1946年に極彩色の壁画が発見され世界中から注目を集めたボナンパック遺跡。 規模は大きくありませんが、壁画のお蔭で最も有名な古典期マヤ遺跡
のひとつです。 3部屋にわたって室内全面に当時のマヤ社会の様子が生きいきと描かれ、古典期マヤの最も完全かつ歴史的美術的に
価値あるものとして、メキシコのシスティーナ礼拝堂とも言われます。
1200年の時を経た壁画はそのままでは解釈が難しく、永年修復が試みられ、最近はデジタル技術を駆使して復刻画も作られ、文字も含めてかなり細部まで
読み取れるようになりました。 (下の画像はチアパス地方博物館でパネル展示されている復刻画です。)
ボナンパックへはパレンケを拠点にボナンパックとヤシチランを1日で廻るツアーを利用するのが一般的です。 早朝に出発し、戻りは日が暮れて
からになります。
(訪問日 2011年11月22日、2001年1月3日)
2011年訪問時に壁画の神殿 第3室が修復中で閉鎖されていた為、今回 修復完了を期待して再訪してみました。 幸い修復は終わり、公開が
再開されています。 修復後の壁画の写真を追加し、説明を加えました。 青文字部分が新たな変更部分です。
(訪問日 2013年1月19日)
ツアーについて Tour por Bonampak y Yaxchilán
(Ruta para Bonampak y Yaxchilán)
ボナンパックはラカンドンのジャングルの奥にあり 最後の部分はエコ対策で一般車乗り入れ禁止、ヤシチランは国境を流れるウシュマシンタ川沿いで 遺跡へは
船に乗らないと行けません。 それぞれ最後の部分の専用車と船の手配を考え、また国境地帯の治安も考えると、両方セットになったツアーを利用するのが
得策です。
パレンケから国道198号を一路南東へ。 ヤシチランは国境の街 フロンテラ・コロサルから船旅です。
(Tour en 2001)
初めてこのツアーを利用したのが 2001年で、この時はボナンパック専用車は写真の通りロゴ入りのバス、遅い昼食はヤシチランのコッテージのテラスで
船に積んでいった材料を現地で調理してと、なかなか雰囲気のあるツアーだったのですが…。
(Tour en 2011)
10年後の2回目のツアーは初回と似通ったものでしたが、ツアーの人数が増えたせいか何だか事務的でドライ。 食事は大きな施設でビュッフェ、
ボナンパック専用バスはなく、ツアーのバンと似た車に乗り換えるだけで何の為に車をかえるのやら。
行きたい人を募りホテル毎にピックアップしていく集合タクシーに、食事、舟、入場料の最低限の手配を付加したサービスで、遺跡に着いたら自由。
出発時間を指定され、「必要ならガイドを自分で手配してください、では Good Luck ! 」 必要条件だけは満たしたツアーです。
写真はツアー出発直後、朝食時のレストランと外に並ぶツアーのバンで、ツアーは事務的になりましたが、バンは沢山出ているので、参加者が少ないと
ツアーが成立しないと言う心配はなさそうです。
ボナンパック遺跡 Sitio Arqueológico de Bonampak
(Entrada al sitio de Bonampak)
2001年はボナンパックが先でしたが、今回はヤシチランの後フロンテラ・コロサルに戻って昼食を取り、最後にボナンパックでした。 写真はボナンパック
の入り口で、午後3時をまわり太陽が大分西に傾いてきています。
3回目の 2013年はボナンパックが先になりました。 ツアー全体でバランスを取っているのかもしれません。
(Hacia la ruina)
遺跡は入り口から南へ一本道。
(Explicación de Historia de Bonampak)
ボナンパックの歴史の説明がありました。 左からスペイン語、マヤ語、英語の順です。
「 最盛期は古典期後期にあたるが、多分古典期前期には既に重要なセンターだった。
ボナンパックについて最も古い言及はヤシチランの石板 49 に見られ、402年にあたる。 512年のヤシチラン10代王の即位にはボナンパックのジャガー
・結び目王が出席した事が知られる。 ボナンパックの記録では石板4に 603年にかけてのボナンパックの王チャン・ムアーン1世が刻まれ、石彫り1には
