マヤ遺跡探訪
YAXCHILAN
2011年に時間切れで廻りきれなかった小アクロポリスをリベンジし、見落としたまぐさ石の石板彫刻9枚(小アクロポリス4枚含む)をしっかり見て きました。 小アクロポリスはこのページの最後で、青文字の部分が今回の追加です。(訪問日 2013年1月17日)

ヤシチランはメキシコとグアテマラを隔てるウシュマシンタ川の岸辺に築かれた古典期マヤの代表的な遺跡のひとつで、600-800AD 頃に最盛期を迎えます。  数多く残された石板、石碑群は工芸技術の高さも然ることながら、そこに刻まれた碑文はマヤの歴史解明の手掛かりとなり、マヤ史研究上でも重要な遺跡 になりました。

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(Escudo Jaguar II, 681-742AD)   (Pajaro Jaguar IV, 752-768AD)   (Escudo Jaguar III, 769-800AD)

  (写真は石に刻まれたヤシチランの代表的な王達で、数字はそれぞれの王の在位期間です。)


2001年に初めて訪問し、是非もう一度行きたいと思っていた遺跡ですが、念願叶い 10年振りの再訪となりました。

川岸にあるヤシチランへは陸路でのアクセスはなく、船を利用することになり、パレンケ発 ヤシチラン、ボナンパック・ツアー が一般的です。 ツアーに組み込まれているとは言えヤシチランはかなりの秘境で、国境の街 フロンテラ・ コロサルから船で約 21Km 下ったジャングルの中、ホエ猿の鳴き声が歓迎の挨拶です。
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   (訪問日 2011年11月21日、2001年1月3日)
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博物館の展示   Exhibiciones en los museos


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 (Dintel 26 de Yaxchilán, Museo Nacional de Antropología, D.F.)

ホエ猿云々と言いながらいきなり近代的な博物館で恐縮ですが、これはメキシコシティーの 人類学博物館、マヤ室を入って直ぐ右側で、正面に石板がひとつ展示されています。 マヤ室の顔、ヤシチランの石板 26 です。

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                    (Dintel 26, Museo Nacional de Antropología, D.F.)

石板 26 の拡大写真。 右手にナイフを持ち鎧を身に付けた楯ジャガー2世 (在位681-742AD) に、カバル・ショーク妃がジャガーの兜を差し出している 場面で、724年2月12日の日付が刻まれます。 建造物 23 にあったものですが、同じ所にあった石板 24、25 は 19世紀末に ヨーロッパに持ち出され、現在は大英博物館にあるそうです。

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 (Dintel 24 y 25, Museo Británico, Londres)

イギリスに居る友人に偵察に行って貰いました。 探検家モーズレーが持ち出した6枚の石板は確かに大英博物館に展示されており、上述の石板 24 と25 の 写真を送って貰いました。 ひとつで 500Kgを超えるもので、周りの彫刻の無い部分を切り落として大変な思いをして持ち出したようです。

ヤシチランの発見はこの時のモーズレーの探検に遡りますが、その石造物の重要性が増したのは20世紀中頃になってタチアナ・プロスコウリアコフ により石碑の解読が進んだことによります。 彼女はライバル関係にあったピエドラス・ネグラスとヤシチランの碑文の比較研究から、石碑が神話 ではなく実際の歴史を刻んだものである事を見出し、その歴史の再構成を行います。

この時を契機に物言わぬマヤの石碑が歴史を語り始めた、と言っても過言ではないでしょう。 マヤの歴史解明が飛躍的に進展していくことになります。  ヤシチランでは歴代王が特定され、王朝史が明らかになっていきます。  (ヤシチランと ピエドラス・ネグラス の間の 抗争の歴史は マヤの戦争 2 として特集してあります。)



ヤシチランへ   Hacia sitio de Yaxchilán


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 (Río Usumacinta)

前置きが長くなりました。 それでは遺跡の旅に出発です。 コロサル村で日本製の船外機が付いた細長い木製の船に乗り、川下り。  右岸は グアテマラです。 2001年に来た時は遺跡まで1時間近くかかった記憶があるのですが、2011年の今回は 35分位でかなり高速化しています。

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 (Ruta de navegación)

コロサル村からヤシチランへのルートです。 蛇行するウシュマシンタ川はヤシチランの所で大きくグアテマラ側へ突き出て、その先端、メキシコ側に ヤシチランがあります。

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 (Río Usumacinta)

自然を楽しみながらの船旅ですが、船は10人位乗ると一杯で、喫水線は船べり スレスレ。 一応ライフ・ベストは付けていますが、船から落ちたらワニも いそうだし…。

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 (Embarcadero de Yaxchilán)

程なくヤシチランの船着き場に到着、同形の船が既に何隻か停泊しています。 船を降りて岸辺に作られたコンクリートの階段を登っていきます。  下の GOOGLE EARTH の画像で赤丸を付けた所が船着き場で、軽飛行機用の滑走路の北側です。 遺跡は建造物の一部が確認出来ますが、一面密林に 覆われています。

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 (Vista aérea de Yaxchilán)



遺跡の入り口   Entrada a Yaxchilán


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 (Aérea de Entrada)

船着き場の上に遺跡の看板と事務所があります。 多分ここで入場券を買うのだと思いますが、入場料はツアーに含まれているのでツアーの係りの 人にお任せ。

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 (Caseta de cobro)

そしてこちらが遺跡の入り口。 係りの人はここまでで、 「 2時間自由です。 必要ならガイドは個人で手配してください。 では2時間後に。」   なかなか合理的なツアーです。

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 (Partiendo para la zona arqueológica)

ヤシチランは2回目だし、時間も限られているのでガイド不要ですが、入り口を入った所に遺跡の説明と地図があり、ツアーの皆さんはここで暫し 作戦会議。

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 (Explicación del sitio)

