されますが、これは建物 13 になり、高位の貴族が集った集会所だったとも考えられるようです。

画像
 (Cruz de Madera)

アクロポリス最上部で建物 14, 17, 40 がのる基壇の北西端に木製の十字架が据えられています。 テナム・プエンテは近くの フランシスコ・サラビア村の人達の信仰の場で、5月にはここで雨乞いの儀礼が催され、8月の聖母マリアの被昇天祭には村の教会からマリア像が 持ち出されて十字架まで賑やかな巡礼の行列が繰り広げられるそうです。 現在の十字架は 1962年からここに置かれています。

画像
 (Ejido Francisco Sarabia observado desde cúspide de Acrópolis)

建物 14 の裏に回ると北の方にフランシスコ・サラビア村が一望できます。 村から遺跡までは 2Km 位ありそうで、そこから更にアクロポリスの 最上部まで上がってくる訳ですが、笛や太鼓の音に花火が打ちあがる中、聖母マリアを担いだ行列の一行が進んでくる様子は 一度見てみたくなります。

画像
 (Lado trasero de Edificios 17 y 14)

アクロポリス最上段の四層目の裏側に来ました。 建物 17 の所で左右の建物とひとつの基壇上にまとめられたと書きましたが、 後ろに回ってみると同じ基壇にのった建物 17 (左)と建物 14 (右) の裏側が確認出来ました。

画像
 (Edificio 40)

3つの建物がのった横長の基壇の南東側に回り込んでみました。 これは建物 17 の右側になる建物 40 で、南西側から見た姿です。  基壇にあがる階段の上は建物の基部しかありませんが、手前に大きな祭壇があり、建物 40 はかなり喪失されてしまったのかもしれません。

画像
 (Edificio 39 y Edificio 40 al fondo)

建物 40 の南西の方へ縦長の広場があり、地図には広場の名前がありませんが、建物に囲まれて結構な広さを持つ広場です。 写真左奥が 建物 40 で、右の建物 39、手前に建物 38 の基部が見えます。

画像
 (Juego de Pelota 3)

建物 38 から南西側を見下ろすと目の前に球戯場 3 が広がります。 円形のマーカーも見えますが写真を小さくすると木陰のまだら模様に 隠れてしまいます。 

画像

画像
 (Edificio 37)

これは建物 39 の裏側にある建物 37 で、上が東側の角、下は広場 D に面した南東側です。 北西側が正面のように見えますが、 南東側にも観覧席のような幅広の階段があります。 増改築が続いたせいか複雑な形状になっていますが、後古典期の墓も 見つかっているようです。

画像
 (Edificio 42)

テナム・プエンテの紹介、大変長くなりましたが、最後の建物 42 です。 アクロポリス最上部の東に平地が広がり、草木が生い茂ったままの 土塁 (建物 41 と 43?) を左右に従えて この3つの中央階段を持つ建物 42 が優美な姿を見せます。 手前の広場 D は一層目の広場 F に次いで大きな広場です。

画像
 (Edificio 42)
建物 42 は三層の基壇の上に3つの神殿が並び、それぞれの神殿には広場に繋がる階段が別個に取り付けられています。 横長の建物を 1枚の写真に収めると細部が見にくいので大き目の写真を追加しました。

                                                   画像
建物 42 の建設は古典期に始まり、二度にわたる改築が加えられ、もともと3つの独立した神殿で間に通路があったものが最後に ひとつの基壇でまとめら、上部神殿はまだ未完だったとの指摘もあります。 各所から埋葬が見つかり、石材で枠と蓋を作って埋葬した 古典期の土葬から、竪穴や骨壺に火葬された骨を収めた後古典期の埋葬まであり、長期にわたり墓地としても利用されたようです。  アクロポリス最上部の外れにあり、貴族の霊廟だったのでしょうか、これは想像です。



帰途     El Regreso
画像
 (Juego de Pelota 2 y 3)

以上で遺跡の主だった所は全て見学終了。 遺跡の東側を降りて帰途に就くと、三層目の球戯場 3 と 二層目の球戯場 2 が東側から見えます。  ふたつの球戯場をパノラマ写真に合成してみました。 右が球戯場 3、左の下がったところが球戯場 2 です。

画像
 (Edificio 29 del primer nivel)

パノラマ合成した写真をもう一枚。 二層目から南東方向を見下ろしたところで、一層目中央の建物 29 が望め、南の丘の中腹にはまだ修復の手が 及ばないテナム・プエンテ遺跡の南側が広がります。 樹木は整理されているようですが、将来発掘修復は行われるのでしょうか?

画像
 (Juego de Pelota 1)

これは一層目から見下ろした球戯場 1 です。 駐車場に車を停めてからここまで優に2時間を超えていますが、まだ十分に テナム・プエンテ遺跡を見切れたとは思えません。 また機会があれば来てみたいですが、今度は薄曇りで余り写真がまだら模様に ならない日を選んだ方が良さそうです。



石碑 1     Estela 1
文字資料が少なく歴史の解明が進んでいないテナム・プエンテですが、建物 7 の所で書いたように 1本だけ図像が彫られた石碑があり、 州都トゥーストラ・グティエレスのチアパス地方博物館に展示されているので 最後にこの石碑を見て終わりにします。

画像
 (Estela 1, Museo Regional de Chiapas)


右手にコパルの入った袋、左手に王笏を持ち 着飾った貴族が両面に彫られ、側面は王権の象徴のゴザ目で飾られているので、恐らく 貴族はテナム・プエンテの王だと思います。 残念ながら文字部分は風化していて王の名前も史実も読み取れませんが、790年の カトゥンの切れ目 (9.18.0.0.0) を祝った石碑との説もあるようです。

アクロポリスは農場として活用されていたので、破壊や盗掘をを免れなかったと思いますが、未修復の所から更に文字資料が 見つからないものでしょうか。 テナム・プエンテの歴史解明が進むと面白そうです。



 画像   画像