683年のもう一人の人物がボナンパック王として言及される。 746年にボナンパックとヤシチランの連合軍が隣のラカンハを打ち破り、以後ラカンハは
ボナンパックの支配下となる。
ボナンパック最後の王で最も重要な王はチャン・ムアーン2世であり、776年に即位し少なくとも 792年までは王座についていた。 この年号は壁画に
記され、ボナンパックで最後のものとなる。
大広場の巨大な石碑1とアクロポリスの石碑2、3及び壁画の神殿はチャン・ムアーン2世の命により作られ、この時期がボナンパックの最盛期となり、
ラカンハ谷のいくつかの場所をその支配下に置いていた。 」
古典期マヤの歴史は碑文に刻まれた事柄が元になっていて、新たな発見や解読で覆る事もあり、実際この説明にはありませんが、ボナンパックがピエドラス・
ネグラスの属国になっていた時期もあったようです。 しかし地理的にヤシチランが近く、妃を受け入れたりと 基本的にはヤシチランと密接な関係を
保っていたようです。
(Acercando a la ruina)
さて、一本道の先、遺跡が見えてきます。
(Estructura 15)
北側から遺跡に入ります。 これは遺跡に入った所にある建造物 15 で、彫刻のない無地の石碑7の向うに屋根があり、崩れた王の像があったようですが、
蓋がしてあり見れません。
地図で場所を確認しておきましょう。 一枚上の写真は入口の矢印のところから建造物 15 を見たところでしたが、その先にグラン・
プラサ (約110 x 90m) があり、その南がアクロポリスです。
グラン・プラサ Gran Plaza
(Gran Plaza y Acrópolis)
グラン・プラサに足を踏み入れると中程に大きな石碑、奥にアクロポリスがあって、屋根が取り付けられた建造物 1、壁画の神殿も見えてきますが、
まずはグラン・プラサをひと回り。 アクロポリスの写真は午後は逆光になります。
(Acrópolis en la mañana, foto en 2001)
これは 2001年に撮った写真で、アクロポリスの写真は午前中に限ります。
(Acrópolis y las estelas)
屋根で保護された石碑は石碑1で、高さが 6m 近くあります。 幅も 3m 弱あって、マヤでも最も大きな石碑のひとつです。
(Estela 1)
石碑1は一番下に地の怪物が彫られ、神聖文字を挟んでその上にチャン・ムアーン2世が正装して立ち、776年の即位後の最初の4分の一カトゥン
(9.17.10.0.0. 780年) を記念したもののようです。 彫りはあまり深くありませんが、大きさの割に厚さが 20cm 未満で、技術の高さが窺われます。
(Estela 1)
王の姿を拡大してみました。 右手に儀礼用の槍、左手にはジャガーが彫られた楯を持ち、瞳が彫り込まれていて鋭い眼光を放ちます。 足元の神聖文字は
王の母親と父親の名前で、左足横にはチャン・ムアーン2世の名前が刻まれます。 (
トニナで見た幾何学
模様 は儀礼用の槍の装飾だったみたいで、びっくり )
(Estela 1)
そして神聖文字の下には大地の怪物、ウィッツ・モンスターの図像が刻まれます。
(Acrópolis y Estructura 15 a la izquierda)
石碑1の西側にもう1本石碑がありますが、彫刻は認められません。 漆喰の上に彩色されていたのでしょうか。 左奥は遺跡に入った所の建造物 15 で、
無地の石碑の後方、緑の中に建造物 16 があります。
(Estructura 17 al fondo)
上の画像の右側、グラン・プラサの東側に建造物 17 があり、石碑が1本立っています。
(Estructura 18 y gran basamento de Acrópolis)
更にその右側に建造物 18 があり、アクロポリスへと繋がります。
アクロポリス Acrópolis
(Parte este de Acrópolis)
これが自然の斜面を造成したアクロポリスで、中腹の左側、木に隠れているのが建造物 3 で、上の段に右から建造物 4 - 8 が並びます。 下段に2本
並ぶ石碑は、左が石碑2、右が石碑3です。
(Escultura en estuco de posible governante de epoca anterior ?)
