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MUSEO REGIONAL DE CHIAPAS

             チアパス地方博物館 考古学室
チアパス州都 トゥーストラ・グティエレスにある チアパス地方博物館・考古学室です。

チアパス州はマヤ文明圏の西端に位置しますが、北西はタバスコ、ベラクルス両州と境を接する為、先古典期にはオルメカの影響を受け、 オルメカ系ソケ人の文化が定着していきます。 古典期に入ると州東部のウシュマシンタ川西岸でパレンケ、トニナ、ヤシチラン等 マヤの大規模センターが繁栄し、後古典期にはチャパネカ人の進出が見られます。

博物館の創設は 1934年で、オルメカ、ソケ、マヤ、チャパネカの遺物が時代を追って整然と陳列されており、素晴らしい博物館でした。

(訪問日 2011年11月24日)  画像

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 (Museo Regional de Chiapas)

まず博物館の外観。 博物館は考古学と歴史の二つの部門の常設展示があり、考古学部門は正面右です。


考古学室  SALA DE ARQUEOLOGIA
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 (Entrada al Museo)

博物館の正面入り口前には石造物がふたつ展示されていました。 まだ入館前のパブリック・スペースです。

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 (Relieve de Olmeca "Padre Piedra")    (Monumento con influencia teotihuacana)

左の石造彫刻は”父の石”と呼ばれるチアパス州からのオルメカのレリーフとして最も有名なもので、オルメカの王と足元に跪いた 人物が刻まれます。 先古典期中期にあたる 800-500BC で、ビリャ・コルソからのもの。 地図の赤い部分はビリャ・コルソ郡です。

右は 400-600AD と時代は新しくなり古典期前期ですが、テオティウアカンの記号文字が刻まれ、この時期のテオティウアカンの進出を 示すものとして入り口に置かれているようです。 太平洋岸トナラ郡から。

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 (Entrada a la Sala de Arqueología)

階段を上がって考古学部門へ。 さらに3つ石造物が展示されています。 

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 (Monumentos de Tiltepec, Tonalá)

右のふたつは兜を被った小太りの人物が刻まれ、球戯者とも死者とも言われるようです。 500BC-250AD の先古典期後期から原古典期 のもの。 左の石像物は正面が見えませんが、ジャガーの口から人が顔を出す構図で同種のものがイサパにもありました。 こちらは 1200-500BC で先古典期前期から中期と更に古いものになります。 3つともトナラ郡ティルテペックからのオルメカを示す石造物です。

イントロダクション  INTRODUCCION
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 (Entrada a la Sala de Arqueología y Sección de Introducción)

ここまでの石造物5つは博物館に入らなくても見られますが、勿論入場料を払って中へ。

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               (Escultura de Zoque de Clásico Tardío)

入り口エリアにはソケの石造物とチアパスの考古学年表があり、考古学室の導入です。

石造物はソケの王か聖職者がコパルの袋をさげているところだそうですが、年代は 600-900AD と古典期後期に当たり、パレンケやトニナが 栄えた頃に山を越えた南部ではソケ人が勢力を持っていた事がわかります。
アンヘル・アルビーノ・コルソ郡から。

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 (Tabla cronológica de arqueología de Chiapas)


新石器時代  PROTONEOLITICO EN CHIAPAS
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 (Epoca de cazadores-recolectores)              (Artículos líticos, 8000-3500BC)

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 (Artículos líticos y conchas, 3000-2000BC)         (Artículos de ceramicas, 1700-1400BC)

オルメカ文明に先立つ石器時代の紹介から博物館の展示が始まります。 8000BC 頃からの打製石器からオルメカ文明の始まる前の 1300BC 頃 までの土器の展示がありますが、詳細は省きます。


オルメカ文明とイサパ  CULTURA OLMECA E IZAPA
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 (Sección de Olmeca e Izapa)

オルメカ文明 は 1200-400BC に繁栄したメゾアメリカの母なる文明とされ、遺跡はベラクルス州サン・ロレンソ、トレス・サポーテスと タバスコ州ラ・ベンタが知られますが、オルメカの影響を示す遺物は周辺地域でも数多く発見されます。 オルメカ地域に隣接する チアパス州ですから博物館の先古典期展示も当然オルメカの特性を強く表すものになります。

チアパス州内にオルメカの拠点が築かれていたのか、或いは土着の文化がオルメカの影響を受けたのか、議論の分かれる所かもしれませんが、 ここではまず展示物を見てみましょう。 

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       Monument 1, Villaflores 900-500BC)

