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SALA MAYA II  人類学博物館 マヤ室 II
古典期 後期  Clásico Tardío (600-800AD)
古典期後期には、ティカル、カラクムル、パレンケ、ヤシチラン等の 南部低地が絶頂期に達します。 顕著な人口増大に伴って先例を見ない活発な建築活動が起き、大きな広場の周りに数多くの 華麗な装飾を持つ公共建造物が建てられ、神聖文字で様々な出来事を印した記念碑が並べられました。

因みにこの時代、日本では飛鳥・奈良時代、随分違う文化です。
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 (Estelas en Gran Plaza, Yaxchilán)         (Templo de las Inscripciones, Palenque)

古典期マヤは世襲制の絶対王朝の時代で、前期にマヤ王朝が各地で興隆し、後期にその絶頂期を迎えて、終末期 (800-1000AD) に入ると相次いで衰退していきます。

王朝の絶頂期であるこの古典期後期には王権が最も強大になり、王が権力を誇示し政治・祭事を司る場として、神殿、球戯場、宮殿や 広場からなる巨大なマヤセンターが各地に築かれ、王の偉業を図像と文字で刻んだ石碑が次々に作られました。

王朝同士は抗争を繰り広げますが、建築・工芸等 文化面では華やかな絶頂期となり、建造物の素晴らしさと共に 刻まれた文字から 歴史が解明できる、最も興味深いマヤの時代になります。

左はヤシチランのグランプラサに建てられた石碑、右はパレンケの碑銘の神殿、共に現地の写真です。  建造物は現地へ足を運ばないと見れませんが、逆に小さなもの、重要なものは博物館に移されており、このマヤ室、貴重です。


古典期 後期の陶器  La Cerámica del Clásico Tardío
古典期後期、初めにマヤ室訪問順路に従い陶器(土器?)を見てみます。 古典期前期の陶器が展示されたケースの隣です。
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 (Sección de La Cerámica del Clásico Tardío)

鮮やかに彩色された陶器が並びますが、これは一般に使われたものではなく、王侯貴族が儀式やその生活で用いたもので、 王侯貴族の墳墓にしばしば副葬品として埋葬されました。 貴族の生活や肖像、死後の世界等が神聖文字と共に描かれ、 歴史解明の貴重な資料にもなります。

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 (Ceramicas de Clásico Tardío)

陰刻されたものや幾何学模様の陶器。 一番右は出所が Dzibilchaltún (Yucatan) と判明している由緒正しい壷で、 上縁部にマヤ文字が描かれています。

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 (Ceramicas de Clásico Tardío)

左は宮廷の様子が描かれた Zoh Laguna (Campeche) の壷、中央は Jaina (Campeche) 出土の商業の神様を描いたもの、右は貴族の様子を 描いた絵皿。 全て文字が描かれています。

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 (Ceramicas de Clásico Tardío)

左は Jaina 出土の想像上の鳥を描いた絵皿、中央と右は Lagartero (Chiapas) 出土で 貴族の様子が見事に彩色された壷です。


古典期 後期の石造記念物  Estelas y Dinteles
さて壁際のショーケースから離れて室内に並べられた石造物を見てみましょう。 石碑とまぐさ石(建物の入口を飾ったもの)が 合計23本展示されていて、この内16本はチアパス州グアテマラ国境沿いのヤシチラン遺跡からのものです。
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 (Exhibición de Estelas y Dinteles)

石造物記念物の展示です。 細かく図像と文字が彫られた石造物は熱帯のジャングルでは風化が甚だしく、博物館での保存が必須です。 折角 現地まで足を運んでも見れないものが、ここで見る事が出来ます。

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 (Estela 18 de Escudo Jaguar II <681-741> Yaxchilán, Dibujo y Detalle, 377cm)

まず、石碑。 1枚上の写真左でトニナ王の立像の右に並んだ5本の石造物の内、右から2番目の細長いのがこの石碑18号、 ヤシチランからの ものです。 跪く ラカンハの王、ポポル・チャイの前に立つ盾ジャガー2世 (在位 681-742)、729年にラカンハに勝利した事績に基づきます。  他にヤシチランの石碑 9、10、15号がマヤ室に展示されています。