ヤシチランについてコンパクトな説明があるかと思ったら少々期待外れでした。

紀元 300年頃に定住が 始まり、600年頃にかけて勢力が強大なものとなり、900年頃に放棄された事、ウシュマシンタ川流域の文化圏に属して屋根飾りが特徴的だが、ヤシチラン では芸術的に洗練された石造物が特筆される事、更に遺跡がグラン・プラサと大アクロポリス、小アクロポリスの3つのグループに分けられ、120 位の 建造物が築かれている事、等が説明されますが、ヤシチランの王朝史には触れず仕舞いです。

マヤ古典期の面白さは他のメゾアメリカ文明と違って王朝史が明らかになる点で、その原点のひとつがヤシチランですから、ここは避けて通れません。  石板や碑銘の階段に残された王名表などを元にヤシチラン歴代王が整理されているので、以下 まとめてみました。 代表的な王を赤文字にしてあり、 冒頭で紹介した王は 16, 18, 19代にあたります。 (碑文の解読時期や解釈の違いから王の名称が変わったりするので、王の名と年号を併せて見ると 間違いありません。)

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 (Mapa del sitio)

これが入り口に置かれたヤシチランの地図で、2001年に見たものより立派になっていましたが、地図が北向きになっていないし、何より建物の番号が 書かれておらず、少々不親切。 ちょっと遺跡観光という人には良いのかもしれませんが…。

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これは Arqueología #22 Nov.-Dec. 1996 の42-43 ページにあった地図で、建造物番号が記載され、それぞれの建造物の時代も色分けして示されており、 これがあれば一応万全です。

MAP ボタンをクリックすると遺跡中央部の拡大画像が開いて建造物番号も確認できるので、別ウィンドウで開いておくと便利です。



遺跡探索   Visita a la zona arqueológica


さて、地図を確認してヤシチラン王朝史の予習も済んだので、ここから遺跡です。 地図に Acceso と記した所からスタートし、案内板と地図が 置かれた所が グラン・プラサ (Gran Plaza) と 小アクロポリス (Pequeña Acró- polis) の分岐点でした。

2001年に来た時は一番南の神殿群に行けなかったので、小アクロポリスは後回しにして、グラン・プラサ経由、この一番遠く高い位置にある神殿群を最初に 目指す事にします。 (遺跡の説明版では南の神殿群は大アクロポリスの一部のような扱いですが、大アクロポリスの中心からは大分離れています。)

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 (Edificio 19, Laberinto)

通路の奥の屋根飾りが残る建物が別名ラベリント(迷宮)とも呼ばれる建造物 19 で、ここを通らないとグラン・プラサへいけません。  謂わばヤシチランの入り口です。

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 (El interior de Laberinto)

ラベリントの中は裸電球が幾つか灯されているだけで真っ暗、文字通り迷宮です。 暗いじめじめした通路を前の人について出口を目指し、最後に階段を 5段登るとグラン・プラサに抜けます。

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 (Edificio 19, Laberinto)

ラベリントを出て、これが東に面したラベリントの正面です。 戸口が4つあり、戸口と戸口の間には大きな窪みが設けられた特殊な造りで、壁面装飾 と屋根飾りも一部残ります。 楯ジャガー2世の742年の死後、妃の一人が鳥ジャガー4世即位まで短期間実権を握り、その時代に造られた建物だそうです。  ヤシチランの混乱期にあって、入口で外敵に備えたのでしょうか。

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               (Altar 1)

建造物 19 の前に人物像と碑文が刻まれ円形の祭壇1が置かれます。 建造物 19 に残された唯一の碑文になり、多分建物の奉納日も記されているものと 思います。

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 (Lado Oeste de Gran Plaza)

建造物 19 の前から東方向へグラン・プラサが広がります。 写真左が建造物 16 で、中央の立木の後ろが建造物 14号 球戯場ですが、 グラン・プラサは後でゆっくり見ることにして、先を急ぎます。



大アクロポリス   Gran Acrópolis


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 (Escalera hacia Gran Acrópolis)

グラン・プラサはウシュマシンタ川沿いに造成された、幅 750m、奥行き 80m 位の人工の広場で、建造物 19 から東へ3分の2位進むと南西方向に上へ延びる 階段があり、階段の上が大アクロポリスです。

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               (Estela 2)

グラン・プラサの南側の基壇に石碑 2 が建てられています。 613年の 9.9.0.0.0. のカトゥンを祝ったもので 613年は最初の王名表を残した キニチ・タトゥブ・頭蓋骨 2世の没後にあたり、この時代のヤシチランの王はあまり定かではありません。 石碑は覆いもなく風化の一途です。

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 (Edificio 25)

大アクロポリスへの階段を上がっていくと途中左手に建造物 25, 26 が見えてきます。

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 (Edificio 25)

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 (Edificio 26)

上の写真が西側の建造物 25、下が建造物 26 です。 建造物 26 の方は前部が崩れていますが、ふたつの建造物はもともと双子の神殿だったようで、  建造時期は 650-700年頃とされます。 まぐさには彫刻された石板は無く、楯ジャガー2世 (681- 742) による建造物には彫刻が多く用いられているので、 楯ジャガー2世以前の鳥ジャガー3世 (629- 669) の時代の建造になるでしょうか。


《 建造物 33  Edificio 33 》

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 (Edificio 33)
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建造物 25, 26 から一段基壇を上がった所に建造物 33 があり、グラン・プラサからは 40m 登った所になります。 鳥ジャガー4世 (752- 768) の時代に 作られた 大アクロポリスの中心をなす建造物で、屋根飾りが残り、ヤシチランで一番保存状態のよい建造物になるようです。