これはビリャフローレス郡からの石造物で、彫られたジャガーの神はオルメカそのもの。 燃え上がるように逆立った眉と逆U字型の 口はオルメカの特徴で、同様のジャガー神の彫刻は石や翡翠に沢山残されます。

(年代は博物館の説明書きにあったものを写真の下のスペイン語のキャプションの中に記載していきます。)

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        (Estructura en forma de jaguar, Cintalapa 1000-400BC)

ジャガーはオルメカでは主要な神とされますが、これは自然石を利用してジャガーを彫った石造物。 オルメカ地域とチアパス中央台地を結ぶ シンタラパ郡から。

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  (Reproducción del relieve de Xoc, Altamirano 900-500BC)
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これもオルメカの容貌を色濃く残す石彫りで、アルタミラノ郡から。 これは複製ですが、オリジナルはその後盗掘者により壊されてしまった ので、これが唯一残されたものになるそうです。 農業と豊穣の神と考えられ、足先は鷲の鉤爪になっています。

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 (Esculturas de jaguares sentados, Region de Izapa, Tuxtla Chico 1000-400BC)
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 (Esculturas de cocodrilo y serpiente sobre calavera, Tuxtla Chico y Tapachula 1000-400BC)

写真上はジャガーの坐像で、下は骸骨の上にのったワニと蛇の彫刻で、イサパから。

イサパ はチアパス州の南端で、太平洋に程近いグアテマラ国境地帯にある遺跡です。 オルメカの影響とマヤ初期の特徴を併せ持つ為に オルメカとマヤを繋ぐイサパ文明とも言われますが、マヤの起源をイサパに求める事には近年異論が多く出されています。  博物館の展示物から はオルメカの特徴が見られますが、よりイサパらしい石造物は首都の 国立博物館 マヤ室 とタパチューラのソコヌスコ地方博物館に展示されています。

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 (Monument 1, Cerro Ombligo, Ocozocoautla 500-190BC)

時代が少し新しくなりますが、この石彫りにはウサギが踊る様子が刻まれています。 ウサギは古代ソケでは月と関連付けられる神だそうです。

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       (Excultura de jugador de pelota, Tiltepec, Tonalá 500BC-150AD)

この石造物は考古学室に入る前に同種のものが2本展示されていました。 海岸地帯ではオルメカ風の最も新しい時代の記念物になるようです。

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       (Altar en forma de sapo, Iglesia Vieja, Tonalá 150-600AD)

これは原古典期から古典期前期に当たる祭壇でソケの遺跡と考えられるイグレシア・ビエハからのもの。 カエルは水の神と関連付けられ、 カエルの持つ毒素は幻覚症状を引き起こし、祭祀儀礼に用いられたようです。

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  (Ollas y cajetes, 1150-900BC)

チアパス州からの先古典期の土器類です。 左の大きな器にはオルメカ様式の線刻が施されていました。

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  (Objetos de jadeita, serpentina y concha, 900-500BC)

翡翠を水や生命と関連付けて装飾品や奉納物に使い始めたのはオルメカと言われますが、これらの翡翠製品もチアパスのオルメカ時代です。

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  (Objetos de ilmenita, 1500-1000BC)

イルメナイト(チタン鉄鉱)の原石とイルメナイトを使った装飾品や呼び子。 イルメナイトはオルメカのサンロレンソへも交易でもたらされ、 磨いて鏡などにも利用されたようです。

オルメカとは一体どういうものだったのか。 紀元前の文明であり系統だった文字もなく殆どわかっていません。 しかしメゾアメリカに 起こった最初の階級社会ですから、後のアステカやインカのような中央集権の国家と言うよりマヤの様に各地にその文明の小国家が点在したと 考えても良いような気がします。 こうした考えに立てばチアパス州に見られるオルメカ風の遺跡も緩やかな定義ではオルメカ遺跡であり、 その後 時代の変遷と共にソケやマヤの遺跡に変わっていったのではないでしょうか。 


先古典期のチアパ・デ・コルソ  CHIAPA DE CORZO - Preclasico
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オルメカの次が初期のソケ人の遺跡とされる チアパ・デ・コルソ のセクションで、先古典期のチアパ・デ・コルソからの展示物が集められています。

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 (Entierro de gobernante de Chiapa de Corzo)

中央に王が埋葬されたと思われる墳墓が再現されていました。 2010年に豪華な埋葬を伴う墳墓が発掘されましたが、それとは別の墳墓です。  説明書きが無く詳細がわかりませが、先古典期のものでしょうか。

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 (Figurillas y cerámicas, 1000-150BC)