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 (Dintel con glifos exculpidos)

次にまぐさ石 (Dintel) ですが、あまり聞きなれない建築用語です。 左は建物上部が無くなっていますが入口の遺構で、鴨居の部分に載った まぐさ石が判ります(遺跡での写真)。 右はこのまぐさ石を下から見上げた写真で、まぐさ石の下側に神聖文字が刻まれています。 

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 (Dintel 48 y 47 de Yaxchilán)

まぐさ石に施された彫刻ですが、石碑と異なり置かれた場所が半ば室内なので 1000年以上の時を経て今日に残されました。 それにしても戸口の上なんて誰が 見るのか少々疑問です。

まぐさ石、響きが良くないので石板と呼びましょう。 左が石板 48、右が石板 47です。 2枚一組になっていて、石板 48は頭字体を用いた見事な神聖文字で 9.4.11.16.2 と キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世が即位した 526年の日付を示し、石板 47 ではマヤ暦の初めの紀元前 3114年から即位までのヤシチラン王朝 の歴史を語っているようです。

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 (Dintel 26 y 43 de Yaxchilán)

左は盾ジャガー2世の妃カバル・ショークの居所、建造物23の戸口を飾った石板 26 (724年)で、3つ有る戸口を飾った3枚組の石板の1枚です。  盾ジャガー2世がカバル・ショーク妃からジャガーの兜を受け取っている様子が刻まれ、最も洗練されて美しい石板としてマヤ室入口に 置かれています。 残りの 石板 24、25 は 19世紀末にヨーロッパへ持ち出され現在大英博物館にあります。

右は建造物42の戸口を飾った石板 43。 752年に鳥ジャガー4世が放血儀礼を行う場面で、妃から儀礼に用いる道具を受け取るところです。

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 (Dintel 53 y 58 de Yaxchilán)

左は石板 53で、盾ジャガー2世が妃 風・頭蓋骨と祭礼に参加している場面で、697年の年号が有るようです。

右の石板 58号は盾ジャガー3世 (769-800頃)が王杓を持ち、斧と太陽の盾を持った叔父の 偉大な頭蓋骨 と向かい合っています。 時代が進むと 浮き彫りが浅くなり、石板の質も下がってくるようです。 ヤシチランの石板(まぐさ石)は全部で12枚 展示されています。

ここまで石碑も石板も全てヤシチランのものでしたが、ヤシチランは発掘調査が比較的最近の事で、立派な石造物が数多く発見され、多くが国立博物館保存となりました。

博物館には勿論他の遺跡からの石造物も展示されています。

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 (Estela 51 de Calakmul y dos mas estelas muy erosionadas Estelas 17 y 51)

古典期にティカルと並んでマヤの一大センターだったカラクムル には 120本位の石碑がありますが、風化が進みボロボロで多くは現地に 残されており、程度の良いものが3本だけマヤ室へ移されています。

左の 51号石碑は高さが4mを超える立派なもので、カラクムルでもっとも状態の良い石碑です。 ユクーム・トーク・カウィール王 (702-731) が 731年のカトゥンの終了(9.15.0.0.0.)を祝ったもののようですが、盗掘者によって大事な部分がかなり削り取られ、解読は不完全だそうです。 他の2本は 風化で傷みが激しく、マヤ室の裏庭に抜ける出口の外側に置かれています。

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 (Estela 5 de Sayil)            (Estela 9 de Santa Rosa Xtampak) (Estela de Xcalumkin)

その他の遺跡からの石碑。 左はユカタン州 プーク地域 サイールの 石碑 5号です。 衣装と手足の動きから貴族が踊っている様子と解釈されて います。 図像だけで文字は無く古典期終末期に近い時代のものと思います。

中央はカンペチェ州サンタ・ロサ・シュタンパック遺跡の石碑 9号。  現地には1本も石碑は残されていなかったと思います。 王の下に彫られた文字から、捕虜、球戯者、年号、死が読み取られ、シュタンパックの 王が捕虜と球戯を行い、負けた捕虜を生贄にした事が書かれているようです。

右がカンペチェ州シュカルムキン遺跡の石碑。 王が背中に浣腸器とプルケ入りの鍋を背負っていると説明にあります。 何ですかそれ? 浣腸で身を清める? 浣腸器をスペイン語のWikipediaで調べたらこんな画像 がありました。  成る程 右下に袋様のものがあります。 プルケはアメーバが混じっていて良く下痢しますが???