建築様式のページの 復元模型の写真 に見られるように、 建築当時は更に高い格子状の屋根飾りがあったようで、彩色された往時の威容はどんなだったでしょう。

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 (Escultura central en la crestería)

屋根飾りの中央を拡大してみると王の坐像と思われる漆喰彫刻の跡があります。 建造物 33 は 756年に奉納されたようですから、漆喰彫刻は鳥ジャガー4世 という事になるでしょうか。

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        (Estela 31)

建造物 33 の前にボロボロに風化したように見える石碑 31 があります。 材質が切り出した石灰岩ではなく、鍾乳石を利用したもので、元からこんな形を していたのでしょう。 よく見ると文字と図像が刻まれています。

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 (Escalera jeroglífica 2)

鳥ジャガー4世は在位期間中に数多くの建造物を築き上げ、神聖文字を刻んだ石造物に歴史を書き残します。

写真は建造物 33 の前に置かれた神聖文字の階段2 で、 13個のブロックに球戯の模様を刻まれ、特に中央の3つのブロックの彫刻が彫りが深く立派です。

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 (Escalera jeroglífica 2, peldaño VII)

これは中央の一番長いブロックで、鳥ジャガー4世が球戯を行っている様子です。 大きなボールには鳥ジャガーが捕虜にしたラカントゥーンの王が 逆さに縛られた状態で刻まれます。 このブロック全体を小さくしたミニチュアが左の階段の上に描かれ(上の拡大写真)、階段を6段上がった所にこの 彫刻が置かれた事を示すそうです。 この中央のブロックの左右には父王の楯ジャガー2世や祖父の鳥ジャガー3世が刻まれます。

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 (Escalera jeroglífica 2, peldaño VIII, IX, X)

これは中央から右側のブロックです。 中心のブロックが 4cm 位彫り込まれているのに対して、周りのブロックは彫りが 1cm 未満の浅浮彫りで、やはり 中央のブロックが最も重要なメッセージを持っていたのでしょう。

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            (Dintel 1)

3つある戸口のまぐさにはそれぞれ鳥ジャガー4世が刻まれた石板が置かれ、これは左側の石板 1 で、着飾った鳥ジャガー4世と 王妃の偉大な頭蓋骨が描かれます。 石板は戸口上部にあるので、ファインダーを覗いて見上げる事も出来ず、カメラを下げてめくら打ち、バリアングル 液晶のついたカメラだと楽なのですが。

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  (Dinteles 2 y 3, replicas por Maudslay, Museo Británico)

中央と右の戸口のまぐさにも石板が残されている筈ですが、見落としてしまいました。 モーズレーが現地で作った紙型を元にした複製が 大英博物館にあり、写真はその複製の石板 2、3 です。 19世紀末に作られた型からの複製なので、遺跡に残るものより現物に忠実かもしれません。

石板 2 は鳥ジャガーと後継の楯ジャガー3世、石板 3 は鳥ジャガーと同盟国の王が描かれているようです。

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           (Dintel 2)
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              (Dintel 3)

2011年に見落とした石板2 と 3 、間違いなくありました。 建造物 33 は開口部が3つあり、石板1 のある左側の開口部から中に入り、 中央の開口部は扉が閉められているのでそのまま右側の開口部から出ると、中央と右の石板2 と 3 を見落としてしまうのですが、今回は忘れずに しっかり見てきました。 ヤシチランでは開口部があったら必ず見上げてまぐさ石に彫刻があるか確認しないといけないという良い例です。

石板3 は石板1 とサイズと造りが似ていますが、石板2 は図柄と文字以外の空間の取り方や、彫りの深さ、特に横長のサイズが他の2枚の石板と異なり、 時代或いは少なくとも作者は異なるように見えます。


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 (Pasillo interior de Edificio 33)

建造物 33 は中に入れるようになっていて、急勾配のアーチ天井で閉じられた通路があり、通り抜け出来ます。

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 (Estatua decapitada de Pajaro Jaguar)

通路に面した中央の窪みに頭部が落とされた石像があり、別の窪みには頭部が置かれ、併せて鳥ジャガー4世の像と考えられます。 ヤシチランは現在でも ラカンドン人の信仰の対象で、像はアテック・ビラム神の化身であり、首が繋がるとジャガーが出てきて人類を食い滅ぼして世界が終ると考えられて いるそうです。 頭を取り付けて修復できないのですね。

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 (Lado trasera de Edificio 33)

これは南西を向いた建造物 33 の背面で、裏側までしっかり装飾が施されていて、重要な建物だったことがわかります。

建造物 33 はこの辺にして、ここから前回見逃した南の神殿群へ向かいます。 かなりの上り坂です。



南の神殿群   Templos del Sur


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建造物 33 の裏から南の神殿群へ行く道が有る筈ですが…、細い道が一本あったので行って見ると左の標識があり一安心。 ここから先へ行く人は 少なそうです。 更に先に進むとまた標識が出てきて、小アクロポリスへの抜け道があるようですが、目指すは南の神殿群です。

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 (Camino hacia Templos del Sur)

建造物 33 から南の神殿群までは地図によると 300m 少々で、建造物 37, 38 を超えていく筈です。 アップダウンを繰り返し 50m の高低差を登っていく ので、結構厳しい行程でした。 これはその途中の写真で、建造物跡と思われる土塁を乗り越えて行きましたが、建造物 37, 38 だったかもしれません。

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 (Edificio 39)

汗だくで息も上がりましたが、10分ちょっとで到着。 写真は目の前に現れた建造物 39 です。 

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 (Ediicio 40)

これは3つ並ぶ神殿の中央にある建造物 40 。

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 (Edificio 41)