チアパ・デ・コルソの小像や土器類の展示ですが、オルメカの影響も見えるようです。

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 (Ollas con asa vertedera, 400BC-150AD)    (Ofrendas de las tumbas 1 y 4, Monticulo 1, 400BC-150AD)

左は先古典期後期の副葬品でチョコレート飲料をいれた容器です。 原料のカカオはソケ語の Kakaw が起源で、これがマヤを始めとした 先住民の言葉になり、スペイン語、英語の Cacao になったそうです。

右は先古典期後期の墳墓からの副葬品で、彫刻された骨片や装身具等の質の高さが目を引きます。

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 (Detalle de las frendas)

細工が細かく 2000年も前のものとは思えないような質の高い工芸品で、個別に撮った写真も並べてみました。

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 (Fragmentos de estelas, 400BC-150AD)

先古典期の石造物の断片も展示されています。 左のものはイサパの様式に似ていて、右の石彫りには文字と思われるものが 彫られています。 紀元前 36年 12月の日付が刻まれた石碑2号もあるようですが、説明だけで博物館での展示はありませんでした。

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 (Núcleo y lascas de obsidiana, 100BC-150AD)           (Cerámicas pulidas color rojo, 500BC-150AD)

黒曜石の大きな塊が展示されていましたが、グアテマラから交易されたもので、塊から必要な道具を切り出していたようです。 右は 赤色系のマヤの土器で、マヤとの繋がりも指摘されます。

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      (Cerámicas decoradas tipo Usulután, 100BC-150AD)

これはエルサルバドルに起源を持つウスルタン式土器で、線刻焼成後に漆喰塗色したり、並行する波状の線を描くのが特徴のようですが、 チアパスやマヤ地区でも模倣品が多く作られたようです。

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 (Ceramicas de servicio para nobles, 100BC-150AD)

これ等全ての土器もチアパ・デ・コルソからのもので、ソケの貴族の日常に供されたものとの説明です。

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見応えのあるものばかりで、個別の写真を並べてみました。 

オルメカはミヘ・ソケ語族と言われ、ソケ語を操るソケ人はオルメカの流れを汲んだ部族と考えられますが、オルメカの文化がソケに 伝わったのでしょうか? 博物館で高度に洗練されたチアパ・デ・コルソの工芸品を目にし、2010年に発見されたチアパ・デ・コルソの メゾアメリカ最古の王のピラミッド埋葬などを考えると、オルメカの文化がソケに伝わったと言うよりもオルメカとソケが同時代に繁栄 した兄弟関係の文化だったような気がしてきます。

オルメカの痕跡は他にグアテマラの エル・バウル、アバフ・タカリク、 モンテ・アルト、エルサルバドルの チャルチュアパ地域 或いは、チアパスの イサパ 等、各地に見られますが、その関連はまだまだ今後の解明を待たざるを得ません。

古典期  PERIODO CLASICO
さてここからいよいよ古典期。 入り口から反時計回りに来て、現在地は赤くマークしたところ、やっと半ばです。

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 (Sala de exhibición de Período Clásico)

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    (Escultura de Maya, San Mateo Jotaná, Comitan, 600-900AD)

まず中央にポツンと立てられた縦長の石像。 この種の石造彫刻はマヤの街で公共スペースを飾ったものと説明にありましたが、あまり マヤの遺跡で同種の石像を見た記憶はありません。 出所はコミタン郡です

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 (Cráneos con deformación, Palenque, 600-900AD)     (Dientes con incrustaciones de jadeita y obsidiana,
                                      Palenque y Bonampak, 600-900AD)

頭蓋変形を示す骸骨があり、これはパレンケから。 翡翠や黒曜石が嵌め込まれた歯はパレンケとボナンパックからのものが展示されていました。  頭蓋変形は貴族階級では一般的だったようですが、歯の装飾は痛みを伴うもので、預言者や呪術師などに限られたでしょうか。  歯の神経を傷つけて痛かったでしょうね。

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 (Exhibición de objetos líticos)

ここから球戯に関する石造物がまとめて展示されています。

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(Yugo y hacha votiva, Yajalón, 600-900AD) (Yugo y hacha votiva, Soconusco, 600-900AD)
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球戯 はオルメカが起源で、マヤを始めとしてメゾアメリカの文化に 広く伝わったと考えられます。

写真のU字型の石造物はユーゴと呼ばれ、球戯者が腰回りに着けた防具を模ったもので、ユーゴの中に差し込まれているのが アチャ・ボティーバ(祈願の斧?)と呼ばれるボールを打つ為の手斧のようなものです。