石碑2の前に、王の漆喰像が掘り出されていて、これは前回はありませんでした。 最近の発掘で見出されたもので、現在のアクロポリスの内部
にある為 古い時代のものになりそうですが、詳細はわかりません。
(Estela 2 y 3)
これが石碑2(左)と石碑3(右)で、石碑1同様チャン・ムアーン2世が刻まれます。 石碑2は 776年の即位年が記され、向かい合った母親と後ろに立つ
妃の間で放血儀礼を行うチャン・ムアーン2世の姿が残されます。 石碑が奉納された時期がはっきりしませんが、789年 (9.17.18.15.18) の日付があり、
3本の石碑の中では一番新しいもののようです。 5年毎に石碑が建てられたとすると 790年の建立になりますが。
石碑3は下の方が少し風化が進んでいますが、王の足元に捕虜が跪いています。 785年 (9.17.15.0.0.) の日付が刻まれ、王の即位後10年目にあたる
4分の一カトゥンを記念して建立されたようです。
(Detalle de Estela 2)
石碑2が一番保存状態が良く、中央部を拡大してみました。 2人の女性の服装の模様まで鮮明に刻まれています。 王の母は左手には放血の
為のエイのトゲを持ち、右手には血を受け止める布が入った壺が掲げられます。 左に立つ妃も両手で布と壺を抱えています。
王妃の名前が頭の上の方に記され、妃はヤシチランの楯ジャガー2世の姉妹に当たるヤシュ・ウサギ妃と考えられ、婚姻関係によってボナンパックとヤシチラン
が良好な関係を保っていた事がわかります。
(Estructura 1, Templo de las Pinturas bajo techado)
石碑はこの辺にして石碑2からアクロポリスの中腹へ登ります。 西方向に屋根が取り付けられた建造物1、壁画の神殿があります。 以下いよいよ
ボナンパックの壁画です。
壁画の神殿 Templo de las Pinturas
(Estructura 1, Templo de las Pinturas)
これが広場に向かって北向きに建てられた建造物1、壁画の神殿で、資料によると幅 16.9m、高さ 5m、奥行きが 4.2m あります。 内部は3つの部屋に
分かれ、それぞれに入り口があり、左から順に第1室、第2室、第3室ですが、第3室が閉鎖されていて…、修復作業中でした。 (涙)
2013年には既に修復が完了し修復後の壁画が公開されていました。 第3室のところは、新しい写真と説明文に
差し替えてあります。
(Resto de las decoraciones en la fachada)
壁画の神殿は、建物の外壁も全面装飾が施されていたので、部分的に漆喰彫刻や当時の彩色が残されます。 正面第2室の入り口上部の壁龕に嵌め込まれた
人物 (写真上左) はチャン・ムアーン2世の筈ですが、殆ど外形を留めません。
(Dintel 1 y Jambas, Cuarto 1)
第1室から入りますが、中の壁画を見る前にまず入り口に注目です。 写真上は入り口のまぐさに彫刻、彩色された石板1で、左右の脇柱の部分
にも壁画が描かれていました。 入り口を入った所は日本で言う”たたき” のようになっていて、床面は 50cm 位持ち上げられ、ここから
室内全面、天井に至るまで全て壁画で埋め尽くされます。
第1室の壁画 Pintura de Cuarto 1
(Pintura mural de lado sur de cuarto 1, Cierre de Bóveda, Bóveda y Muro)
これが第1室に入り正面(南面)に見える壁画で、天井から床面までの写真3枚です。 奥の壁は幅 4.5m 位あるので、24mm 広角でも収まらず、
下の2枚の写真は合成してあります。
第1室の主題は、チャン・ムアーン2世の跡継ぎの紹介と考えられます。 壁画の詳しい解釈は複製画の助けを借りてマヤ・トピックスで解説してあり、
ここでは修復された現地の壁画の観賞に留めます。 詳しくはマヤ・トピックスで。
(Pintura de lado oriente, Cuarto 1)
これは同じく第1室で東の壁面です。 側面は幅 2.7m 位なので 24mm 広角で上下、左右1枚の写真で収まります。 画像はレンズの歪みを補正して