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 (Tablero de la Templo de la Cruz, Palenque)

石造記念物の最後はチアパス州パレンケのもの。 マヤ中部低地の西の雄 パレンケ には石碑があって当然なのですが どう言う訳か一本も無く、 代わりに壁面や玉座等に石彫りや漆喰彫刻で図像と文字が刻まれています。 写真は十字の神殿にあった壁面彫刻で、パカル大王が左のカン・ バラム 二世に王笏を渡しているところ、690年1月10日の即位の模様だそうです。 現地には本物そっくりの忠実な複製品が置かれています。


マヤの装飾品   Ornamentaciones de Maya
また壁面にあるショーケースに戻ります。 マヤ階級社会のピラミッド展示の次に装身具を集めたコーナーがあります。
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 (Sección de Ornamentaciones)

勿論王侯貴族の占有物ですが、実際のマヤ人が身に付けた物と考えると現実味が増します。

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 (Obsidiana tallada, Orejera de obsidiana con sinabrio, Pectoral y Brodhe de Jade)

左は黒曜石の細工品。人の横顔との事ですが???です。 中央の環は黒曜石に辰砂を塗った耳飾りでパレンケのもの。 右はヒスイ細工の 胸飾り、髪飾り、ブローチ等です。

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      (Pectoral de Jade con amber)          (Escultura de hueso) (Escultura de jadeita)

琥珀がのったヒスイの胸飾り(写真左の左下)はオアハカ州のモンテアルバンからとありますが、マヤから交易されたものでしょうか?  蛙の貝細工は写実的です。  中央は骨に刻まれた王、右は翡翠製のペンダントです。

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      (Vasija Caracol)                    (Figurilla Antropomorfa)

装身具ではありませんが、このコーナーの近くに有る焼き物2点をここで紹介してしまいます。  中央は巻貝から頭を出す老人。3つ解説を 読みましたが解釈がまちまち、ここで説明は控えます。 右はカラー(花)から誕生する女神。 どちらも写実的で洗練されています。


マヤ文字  La Escritura Maya  Ornamentaciones de Maya
3本の石碑に挟まれて、マヤ文字のコーナーがあります。
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 (Sección de La Escritura Maya)

マヤ文明の特徴であるマヤ文字。 石碑、祭壇、石板、壁、階段、玉座、装身具等に文字が刻まれた他、焚書を免れた絵文書もあり、マヤの 歴史を解明する手掛かりになりました。

マヤ文字の研究は 19世紀後半から始まり、初めに数字と暦が解読され、表意文字と表音文字の解明が進み、最近は多くの動詞の意味も わかってきて、古典期マヤ王朝の様子が明らかになってきました。  マヤ暦についてはマヤ・トピックスの中で解説してあります。

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 (Copias de Códice Madrid)

マヤ絵文書 は現在4種類発見されており、写真はマドリー・コデックス(絵文書)。  現物はマドリーの博物館なので、これは精巧な複製品の筈です。

マヤ絵文書は、この他にドレスデン・コデックス、パリ・コデックス、グロリア・コデックス(*)があり、中味はどれもマヤ祭礼を行う為の年間 予定表、指南書のようなもので、後古典期に作られた絵文書ですが内容は古典期からのもので、古典期マヤの解明に貴重な資料になりました。

(*)  グロリア・コデックスは タバスコ州の洞窟で発見され 1965年に収集家が買い求めた、つまり 20世紀 中頃以降に発
    見されたコデックスですが、偽造された偽物という説が強いようです。 現在は寄贈されてこの人類学博物館蔵。


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 (Reproducción de Códice Dresde)

絵文書は屏風状の細長いもので、左から右へ読みました。 文字は左上の文字から右上の文字を読み、次に下の段の左から右と、左側の縦2行を 最初に読んで、下まで来ると左から3-4行目を上から下へ読むと言う順番です。 写真は家に有ったドレスデン・コデックスの復刻版で解説書付きです。  ドレスデン・コデックス については別途まとめて解説して有ります。