実際に球戯に使われたユーゴは鹿皮に綿を詰めたようなもので、石で出来たユーゴは実用的ではなく象徴的なもので、勝者へのトロフィー的な 意味合いを持っていたとも考えられます。 斧の方も細かい細工を見ると実際に使われたものでは無かったように思われますが…。

こうしたユーゴと斧はベラクルス州では数多く見られ、マヤ地区でもパレンケでは多数発見されています。 写真左はパレンケに近いヤハロン郡 からで、右はソコヌスコ地方(16の郡の集合体)からのものです。

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中央の円盤は球戯場のマーカー、左右の石碑は球戯に関連したもので、詳細は以下の通りです。

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     (Estela, Estación Mojarras, Tonalá, 150-600AD)  (Estela, Tonalá, 150-600AD)

左はトナラ郡モハーラスからの石碑。 球戯の衣装を着けた人物の下には横から見た球戯場が彫られたユニークなもので、数字の”9”と 月か日の記号が刻まれ、テオティウアカンの影響が見られます。

右もトナラ郡からの両面に球戯者が刻まれた石碑です。 石材が石灰岩より硬い砂岩のようで彫りが浅いですが、お腹の前に斧(アチャ)が認め られるそうです。 トナラ郡はマヤ地域から外れて、ソケの遺跡になるようです。

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         (Marcador de juego de pelota, Tenam Rosario, La Trinitaria, 600-900AD)

これはテナム・ロサリオからの球戯場のマーカーです。 6つあったマーカーの内のひとつで、雨の神チャークの装いをした人物がしゃがんだ姿で 刻まれます。 マーカーの下にある四角い石は、I 字型に閉じられた球戯場が彫られた模型ですが、何の為のものだったでしょうか?

テナム・ロサリオは未訪問ですが、少し北に大きな球戯場を持つ テナム・プエンテ遺跡 があり、マヤの遺跡になります。 テナム・プエンテでは彫刻のない無地のマーカーしか見当たりませんが、類似した マーカーがあったかもしれません。

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 (Cerámica negra ahumada, 250-600AD y Cerámica naranja y blanco, 600-900AD)
                                    (Sello cilíndricos y planos, 250-450AD)

ここからソケの展示が続きます。 まずソケの土器の説明。左の写真の左側に並んだ黒ずんだ土器は古典期前期の一般的なソケの土器で、 古典期後期になると右側のタイプのオレンジ生地に白い粘土が塗られた土器に取って代わられたそうです。

右は型押しに使われた円筒と平板の型で、布、樹皮紙、皮、或いは人の皮膚などに模様を付ける為に使われたものです。 古典期前期のソケの ものですが、型はソケのみならず広くメゾアメリカで使われていました。

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 (Incensarios y urnas, 200-900AD) 

これはソケの大型香炉で、なかなか独特な形をしています。 一番左の香炉(下でコウモリが口を開けている)、真中の写真の2本の 香炉(角柱に穴の開いたものと異様な神の形をしたもの) 及び右のジャガーの香炉は全て同じ洞窟からで、これだけ並んで見つかったら 凄い光景だったでしょう。 オアハカ州と境を接するシンタラパ郡のロス・ボルドス洞窟だそうです。 写真右のセイバの木の幹の香炉は トナラ郡の洞窟にあったものです。

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 (Ofrendas funerarias, Mirador, Jiquipilas, 250-500AD)

これはシンタラパ郡に隣接するヒキピラス郡ミラドールからの副葬品の展示です。 先古典期のチアパ・デ・コルソの副葬品に引けを 取らない質の高い工芸品でした。

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(Vasijas de formas teotihuacanas, Jiquipilas, 250-500AD)
                                (Cerámicas con engobe blanco, Tecpatán, 600-900AD)

左の写真の土器は上の副葬品と同じミラドールからのもので、テオティウアカン様式の三足土器がソケ古典期前期特有の黒色で 仕上げられています。 ミラドールはソコヌスコ地域と湾岸を繋ぐ交易路にあたり、テオティウアカンが植民地としていたと 考える専門家もいるようです。

写真右はテクパン郡サン・イシドロからの古典期後期の土器類です。 サン・イシドロはグリハルバ中流域の交易拠点として 規模の大きな街だったようですが、近年マルパソ・ダムの建設に伴って水没させられたそうです。 (合掌)

マヤの古典期  MAYA EN PERIODO CLASICO
ここまでオルメカやソケが中心でしたが、やっと本題のマヤです。 博物館の考古学室は7つのセクションに分かれますが、この5番目に あたるセクションはマヤ・オンリーです。

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 (Sala de exhibición de Cultura Maya Clásico)