そして一番奥、南東にある建造物 41 です。 全て 1973-1985年に発掘、修復が行われています。

この3つの神殿から成る南の神殿群は海抜 210m 位になり、グラン・プラサより 90m 位高く、同じく高い位置に設けられた小アクロポリスよりも 30m 位上に あり、ヤシチランで一番高い所にある重要な場所だったようです。 まず建造物 39 と 41 が 650 - 700年頃に築かれ、鳥ジャガー4世の時に建造物 40 が 追加され、39, 40 も改築が加えられたようです。

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          (Reconstrucción hipotética de los Templos del Sur)

現地の説明版に想像復元画がありました。 建造物 33 同様の高い屋根飾りが描かれています。

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 (Edificio 41)

建造物 41 の側面です。 二層の基壇の上に神殿が築かれ、神殿の前部は崩れていますが、一番大きく高い神殿になるようです。 神殿の前に 石碑が5本建立されていましたが、現在は全て運び出されています。

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      (Estela 15, MNA)                  (Estela 18, MNA)

首都の国立人類学博物館が 1964年にチャプルテペック公園内に移設された時に新たな展示用としてヤシチランから石碑3本と石板9枚が運び込まれたそうで、 建造物 41 の前にあった石碑 15 と 18 は現在は人類学博物館のマヤ室にあります。

両方とも捕虜の前に立つ楯ジャガー2世 (681- 742) で、石碑 15 は 681年と 733年の日付があり 捕虜の出身は不明、石碑 18 は 729年に捕えたラカンハの 王ポポル・チャイが刻まれます。

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 (Ediicio 40)

これは楯ジャガー2世の息子である鳥ジャガー4世が建立した建造物 40 で、3本建てられた石碑の内2本が現地に残され、写真右側に見えるのが石碑 13 です。  神殿の正面に置かれた石碑 11 はモーズレーが撮った18世紀末の写真にも写っており、大きく立派な石碑ですが、博物館への持ち出しが試みられたものの、 重すぎて飛行機で運べず、結局現在はグラン・プラザの東隅に横たえられています。 (下の方に写真があります。)

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       (Altar 13 ?)

建造物 40 の前にヤシチランで最も古い日付け 435年が刻まれた祭壇 13 があるそうですが、これでしょうか? 建造物 40 は 8世紀後半に新たに 設けられたものなので、5世紀の祭壇をここへ敢えて持ってきたのかもしれません。

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 (Dinteles de Edificio 40)

建造物 40 は内部に壁画が描かれていたものの現在は殆ど消えてしまったようです。 戸口は網が張られていて中の様子はわかりませんが、戸口のまぐさと 脇柱の部分に当時の壁画の跡が認められました。 殆ど何が描かれているのか読み取れませんが、左の戸口の脇柱上部には幾何学模様がありました(写真右下)。

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 (Lado sureste de Edificio 40)

これは建造物 40 の南西側面で高い屋根飾りを除いて当時の形がかなり残されます。

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 (Lado trasero de Edificio 39)

建造物 40 前から左手に建造物 39 の背面が見え、石組みの上に塗られた漆喰がかなり残っているのがわかります。 建造時期は建造物 41 と 同じく 650-700年頃で、前面に置かれていた大型の石碑は国立人類学博物館に移されています。

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                              (Estela 10, MNA)

これがその石碑 10 で、両面共彫刻が施され、高さは 370cm もあります。 写真左の面には鳥ジャガー4世が妻に伴われて足元の捕虜に向かい合う姿で 表わされ、9.16.15.0.0. 766年の 4分の1 カトゥンを記念したもののようです。 もう片方の面の上部(写真右)には両親と太陽の神が刻まれ、 下部は風化が著しいですが、珍しく正面を向いた王が彫られているようです。


前回行けずに心残りだった南の神殿群はこれでリベンジ出来ましたが、かなり時間を費やしてしまいました。 急いで下山します。



グラン・プラサ   Gran Plaza


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 (Bajando a la Gran Plaza)

グラン・プラサが見える所まで降りてきましたが、もう1時間15分も経過していました。 まだ見るものが沢山残っていると言うのに。  ( ; ̄O ̄;;; )


《 建造物 21  Edificio 21 》

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 (Lado oeste de Edificio 21)

まず建造物 21 から。  グラン・プラサの南側を閉じる基壇上に建造物 20 - 24 が並び、大アクロポリスの第一基壇とされる事もありますが、 ここでは歩く順番からグラン・プラサに含めます。

建造物 21 は 1983年に発掘され、発掘の過程で石碑や漆喰彩色壁画が発見されています。 上部構造が失われていた為、屋根を取り付けて内部が保護され ます。

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 (El interior de Edificio 21)

これが建造物 21 の内部で、小振りながら見事な彫刻が残る石碑 35 があり、背後の壁には彩色された漆喰彫刻が部分的に残ります。 増改築が繰り返されて いますが、最後に仕上げられたのは鳥ジャガー4世の時代になり、残された石造物は鳥ジャガー4世に因んだものになります。

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               (Estela 35 y su detalle)

鳥ジャガー4世は楯ジャガー2世の子供ですが、正妻のカバル・ショーク妃ではなく、イク・頭蓋骨妃との間に生まれた子供でした。 楯ジャガー2世の死後、 暫くの間 カバル・ショーク妃が権力を握り、ヤシチランは後継者をめぐって混乱した状況にあったと考えられるようです。

この為 752年に即位した鳥ジャガー4世は自らの正当性を主張するように父王楯ジャガー2世との記念物を作り、石碑 35 には母のイク・頭蓋骨妃が放血儀礼を行っている 場面を残すことになります。

1983年に発見されたこの石碑は繊細な彫刻がそのまま残され、装身具はもとより衣装の柄まで細かく刻まれ、手には採血した血を受止める布と器が示され ます。 側面には彫刻がありませんが、背面の彫刻が後ろに置かれた鏡に映し出されます。