あります。 下は行進して入ってくる楽隊、上は式典を待つ貴族たち。
(Pintura de lado oriente, Cuarto 1)
17m 広角で撮ってみました。(歪みはフォトショップで修正してあります。)
(Detalle de Pintura, bóveda sur, Cuarto 1)
これは正面の壁の部分で、同じく式典を待つ貴族たち。 右隅の高くなった所が玉座です。
第2室の壁画 Pintura de Cuarto 2
(Pintura de bóveda y muro sur, Cuarto 2)
ここから第2室で、テーマは戦争と審判です。 入り口を入って正面(南)の壁画は戦争の場面ですが、壁画の状態と射し込む光であまり良く見えません。
写真は補正だけで合成してありません。
(Pintura de lado oriente, Cuarto 2)
第2室の東の壁面。 上下2枚の写真を合成してあります。 戦闘の場面です。
(Pintura sobre cierre de bóveda)
アーチ天井が閉じられた部分まで壁画が描かれ、中央は後ろ手に縛られた捕虜です。
(Detalle de pintura de bóveda sur, Cuarto 2)
正面の壁画の細部。 チャン・ムアーン2世が捕虜の頭髪を掴んでいるのですが…。
(Detalle de pintura de bóveda norte, Cuarto 2)
入り口の上、つまり入って後ろを見上げたところにある壁画の北面は、捕えた捕虜に辱しめ(拷問?)を加える場面で、中央にチャン・
ムアーン2世が描かれますが、後ろを見返して撮るので写真も歪んでしまいます。
(Detalle de pintura de bóveda norte, Cuarto 2)
これも北面の壁画の部分で、爪を剥がれて指から血を流す捕虜が並びます。
第3室の壁画 Pintura de Cuarto 3
(Explicación sobre la última restauración)
第3室の前に説明書きが置かれていました。 壁画は 1946年に発見された後、70年代から80年代にかけて修復作業が行われ、表面の石灰層が取り除かれ
弱い部分は補強されたそうです。 その後本格的な修復は行われなかったようですが、2009年から壁画の明瞭化を目的とした修復が始まり、第3室から
始まったと書かれています。 順番に第3室で修復は終わりかと思ったら、第1室と第2室はこれからだったようです。
(Pintura de muro sur, Cuarto 3)
壁画は第1室から第3室の順で痛みが激しかったように記憶していますが、一番痛んでいた第3室から修復の手が付けられたのでしょうか。
では修復の成果はどうだったでしょう?
これは正面(南)と正面の左側を拡大したものですが、細部は明瞭になっているものの全体的には驚くような改善は見られません。
第3室が 1946年に最初に発見された部分であり、壁画もこの部分が一番痛んでいたからかもしれません。 壁画のこの場面は戦いの後の
祝勝の祝いと供犠なんですが、明瞭な画像とその解釈については ボナンパック
壁画の修復と解読 のページを参照してください。
(Pintura de muro este, Cuarto 3)
でも正面以外はどうかと言うと、東西面、北面とも修復の成果が明らかで、驚くほど鮮明になっていました。 最新の修復技術は
素晴らしいです。 この写真は東面をパノラマ合成したもので、正面より東面から北面の方が格段に鮮明になっているのがわかります。
(Pintura de parte superior de muro este, en 2001)
東面上部の、放血儀礼を行う女性たちのシーンを修復前と後で比較してみました。 上が 2001年に撮った以前の写真で、同じ部分が修復後は
下の写真の通り見違えるように変わっていました。
(Pintura de parte superior de muro este, en 2013)
(Pintura de parte inferior de muro este)
上のパノラマ画像を2枚の写真に戻すと修復の成果がより歴然でしょう。 下の写真でも東面の左側から北面にかけては壁画はかなりクリアです。