チアパス州の古典期マヤは人気が高く かなりのものが首都の国立人類学博物館に移され、またパレンケとトニナでは遺跡併設の博物館 での展示が充実しており、ここ州都での展示物は限定されますが、それでも興味深い展示物が沢山あります。

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        (Monumento 28 de Toniná, 600-900AD)

まずトニナの石造物から。 トニナ からは特徴的な石造モニュメントが 4点に絞って展示されていました。
モニュメント 28 は上半身が失われた立像ですが、腰から下の部分は状態が良く、背面に刻まれた文字から 615年に即位したキニチ・ヒシュ・ チャバト王のものと判明しており、トニナの歴史を知る上で非常に重要なモニュメントになります。

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 (Monumento 89 de Toniná, 600-900AD)    (Monumento 69 de Toniná, 600-900AD)

左はトニナのアクロポリスの麓西側の墳墓の上に置かれていた犬の石像、モニュメント 89 で、背中に文字が刻まれています。  材質は砂岩で、トニナでは石灰岩のものは少なく大半の石造物が砂岩で造られます。

右のモニュメント 69 は球戯場の球戯面中央で発見されたマーカーで、周囲に刻まれた文字から中央に描かれている肖像は王位継承者だった ワク・チャン・カックであり、王位に就く前の 775年に死去した事が読み解かれているようです。

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        (Monumento 108 de Toniná, 600-900AD)   (Estela de Tila, 685AD)

左は捕虜が後ろ手に縛り上げられた形で彫られたモニュメント 108 です。 古典期マヤでは戦争の捕虜を石碑に刻むことが多いですが、トニナ ではレリーフ、漆喰彫刻、或いはこうした石像の形で残され、捕虜は名前、出身地、日付等が捕獲した王の名前と併せて記されます。 モニュメント 108 は 73年に 5段目の基壇のテラスの奥で発見されたもので、頭部は失われていますが、非常に良い状態です。 

右は頭字体で長期歴が記されたティーラからの石碑で、9.12.13.0.0. 10 Ajaw 3 Sotz'(685年)の日付があるそうです。 あまり聞いたことのない 遺跡で、場所を調べてみるとパレンケの南西 50Km 弱のところに小さな遺跡マークがありました。 トニナからも 70Km 位で、この石碑の時代には パレンケとトニナは頻繁に戦火を交えていたので、ティーラも当然巻き込まれていたでしょうか。

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       (Monumento 114 de Toniná, 600-900AD)

トニナからは他にパレンケのカン・ホイ・チタム2世を刻んだ有名なレリーフが有る筈でしたが、残念ながら海外の展示会へ持ち出されて不在でした。  写真は 2014年にメキシコシティーで開催されていた特別展示会で撮ったものです。

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        (Dintel 33 de Yaxchilán, 752-768AD)

碑文の刻まれた石造物が豊富で、マヤ神聖文字解読の手掛かりを提供した ヤシチラン からは石板がひとつだけ展示されています。 建造物 13 の入り口上部のまぐさ石、石板 33 号です。 ヤシチランに最も 多くの建造物とモニュメントを残した鳥・ジャガー4世(在位 752-768AD)によるもので、碑文によると鳥・ジャガー4世が祭礼の踊りを しているところだそうです。

なおヤシチランからの石造物は 首都の国立人類学博物館 に 16本展示されている他、 19世紀末に持ち出された石板 5本がロンドンの大英博物館に展示されています。

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(Fragmento de estela de La Mar, 785AD)) (Fragmento de Estela 1 de Chinkultic, 844AD)

ヤシチラン同様ウシュマシンタ川西岸にあるラ・マールという遺跡の石碑の断片がありました。 細切れにされ密輸されたものを取り戻して この博物館に展示してあるそうです。

博物館の説明書きにはラ・マールがヤシチラン王朝の一部で、石碑にはラ・マールの王が彫られ、 785年の祭礼に際しコパルを入れた袋を持っている、 とありました。 でもラ・マールはこの時代ピエドラス・ネグラスの衛星都市であり 794年のポモナ攻略にはピエドラス・ ネグラスの先兵となり戦争に参加していたようです。 それ以前にはパレンケの支配を受けたこともあるようで、戦乱に明け暮れた ウシュマシンタ川流域にあって常に大国に翻弄されていたのがラ・マールだったという事でしょうか。

写真右の石碑はチアパス高地の チンクルティック からのもので、 かなり風化していますが、844年にあたる日付が長期暦で刻まれているそうです。 長期暦で刻まれた日付としては最も新しいものの ひとつとの事で、10バクトゥン (10.0.0.0.0.) が 830年にあたるので、844年は10バクトゥンに入って 14年後と言う事になります。