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 (Muro con decoración en estuco)

背面の壁画は残念ながら部分的ですが、5人の座った貴族と神々や文字が残されます。 5人は石碑の裏側になる中央がイク・頭蓋骨妃で、他は 女性3名と男性1名になるようです。 壁画は漆喰レリーフの上に極彩色で描かれ、平面画のボナンパック壁画よりもずっと手の込んだ装飾だったと 言えます。

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 (Dinteles 15, 16 y 17, Museo Británico)

3つの戸口のまぐさを飾った石板3枚は 1882年にモーズレーが瓦礫の中から見出しイギリスへ持ち出していて、現在は大英博物館の収蔵品です。  この写真はイギリスの友人が撮って送ってくれたもので、状態はかなり良さそうです。 しかし持ち出すにあたっては重量を減らす為に彫刻の 無い部分が切り落とされています。

上の写真が石板 15 で、妃の一人のワク・トゥーン妃が幻視の蛇の前で放血儀礼を行う様子が刻まれます。 左下の石板 16 では 752年の戦闘で捕えた 捕虜の前に鳥ジャガー4世が槍を持って立ち、右下の石板 17 はこの戦闘の8日後の放血儀礼で、右に座る鳥ジャガー4世の前で舌に縄を通して 放血を行うバラム・ムトゥ妃が描かれます。


《 建造物 20  Edificio 20 》

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 (Edificio 20)

建造物 21 の東隣には鳥ジャガー4世の跡を継いだ楯ジャガー3世 (769- 800) による建造物 20 があり、説明版のイラストにあるように、2層の建造物 に高い屋根飾りが付けられた建物でした。 屋根飾りは殆ど失われていますが、建物は北西側のおよそ半分が屋根を含めて2層とも残されます。

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 (El interior de Edificio 20 y una estatua erosionada)

建造物 33 に似た造りで、内部には王の坐像らしいボロボロに風化した彫刻があります。

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 (Dintel 12, MNA)

1層目の3つの戸口にはまぐさに彫刻された石板がありましたが、左側の戸口は崩れ落ちており、ここにあった石板 12 は人類学博物館に移されています。  文字部分がかなり風化していますが、戦士の装束を付けた父の鳥ジャガー4世が左隅の部下と跪く4人の捕虜と共に刻まれ、 757年の日付があるようです。  右は現地の説明版にあったスケッチの拡大です。

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 (Dintel 13)                               (Dintel 14)
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 (Réplicas de Dinteles 13 y 14, Museo Británico)

中央と右側の戸口にあった石板 13 と 14 は現地に残され、見上げた形で写真を撮ることになります、ファインダーは覗けませんが。  写真は上段が 現地に残された石板で、下は19世紀末にモーズレーが型取りして作った 大英博物館に展示されている複製で、複製の方が鮮明です。

石板に刻まれているのは楯ジャガー3世ではなく、祖父の楯ジャガー2世と 両親の鳥ジャガー4世と偉大な頭蓋骨妃で、石板 13 では幻視の蛇の儀式で 楯ジャガー3世の誕生を祝う様子が示され、石板 14 では放血儀礼が表わされるそうです。 楯ジャガー3世が自らの正当性を謳ったものと言えます。

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 (Parte sureste de Gran Plaza, Edificio 20 a la izquierda)

これはグラン・プラサの南基壇上に立つ建造物 20 を東側から見たところで、赤いシャツを着た人の足元に石組みが一列並ぶのが見えます。  1980年に発掘修復の過程でここから神聖文字が刻まれた 45個の石のブロックが発見され、神聖文字の階段5と呼ばれます。 (現在は別の石に置き換え られているようです。)

失われた部分もありますが、戦争の記録が 16名の捕虜の名前と共に 140位の神聖文字で記され、ヤシチラン最晩期になる楯ジャガー3世の時代にも まだヤシチランが一定の勢力を保っていた事を示すようです。 


《 グラン・プラサ東側  Parte Este de Gran Plaza 》

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 (Parte este de Gran Plaza)

これは建造物 20 から目の前に広がるグラン・プラサの東側のパノラマ画像で、一枚上の写真と下の写真を繋いであります。

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 (Parte este de Gran Plaza)

写真の左側にあるマウンドは未発掘の建造物 8 で、ここから東側の石碑と建造物を見ていきます。

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 (Estela 6)

まず上の写真の中央で白く光って見えるのがこの石碑 6 で、王の立ち姿と神聖文字が刻まれます。 鳥ジャガー3世 (629- 669~) が 9.11.16.10.13 (669年)に 即位後 2回目のカトゥン(40年)を迎えた事が記されます。

ヤシチランの石碑はウシュマシンタ川を向いて建てられ、川側が正面になるそうです。 川側には王が戦士の姿で彫られ、裏面の神殿側にはカトゥンや 放血等の儀礼を行う王が先祖や神の姿などと共に表わされるのが一般的で、グラン・プラサにあった石碑は川から吹く風で神殿側に倒れていた為、 裏面の保存状態が良く、風雨に晒された表側は風化が著しいようです。 (南の神殿群では逆に吹き降ろす風で石碑が川側に倒されて正面の保存状態が良い ようです。)

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 (Estela 3)

広場東側の中央にあるのが石碑 3 で、下半分は良い状態で残されますが、上部は断片化したものを繋ぎ合わせてあり図像は殆ど失われています。  中央の王が後ろに妃を従え右側の人物と向かい合っていますが、残念ながら上半身が見えません。

石碑 3 も鳥ジャガー3世が描かれ、 9.11.16.10.13 (649年)に即位後 最初のカトゥン(20年)を迎えた事が書き残されます。  鳥ジャガー3世の即位を直接記した石造物はありませんが、石碑 6 と 3 から 即位が 629年だった推定されます。