(Pintura de muro oeste, Cuarto 3)
反対側の西面です。 上部に音楽を奏でる人たちが密集していて、その右側の北面には貴族たちが集まっています。 第3室では着飾った貴族たちが
東面から正面とこの西面に全部で11人描かれますが、この西面が一番明瞭で、巨大な頭飾りと腰につけた旗指物が一番はっきりと見えます。 また
東面では不明瞭だった背景のピラミッド基壇も一目でそれとわかります。
(Pintura de muro norte, Cuarto 3)
これは入口のある北面の西側で、入り口を入って右側を見返した部分です。 多分修復された第3室でも一番綺麗になった部分だと思います。
上の画像の座った貴族たちの顔がつぶされていますが、これは古典期終末期に後から入ったボナンパック王朝以外の人達の仕業と思われます。
下の楽士たちの顔は幸い破損を免れ、生きいきした表情を残します。
(Rasgos vividos)
(Pintura en la boveda, Cuarto 3)
修復は天井のマヤアーチを閉じる部分まで及び、大変な作業だったものと思います。
この最新の修復技術をもって、第1室、第2室の壁画も早期に修復されるとよいのですが、第3室だけでも 2年以上かかっているよう
ですから、かなり先の事になりそうです。
ボナンパックの壁画は石灰石を積み重ねた壁に漆喰を塗り込めた上に描かれていて、通常こうした漆喰壁画は時の経過と共に剥離して失われてしまいます。
しかし神殿の建築上の問題でアーチ天井から水漏れがあり、石灰と塩分を含んだ水が壁を伝って壁画を被膜で覆い(石灰化)、結果的に壁画の剥落が
防がれたそうです。 雨漏りが壁画を守ったと言うのは何とも皮肉な話です。
壁画の神殿の石板 Dinteles de Templo de las Pinturas
(Dintel 1) (Dintel 1, Réplica, MNA)
(Dintel 2) (Dintel 2, Réplica, MNA)
(Dintel 3) (Dintel 3, Réplica, MNA)
神殿の入り口上部のまぐさを飾った石板は、入り口が3か所あるので石板も3枚あります。 上から第1室、第2室、第3室で、左の現地のものと
右の人類学博物館の複製を比べてみました。 第2室の石板2は石灰化が進んで図像が不明瞭で、修復の済んだ第3室の石板3も外側に面した
右側が風化しつつあるのが気になります。
石板1はチャン・ムアーン2世と 787年の戦闘で捕えた捕虜、石板2はヤシチランの楯ジャガー3世と、同じく 787年の戦闘で捕えた捕虜 (石板1より
4日前の戦闘)、石板3 はチャン・ムアーン2世の父に当たる先王結び目ジャガーと 745年に捕えた捕虜、と言うのが定説のようです。 787年の戦いの
相手は捕虜がサク・ツィの貴族と記されている事から、長年戦果を交えてきた所在不明のサク・ツィだったことがわかり、ボナンパックがヤシチランの
後ろ盾を得てサク・ツィを打ち破った事を誇示していたようです。
アクロポリス上部神殿 Templos Superiores de Acrópolis
(Estructura 3)
アクロポリスには壁画の神殿の他にもまだ見るものがあります。 これは壁画の神殿の反対側(東側)にある建造物3を下から見上げたところです。
外壁にはまだ一部漆喰が残り、当時は壁画の神殿同様に彫刻が施され赤く彩色されていたようです。 室内に僅かに壁画の一部が残っていたようで、
今でも探せば見つかるのかもしれません。
(Estructura 3)
これは建造物3の背面で、漆喰彫刻の跡のようなものが残りますが、殆ど何だか判りません。 屋根飾りがあったので、壁画の神殿にも屋根飾りが
付けられていた事が想像されます。 建造物3と壁画の神殿の中間に より規模の大きな建造物2 がありましたが、現在は建物の基部を残すだけです。
(Estructura 4 - 8)
建造物3 はまだアクロポリスの中腹で、更に上の方に規模の小さな建造物が並びます。 右から順に建造物4、5、6、7、8 です。
(Estructura 6 - 8)
右側の半分だけ写っている建物が建造物6で、その左の建造物7、8 は一段髙い所に設けられています。
(Estructura 4 - 6)