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 (Estela 1 de Tenam Puente, 600-900AD)

石造物の最後はチンクルティックとライバル関係にあった テナム・ プエンテ の石碑1で、石碑両面に王杓とコパルの袋を持った王が刻まれ、側面には王家の象徴であるゴザの模様が彫り込まれています。  チンクルティックと共に後古典期の初めまで街は維持されたそうで、石碑にはあまり文字が見当たらず、石碑自体 古典期終末期から 後古典期にかけてのものかもしれません。

テナム・プエンテは自然の丘を五段に造成してひとつの山のような大きなアクロポリスを築き上げた、かなり規模の大きいマヤセンター です。 街づくりは石造物だらけのトニナに似ていますが、現地では石碑は全く見かけず、初めて見るテナム・プエンテの石碑でした。  遺跡の規模からするともっと沢山の石造物があった事と思いますが…。


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 (Plato policromo tipo códice)      (Vasijas con decoración, Lagartero, 600-900AD)

石造物は以上で、ここから焼き物です。 左は説明書きが見当たらなかったので詳しい事はわかりませんが、ペテン様式の多彩色コデックス皿だと 思います。 右の図柄が細かく描かれた彩色土器は全てラガルテロからのもので、ラガルテロの彩色土器は首都の人類学博物館の展示でも一際 目を引き、以前から気になる遺跡でした。 場所はテナム・ロサリオより更に 30Km 位南のグアテマラ国境近くです。

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 (Ollas y vasos, Lagartero, 600-900AD) (Figurilllas y pendientes, Lagartero, 600-900AD)
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 (Vasos y cántaros, Lagartero, 600-900AD)   (Tapas de incensario en forma de Búho y braseros, Lagartero)

続く4つのショーケースも全てラガルテロからの土器類で占められています。 古典期後期、ラガルテロは優れた陶工を擁する有数の土器類の 産地だったようです。 写真右上は焼き物の人形やペンダント、 右下はミミズクが造形された香炉の蓋と香を燃やした火鉢です。  ラガルテロはテナム・ロサリオと併せて一度行って見たい遺跡です。

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(Urna con decoración modelada, Comitán, 600-900AD) (Urna-brasero de dios GIII, Ocosingo, 600-900AD)

次に大型の骨壺。 左はコミタン地方の洞窟から見出された骨壺で、壺の上にジャガーが座り外面には戦士が表わされています。  右は冥界の太陽ジャガー神 GIII が描かれたオコシンゴ地方からの骨壺です。 埋葬方法はよく知りませんが、火葬した骨を収めたのでしょうか?

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(Portaincensario cilindrico, Palenque) (Portaincensario, Templo de la Cruz Foliada, Palenque, 600-900AD)

チアパスですから当然パレンケの大型香炉も2つ展示してありました。 マヤ芸術のひとつの頂点とも言われるパレンケの円筒型香炉は 500年頃から 850年頃にかけて作られ、時代と共に形式的な発展を遂げてきたようです。 20年毎に作り替えられ、使われなくなった香炉はパレンケで最も聖なる 場所とされる十字のグループの広場に丁寧に埋納されました。

首都の人類学博物館には同様の円筒香炉が 5本展示され、パレンケ遺跡博物館には 14本の展示がありました。 かなりの数の香炉が作られ、埋納 されたそうです。

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 (Portaincensario ?)  (Cuenco de guacamayas rojas, Edificio 4, Bonampak, 600-900AD)

左の香炉は説明が間違っていて(展示差し替えの為か別の説明?)出所を含めて詳細不明ですが、太陽神を刻んだ香炉でしょうか。  右は赤いコンゴウインコが描かれた極彩色の器で、ボナンパックの建造物4の埋葬1からの副葬品です。 

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 (Reproducción del muro norte del cuarto 2, Bonampak, 600-900AD)

ボナンパック と言うとやはり壁画の神殿にある装飾壁画が有名で、 古典期マヤ・セクションの奥の壁は第2室の復元画で飾られていました。 第2室は捕虜に対する拷問のシーンで、復元画は入り口のある面、 つまり入って後ろを見返したところにあり、実際は部分、部分でしか見られません。 この復元画は 色彩を含めて細部まで綺麗に描かれていて、 全体の絵柄がよくわかりました。

ソケの古典期  ZOQUE EN PERIODO CLASICO
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 (Sala de exhibición)