( 7世紀の石碑かと思ったのですが、「古代マヤ王歴代誌」によると、石碑 3 と 6 は両方とも鳥ジャガー4世が自らの正当性を誇示すべく祖父にあたる 鳥ジャガー3世の為に後から作ったもので、石碑 6 は古い石碑を削り直して作られた為、地面に埋まっている部分には古い石碑の図像が残るそうです。)

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 (Estelas 5)                                     (Estelas 7)

石碑 6 の西寄りにもう2本石碑があり、左は石碑 5 で楯ジャガー2世 ( 681- 742 ) が刻まれますが、石碑の上半分だけで下の部分は失われて います。

右の石碑 7 は非常に繊細な彫刻が施され、楯ジャガー3世 (769- 800) の時代になるようですが、残念ながら幾つかの断片を繋ぎ合わせただけで 詳細は不明です。 左側で王の足元に跪く人物は正装していて、頭の上には王の両手が差し伸べられているので、捕虜ではなさそうです。


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 (Estela 11)

グラン・プラサの北東角に大きな石碑が1本寝かされています。 建造物 40 のところで説明した石碑 11 で、運び出せずにここに安置されてしまった ものです。 移動は人類学博物館の展示が目的だっただけあって、大きく立派で彫刻も見事な石碑です。 

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       (Estela 11)

寝ている石碑を無理に起こしてみました。 鳥ジャガー4世が楯ジャガー2世から譲位を受けている様子が刻まれます。 隠れている反対側も右の画像の通り 風化は少ないようで、太陽神のマスクを付けた鳥ジャガー4世が足元に3名の捕虜を従え、上部には王の両親が小さく示されます。 石碑は 752年に建造物 40 の前に奉納されたようです。

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 (Estela ?)

グラン・プラサ東側にもうひとつ石碑が保護され 彫刻も明瞭ですが、石碑の断片に過ぎず、番号が振られているのかを含めて詳細はわかりません。  2枚の写真は同じ断片の表と裏です。


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 (Escalera jeroglífica 1, Edificio 5)

石碑は以上で、ウシュマシンタ川沿いの建造物を見ていきます。 写真は建造物 5 の階段部分です。

この階段が有名な 神聖文字の階段1と呼ばれるものでした。  6段のステップを持つ 幅 14m 近い階段には、合計 111個の石のブロックに 463文字で 鳥ジャガー4世までのヤシチランの歴代王が記され、10代目のキニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世が残した初期の王名表と併せて、ヤシチラン王朝の再構成 の手掛かりになりました。

重要な石造物ですからレプリカに置き換えられているものと思いましたが、どうやらこれがオリジナル。 発見は18世紀末に遡り、1930年代に6 段全体が 確認されて写真やスケッチが残されますが、漆喰の上に彫られた文字は既に風化していて文字の痕跡も殆ど見当たりません。

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 (Edificio 6)

建造物 5 の西隣にあるのが「川岸の赤い神殿」と呼ばれる建造物 6 で、18世紀末に発見された時は漆喰の上の赤い塗色がかなり残っていたようです。  600-650年の建造と考えられ、建造物 7, 13, 74 と共に現存するヤシチランの建造物の中では最も古いものになります。

現在残るのは建物の東側で、グラン・プラサの床面が後の時代に嵩上げされた為に建物は広場に沈み込んでいますが、天井部分にあたる外壁上部には太陽神 の漆喰彫刻があり、三層に聳え立っていた屋根飾りも一層目だけが残されます。

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 (Máscara de deidad solar, en 2001 y 2011)

これが太陽神を模った仮面の漆喰彫刻で、カビが生えて大分痛んできているようです。 左の写真は 2001年のもので、まだ赤い彩色が認められるのですが。

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 (Edificio 7)

建造物 6 の西側に小さな建造物 7 がありますが、半壊しているようです。

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 (Edificio 7 y 6)

これは西側から見た建造物 7 と建造物 6 です。

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 (Parte este de Gran Plaza)

グラン・プラサ北東角から西方向です。 右上に見える未発掘のマウンドが建造物 8 で、次にこのマウンドの西側に行って見ます。



《 グラン・プラサ中央  Parte Central de Gran Plaza 》

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 (Estela 1)

グラン・プラサ中央部北側、建造物 9 跡の前に小さな基壇が設けられ石碑が1本立っています。 鳥ジャガー4世による石碑 1 です。 建造物 33 から 降りてくる階段の線上にあり、グラン・プラサの臍に当たる所で、広場の中心と言えます。

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  (Estela 1)

写真左が広場北の神殿を向いた面で 右が川を向いた面になり、上で説明したように川から吹く風で石碑が神殿側に倒された為、地面に接地した神殿側の彫刻が 保護され、上向きになった川側は風化してしまいます。

川側は風化したものの、槍を持ち戦士の姿をした王が彫られているようです。 神殿側は文字も含めて明瞭で、中央に 761年に香を撒く儀礼を行う 鳥ジャガー4世、上部に太陽神とその横に王の両親、下部に王杓を持った太陽神がそれぞれ描かれます。

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 (Estela 27)

石碑 1 の奥、川寄りに小さな石碑が1本あります。 これは石碑 27 で、鳥ジャガー4世の時代に補修されているようですが、結び目ジャガー1世 ( 508- 518 )  が 9.4.0.0.0. (514年)のカトゥンに奉納したもので、ヤシチランで見つかっている最も古い石造物になるようです。

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 (Edificios 13, 10 y 74)

石碑 1 の北西側に建造物が並び、左から建造物 13, 10, 74 です。 建造物 13 と 74 は建造物 6 と同じく 600-650年頃の建造と考えられます。

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 (Edificio 10)