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 (Lápida Dupaix de Palenque)    (Sección de La Escritura Maya)

展示に戻り 左はデュペ石板。 19世紀始めに ギヨーム デュぺがパレンケの玉座の支えから見つけたもので、博物館の最も古い所蔵品の ひとつ、神聖文字が6文字刻まれています。

右はパレンケの漆喰で作られた神聖文字と、文字を操った書記たちが描かれた壷類。

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 (Glifos estudacos de Palenque)                    (Cajeta con dibujo de un escriba)

パレンケ漆喰文字の拡大。 左はツォルキン暦の 3オック、犬の顔がある右側が オック で、左の顔が頭字体の 3 で、1文字で 3 オックになります。

中央はディスタンス・ナンバー(ある出来事から何日たって)で 3ウィナル、12キン。 上の点3つと顔文字 が3ウィナルを表し、点と棒で表された12も見て取れ、全てが1文字で 「○○ から72日経って」の意味になります (3 x 20 + 12) 。  これら一文字一文字では文意が伝わらず、盗掘者が一文字ずつ剥ぎ取ってしまった為に全体の意味が 解読できなくなりました。

右の彩色壷には文字を操った書記の姿が描かれています。

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 (Detalle de Dintel 48 de Yaxchilán)

これは石造物の所で既に紹介済みのヤシチラン石板 48号の部分です。 あまりに細工が細かいので上から2段目の2文字を拡大して みました。 右側の文字は猿の全身像がキン(日)を表し、猿が手に持った頭が 6、手の下で足で支えた頭が10を表し、全体で16日の意味だとか。


戦争  La Guerra
古典期コーナー中央壁際に戦争と題した小さなコーナーがあり、石造物が3つ展示されています。 王朝の生き残りと 勢力拡大の為、武力による戦争と政略婚姻等を通じた連携が繰り返され、戦争・生贄は日常のテーマでした。
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 (Esculturas de los cautivos, Toniná)           (Lápida de Junuta)

左下の細長い石造物はトニナ の階段に施されていた彫刻で、縛られた捕虜が横たわり、腿には捕虜の名前、捕虜の両脇にトニナ王の名前が彫られて います。 トニナの王はキニチ・バークナル・チャーク王 (在位 688-704)。 上もトニナ出土の捕虜が彫られた石板です。

右はホヌータの石板。 ホヌータはパレンケの北 約 80Km タバスコ州にあり、ここに彫られているのはパレンケのカン・バラム二世で 胸にジャガーの毛皮の付いた短剣と背中に戦争の鳥を持ち両手で捧げ物をしている、と博物館の説明にはあります。 ここでは戦争ではなく 和平の道を選んだと言うことでしょうか。 それにしても博物館のガイドブックのひとつには、この石板の説明として、聖職者が祭礼を 執り行っていて、胸に男性器があり…なんて書かれたものもあり、文字の解読がされるかされないかで、これだけ違った解釈になるとは 驚きです。


梁に描かれたフレスコ画  Pinturas en la Tapa de Boveda
古典期コーナーの外れに白地の漆喰の上に赤で線画されたフレスコ画があります。 これまでに160以上の同種のフレスコ画が確認され、 K神を描いたものとされます。
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 (Las tapas de la bóveda pintadas de Uxmal, Chicanná y Dzibilnocac)

左からユカタン州の ウシュマル、カンペチェ州の チカナシビルノカック からのもので、こうした梁にフレスコ画を配するのは、古典期後期のプーク様式、チェネス様式共通の特徴のようです。

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 (Reproducción de tapa de bóveda de Uxmal)

左上のウシュマルのフレスコ画は現地に複製(写真左)が残されており、マヤアーチが上部で閉じられた梁の部分の中央に絵がありました。  写真右で矢印で示した部分です。

K神は 先祖や王の家系を祝う祭礼と結び付けられ、支配者の権力の象徴でした。 建物の落成を記念してこうしたフレスコ画が描かれ、 一族の繁栄と豊穣を祈念したもののようです。


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