古典期マヤの次がこの6番目のセクションで、ソケの展示が中心ですが 最初に少しマヤのものも。

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 (Urna-incensario, ocosingo, 600-900AD)   (Ceramicas pintadas, Yucatan y Campeche, 600-900AD)

写真左の骨壺は東の空の若い太陽神が表現された、オコシンゴ地方からのもの、マヤです。 右の彩色土器は動物が描かれた やはりマヤのもので、 出所はユカタン、カンペチェ北部、チアパスと様々です。

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 (Objetoss de jaditas, conchas y perla, Maya y Zoque en Chiapas, 200-900AD)

マヤ、ソケ共に翡翠と貝を珍重し装身具に用いていた、と言う説明で装身具が集められていました。 写真左のウミギク貝と真珠が埋め込まれた 翡翠玉のあるトレーがトニナからのもので、それ以外はソケの装身具になるようです。

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      (Estelas de Zoque, El Tornillo, Ostuacán, 600-900AD)

ここから ソケです。 これは8-9世紀のソケの王の立像で、ソケの街の中心になる広場にはこうした腕組みをした王の立像が飾られたそうです。  マヤと比べると大分質素です。 この立像の出所はタバスコ州に隣接するオストゥアカン郡で、古典期ソケの遺跡として公開されている マルパシート が直ぐ近くになります。

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 (Incensarios, Cueva de los Bordos, Cintalapa, 600-900AD)

古典期のセクションでロス・ボルドス洞窟からの大型香炉が4点展示されていましたが、このセクションにも同じ洞窟からの 香炉が5点展示 されていました。 サイズもタイプも大分違いますが、こちらは古典期後期になっているのでより新しいものかもしれません。

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 (Objetos recuperados de Cueva de El Tapesco del Diablo, Ocozocuautla, 600-900AD)

これも洞窟から回収された遺物で、オコソクアウトゥラ郡のタペスコ・デル・ディアブロ洞窟からです。 古典期の遺物と言うのに 木製の道具やシュロで編んだ籠などがそのまま残されているのは驚きで、気になって少し調べてみました。

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オコソクアウトゥラ市の西からマルパソ・ダム湖へ北西に流れ込むラ・ベンタ川があり、両岸がそそり立った峡谷になっていて、その崖面にある 洞窟の探検の過程でこの洞窟遺跡が見出されたもので、発見は 1993年と比較的最近の話でした。 少し下流にロス・ボルドスの地名もあり、 郡は異なりますが、ロス・ボルドス洞窟も同じラ・ベンタ川峡谷だったみたいです。

300m もの高さの崖の中腹で 水面から 70m 位の所に材木で蓋をされた洞窟の入り口が有り、地元では古くから タペスコ・デル・ディアブロ(悪魔の戸口?) として知られていたものの誰も入った事がなかったそうで、ここに探検隊が苦労の末に辿り着いて中から数々の遺物を見出した、という話です。

洞窟は古典期後期に閉じられましたが、洞窟内は極度に乾燥しており、1000年以上の時を経て、当時の遺物がタイムカプセルさながらに現代にその姿を 現したと言う訳です。

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 (Hacha de pedernal con mango de cupapé)              (Petaquilla funeraria hecha de palma tejida)

洞窟内には数多くの土器が、埋葬されたと思われる人骨と共に散らばっていたそうですが、当時の生活の様子を伝える副葬品が特に注目されます。  左はチャート製の穂先が付いた斧で、木製の柄がそのまま残っています。 右はシュロで編んだ籠で、中には数々の副葬品が収められていました。

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 (Máscara de madera, concha, hueso, cuero y pirita)     (Máscara pectoral de madera, Peineta enlazada)

左はシュロの籠に収められていた副葬品の胸飾り、若しくはペンダントトップで、木製の台に貝、骨、皮、黄鉄鉱を張り付けて作られ、 完璧な状態で発見されています。 右の写真も埋葬の副葬品で、両面が櫛になっているものは機織りに使われたもののようです。 

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(Cuencos estucados y pintados ; Vasos y cajetes de travertino, Cueva El Tapesco del Diablo, 600-900AD)

洞窟内からは未破損の土器が 200 以上回収され、左はその彩色壺で、中にはカヌーに乗って櫓を漕いでいる図柄も見られます。  洞窟は冥界や先祖と交信する聖なる場所として、祈祷が行われたり、或いは墓地として使われたりしましたが、ソケの商人は洞窟を倉庫としても 活用し、右のアラバスター製の容器はこうした倉庫に残されていたものだそうです。

この6番目のセクションは何がポイントかあまり明確ではありませんでしたが、どうも目玉はこのタペスコ・デル・ディアブロからの展示品だった ようです。

後古典期  PERIODO POSCLASICO EN CHIAPAS
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 (Sala de Exhibición)