これは建造物 13 と 74 の間に鳥ジャガー4世の時代に作られた建造物 10 です。 建造物 74 の一部を覆う形で建てられ、3つの戸口のまぐさには 神聖文字が刻まれた石板が残されます。

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 (Dintel 31)

右側の石板 31 は入り口が後の時代に窓に作り替えられた為、真下から写真が撮れませんでした。

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                (Dintel 30)

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       (Dintel 29)

上の石板 30 が中央の戸口、下の石板 29 が左の戸口を飾ったもので、石板 31と併せて鳥ジャガー4世の誕生から即位までが記されているそうです。  この建造物 10 から川縁りの作られた建造物 11 にかけては、多くの土器片が回収されており、居住区だったと考えられます。

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 (Edificios 13 y 10)

正面の建造物 10 の左手前に直角に建造物 13 が建てられています。

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 (Edificios 13 y 10)

これは南東方向から見た建造物 13 の正面です。 600-650年頃に作られた建造物 13 は戸口のまぐさが木材で作られており、鳥ジャガー4世の時代に 彫刻された石板に置き換えられたそうですが、その石板も崩れ落ちて現在は遺跡にありません。

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 (Dintel 32, MNA)               (Dintel 33, Museo Regional de Chiapas)

中央の戸口にあった石板 32 は現在は人類学博物館に展示されており、鳥ジャガー4世が両親の姿を刻んだもので 697年の日付があるようです。

右側の戸口の石板 33 は人類学博物館から現在は チアパス地方博物館 に移されて おり、こちらは鳥ジャガー4世本人が儀礼を執り行っている姿が刻まれ、741年の日付から始まり、数多くの捕虜を捕った事などが記されるようです。

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 (Edificio 12 y 13)

建造物 13 (写真右隅)の裏に中庭を囲む形で建造物跡があります。 ツアーの集合時間が迫っているので中庭まで行けませんでしたが、この中庭の 左(北西)が建造物 12 でした。

建造物 12 は鳥ジャガー4世の時代ですが、10代目 キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世 ( 526- 537? ) による初代からの歴代王名表を含む8枚の石板がここに移設 されたそうです。 それぞれの石板がどの建造物から移されたかはわかっていません。

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 (Edificio 12)

これは正面から見た建造物 12 で、2013年の写真です。 古い王名表の石板が移設された特別な建造物なので、今回は忘れずに寄ってきました。

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 (Edificio 12)

建造物 12 に近寄って、南側から正面を撮りました。 開口部だらけの建造物で、北東側のふたつは積石をして窓の様に変更されていますが、 鳥ジャガー4世の時代に 上述の通りそれぞれの鴨居部分に 初代からの歴代王名表を含む8枚の石板がここに移設されています。

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                       (Dintel 37)

手前の中庭に置かれた説明プレートには、文字の刻まれた石板が8つあり、その内3つが現地に残されていると書かれていましたが、 現地で確認出来たのは写真の石板 37 だけでした。 また見落としているのか、或いはそれと判らない位に断片化か風化かしてしまって いたのか?


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 (Dinteles 47 y 48, MNA)                 (Dinteles 35, Museo Británico)

8枚の石板の内の2枚が石板 47 と 48 (写真左と中央)で、現在は人類学博物館に展示されています。 この2枚の石板を含む4枚の石板には洗練 された頭字体の神聖文字でヤシチラン歴代王が 10代王キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世の即位 (526年) まで記録されます。

石板 35 (写真右)は 19世紀末に持ち出されて大英博物館所蔵になっていますが、同じく建造物 12 にあったもので、数々の戦闘の勝利が刻まれ、 大国カラクムルに対する勝利も含まれるそうです。

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 (Edificio 14, Juego de Pelota)

建造物 12 の更に北西側に、古典期マヤ遺跡に欠く事の出来ない球戯場があります。 楯ジャガー2世の742年の死後、入り口の所のラベリント(建造物 19)と 同時期に作られた球戯場ですが、グラン・プラサの南東にもうひとつ球戯場(建造物 67) がありました、未発掘で公開されていないようですが。


《 建造物 22, 22, 23  Edificio 22, 23, 24 》

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 (Edificios 22, 23 y 24)

さて、ツアーで時間が制限されると言うのは辛いものです。 休憩せずに歩き続けてきたのに既に1時間 40分経過しています。 小アクロポリスは諦めざるを 得ない感じですが、兎に角 先を急ぎます。

写真はグラン・プラサの南側の基壇上に並ぶ建造物 22-24 で、建造物 33 へ登る階段を挟んで 建造物 20, 21 の反対側です。

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 (Edificio 22)

建造物 22 は数度の改築を経て、鳥ジャガー4世の時代にも手が加えられていますが、戸口の枠組みが幾つか残るだけで天井から上は完全に崩れ去って います。 

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    (Dintel 22)

これは建造物 22 で唯一現地に残る石板 22 で、かなり風化してきていますが、ヤシチランの歴代王について書かれているようです。

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   (Dintel 22)                            (Dintel 21)

「建造物 22 で唯一現地に残る石板 22 」と書きましたが、これは嘘でした。 右隣の開口部にも大きなひびが入っていますが、石板がもう一枚あり、 石板 21 でした。 解説が見つからず、何が書かれているのかわかりませんが、石碑 21 の方はほぼ完ぺきな模写が存在し、9.0.19.2.4. (454 AD) と 随分古い長期暦から始まります。  454年というと第7代 月・頭蓋骨王の即位年に合致しますが…。


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                      (Dintel 18, MNA)

建造物 22 からは建物西側の戸口の石板 18 も回収されていて、これは人類学博物館に展示されます。
彫りは非常に浅いものの文字は鮮明で、日付は不明ですが捕虜の名前が記されているようです。

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 (Edificio 23)