こちらは建造物6と、その右に並ぶ建造物5と4。
(Estructura 4 - 6)
ここから上へはアクロポリスの中央に移動して更に階段を登ります。
(Estructura 4 - 6)
これは上に登って、小建造物群を西から東に見たところで、手前が入り口がふたつある建造物4、その背後に建造物9が見えてきます。 建造物5の東の外壁には
赤で塗られた壁画跡があるようですが、見落としました。
(Estructura 6)
小建造物群の中で一番の見どころはこの中央にある建造物6で、開口部のまぐさに石板があります。
(Dintel 4 en Estructura 6)
これが下から見上げた石板で、石板4と名前が振られます。 いつも思うのですが、入り口の上に取り付けられた石板、誰が見るのでしょう。 彫刻の
向きも壁画の神殿の石板とは異なり、ここでは建物の外が彫刻の上部になります。 壁画の神殿では入り口を入って左が王の頭でした。
建造物6も建設当時は彩色されていて、脇柱には彩色壁画の跡がはっきり残ります。
(Dintel 4)
これが石板4。 ここに刻まれているのは 603年にかけてのボナンパックの王チャン・ムアーン1世というのが定説ですが、年代については異論もある
ようです。 603年とすると、壁画の神殿より 200年位古い事になります。 王が抱えた王杓の左右から蛇が頭を出し、開いた口から神像が
あらわれ、様式的にも明らかにチャン・ムアーン2世の時代とは異なります。
(Estructura 9)
これは建造物4の背面にある建造物9です。 屋根は崩れ、中に小さな無地の石碑があります。
(Crestería de Estructura 4)
建造物9の崩れた室内に入り、見下ろすと建造物4の屋根飾りの形状がよくわかりました。 奥行きがあってトニナ遺跡の屋根飾りに
似ています。
(Resto de Estructura 2)
ボナンパック遺跡で見て回れるのはおよそこの辺りまでで、他に北に Grupo Frey (フレイのグループ)と 西に Grupo Quemado (焼かれたグループ?)
がありますが、見学コースではありません。 ボナンパックは小さいとは言え、これだけの壁画を残す古典期のマヤセンターですから、球戯場が
無い筈はありません。 まだまだ埋もれたままのグループがあるものと思います。
アクロポリスを降りていくと下に建造物2 の遺構が見下ろせました。 東側にかなり大きな空間が設けられていて、時の経過と共に屋根の重みで建物が
崩れてしまったようです。
そろそろツアーの集合時間で、帰途に就きます。 ツアーの見学時間は1時間という事でしたが、少しサバを読んでの1時間。 後は帰るだけ
ですから。
(Niña en Tunica)
白いチュニックを着た女の子が居たので、写真を頼むと、「10ペソ」 と言われました。 ボナンパックも観光地化しています。 無愛想なので
「笑って」 と頼むと、少しだけ笑みがこぼれました。 お愛想笑い。 (^-^)
(Distribución de sitios Maya en la Región de Río Usumasinta durante Período Clásico)
最後にボナンパックの位置を確認してみます。 重要な交易ルートだったウシュマシンタ川では川沿いにヤシチランとピエドラス・ネグラスが
対峙し、周辺の数多くの中小センターを巻き込んで争いが絶えなかったようです。地図の外になりますが、西のパレンケやトニナも権益を求めて
この地域に進出し、東に離れたティカルやカラクムルも争いの環に加わってきます。 ヤシチランとは直線で 20Km ちょっとしか離れていない
ボナンパックは当然ながらその争いに巻き込まれて、戦国の時代を生きて行く事になります。
こうした古典期マヤの社会がどんなものだったのか。 奇跡的に現代に伝えられたボナンパックの壁画は、 当時の戦争や儀式の場面を通じてマヤの
信仰、宗教観などを知る手掛かりとなる貴重な資料です。
壁画の発見から 60年以上の年月が過ぎ、壁画の保存・修復作業が進み、最新のデジタル技術を駆使した復刻画も作成されて、かなり細部まで壁画を
読み取れるようになりました。
壁画の修復と最近の解釈 について、別途
マヤ・トピックスで取り上げてあります。