いよいよ最後の7番目のセクション、チアパス後古典期の展示です。

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 (Vasijas y figurillas del pueblo chiapaneca, Chiapa de Corzo, Acala y Suchiapa, 900-1530AD)

チアパスの中央台地では後古典期にチャパネカ族が勢力を持った事が知られます。 現在のニカラグアを起源に持つ好戦的な部族だったと 言われ、後古典期末期に侵入してきたアステカ族も撃退したそうですが、最後はスペイン人の軍門に下ります。 展示はチャパネカの土器類 で、長い足を持つ三足土器はチャパネカ特有だそうです。

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 (Cerámica plomiza, Izapa, Tuxtla Chico; Chinkultic, La Trinitaria; Región del Soconusco, 900-1200AD)

これはチアパス南部で作られたプロミサ式土器で、光沢のあるオレンジやグレーの色調が特徴で、曲線を多用して老いた神や動物が描かれたものが 多いようです。 後古典期前期を代表する様式で、チアパスではソコヌスコ地方を中心に、グアテマラ西部でも作られ、メゾアメリカに広く交易で もたらされたそうです。

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 (Cerámica plomiza, Izapa, Chinkultic, Región del Soconusco, 900-1200AD)
                                  (Ofrenda de cuchillos, Izapa, 900-1200AD)

写真左もプロミサ式土器で子供用の玩具のようなものもあります。 右は後古典期前期の石器類で、全てイサパの土塁 60 の近くに大きな器に入れて 埋められていたそうです。

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 (Ollas y cántaros, Frontera Comalapa y La trinitaria, 1200-1530AD)

後古典期のチアパスでもうひとつ特徴的な土器が展示されています。 リオ・グランデ・デ・チアパス周辺の高地で後古典期後期のマヤ人によって 作られたもので、首から肩にかけて描かれた幾何学模様が特徴です。

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 (Objetos de cobre, Chiapa de Corzo, 1200-1530AD)
                       (Agujas de hueso y madera, torcedores de redes, Tonala, 1200-1530AD)

後古典期後期になるとメキシコ西部で銅の合金が作られるようになりチアパスにも銅器が入ってきます。 展示されている銅器(写真左)は全て チアパ・デ・コルソからのもので、後古典期も後期ですからチャパネカ人によって持ち込まれたものだと思います。

右の写真は、木製および骨製の針と網を紡ぐ為の編み棒?で、トナラ郡の洞窟から。 太平洋に面したトナラではこうした道具を使って 漁業を行い、高地と交易していたようです。

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 (Objetos de estilo azteca, Zinacantán, Chiapa de Corzo, Acla, 1200-1530AD)

これはアステカ様式の品々です。 後古典期後期にはアステカとチアパスのマヤやソケとの間で交易が行われますが、1482年にはアステカは軍隊を 送って制圧にかかり、貢納を強いるようになります。 ここで最後まで抵抗したのがチャパネカ人でした。

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 (Los textiles recuperados del Cueva de la Garrafa, Siltepec, 1200-1530AD)

展示物の最後の方に素晴らしい織物が展示されていました。 特別展示品と書いてあったので最近の収蔵物かもしれません。 シルテペック郡の ラ・ガラファ洞窟だそうで、上の方のタペスコ・デル・ディアブロ同様、極度に乾燥した環境下で腐敗せずに残ったのでしょう。 後古典期後期には 他地域との文化交流の跡が見られ、織物の図柄はオアハカのミシュテカ・コデックス風との説明でした。

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      (Altar, Finca San Jerónimo, Unión Juárez, 900-1530AD)

上述の通り後古典期後期の末期にはアステカがその支配を伸ばし、この石造の祭壇のような遺物も残される事になりました。 ソコヌスコ地域の ウニオン・フアレス郡からのアステカの祭壇です。

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 (Esculturas de madera de cupapé, Paraje Emiliano Zapata, Chalchihuitán, 900-1530AD)

最後にマヤの木像。 チアパス中央高地のマヤ人たちは洞窟で祭礼や葬礼を行い、自らの先祖を木像に仕上げて洞窟に置いて儀式を行った そうです。 この木像は 1200年頃のものと推定されますが、実際には 1960年まで使用されていたそうです。


チアパス地方博物館・考古学室。  展示物個々の説明書きが充実していたので、このページも 詳細な説明で長編になりました。  博物館での滞在時間は1時間半位でしたが、このページの準備にはたっぷり日数をかけることになって…。  素晴らしい博物館でした。



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