これは建造物 22 の西隣になる建造物 23 で、楯ジャガー2世 (681- 742) がカバル・ショーク妃に捧げた建造物であり、726年の落成と考え られます。 カバル・ショーク妃は楯ジャガー2世の死後も影響力を維持し、749年に死去した後 この建造物に埋葬されたようで、床下からは カバル・ショーク妃のものと思われる埋葬が多くの副葬品を伴って発見されています。

ここで注目されるのはマヤの石造彫刻の最高傑作とされる石板 24, 25, 26 で、このページの冒頭でも取り上げました。
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 (Dinteles 24 y 25, Museo Britanico)                         (Dintel 26, MNA)

説明の為にもう一度3枚の石板を小さく表示します。(より大きな画像は冒頭の博物館のところを参照下さい。)

19世紀末にモーズレーが発見した時は石板は戸口から崩れ落ちていましたが、3つの戸口の左から石板 24, 25, 26 の順に並んでいたとされます。  3枚の石板は楯ジャガー2世の時代の出来事を表わしており、楯ジャガー2世と正妻のカバル・ショーク妃が描かれます。

石板 24 には 9.13.17.15.12 (709年)の放血儀礼が刻まれ、儀式は暗闇で行われ、王が松明で照らす中、妃が舌に棘の付いた縄を通して 放血を行っているとされます。 石板 24 は 681年の王の即位に際して妃が幻視の蛇を目の前に儀礼を行い、妃の手元と床に血を集める容器があり、 蛇の口からは戦士が現れます。 神聖文字が裏返されていて(鏡字)、どういう理由なのか謎です。 石板 26 は 9.14.12.6.12 (724年) に妃が 王にジャガーの兜を渡す場面で、戦争の準備と考えられます。  解釈にはいろいろ異説があるようですが。

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 (Resto de pintura mural)

建造物 23 の中は2列にわたり部屋が設けられており、室内は漆喰彩色されていたようで、屋根が残る室内のところどころに 赤、青、黒で彩色された跡が認められます。

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               (Dintel 23)

2011年訪問時は見落としていましたが、建造物 23 の側面に石板 23 が残されていました。 発見時は土砂に埋もれていたものを戸口に付け直した ようです。 上の3枚の石板と共に建造物 23 を飾ったものですが、正面も下面も全面文字だけです。



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 (Edificio 23, 24 y porcion cortado de Dintel 24 o 25)

建造物 23 の前に石の板が立てられていますが、モーズレーが石板を持ち出す際に切り落とされた石板の切れ端になるようです。 写真の右端は 建造物 24 になります。

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 (Edificio 24)

これが建造物 24 の正面で、楯ジャガー2世の時代に建造物 23 に付属する形で作られています。 3つの戸口が確保されていますが、左側のまぐさに あった石板は瓦礫の中から発見されているようなので、修復された後の姿のようです。 天井部分はありません。

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               (Dinteles 27, 59 y 28)

3つの戸口のまぐさ石の正面には神聖文字の彫刻が残され、カバル・ショーク妃の 749年の死と埋葬儀礼が記されるようです。



《 グラン・プラサ西側  Parte Oeste de Gran Plaza 》

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 (Edificio 30)

グラン・プラサはあともう少し、 残る西側です。 写真は建造物 30 で、建造物 24 の西側で更に一段髙い基壇上にあります。

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 (Edificio 30)

建造物 30 は 650-700年に作られ、楯ジャガー2世の時代以前の古いものですが、かなり良い状態で残されています。 時間が迫っており、特に見るべき 石造物もないので、写真を撮って次へ。

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 (Edificios 16 y 15)

建造物 30 から広場を挟んで北側、グラン・プラサ西側の北辺に建造物 16 があります。 鳥ジャガー4世の時代の建造物です。

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 (Edificio 16)

これが斜め横から見た建造物 16 の正面で、3つの戸口が見えます。 戸口のまぐさは 19世紀末には崩れ落ちていましたが、現在は修復されて 元の位置に戻されています。

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               (Dinteles 38, 39 y 40)

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  (Dinteles 39)

建造物 24 同様 まぐさには下辺ではなく正面に彫刻が施されていて、左から石板 38, 39, 40 です。 石板 39 の状態が一番良いので、下に拡大 してみました。 3枚の石板はそれぞれ左右に2列8文字が刻まれ、中央に図像が彫られており、鳥ジャガー4世と二人の妃が、幻視の蛇を見て 放血儀礼を行う様子が示されるようです。

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 (Edificio 17)

建造物 16 の西側が建造物 17。 鳥ジャガー4世の時代の初期に改築され、スティーム・バスとして使われていたようですが、球戯に際して身を 浄めるのに使われたりしたので、近くに球戯場があるのが頷けます。

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 (Edificio 18)

これは建造物 17 の前から見たグラン・プラサの西端で、階段の奥が建造物 18 です。

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 (Edificio 19, Laberinto)

2時間後の集合時間が近づいてきました。 ラベリントの写真をもう一度撮って戻ります。



小アクロポリス   Pequeña Acrópolis

ヤシチランをじっくり見ようと思ったら、ツアーの2時間では足りません。 結局小アクロポリスは時間切れで行けませんでした。 前回とは違った目で もう一度見たかったのですが、また宿題が出来てしまいました。

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             (Señal para Pequeña Acrópolis)

と言う事で 2013年の三度目のヤシチラン訪問では真っ先にこの小アクロポリス (別名 西のアクロポリス) へ向かいました。 遺跡入り口の地図のある所が 小アクロポリスへの分岐点で、標識に従い右へ。  (今回は南の神殿群をカットしましたが、それでも2時間では不十分、勿論休憩なしです。 ツアーではヤシチランで3時間欲しいですが、そうするとボナンパックを含めた日帰りは難しくなるかもしれません。)

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   (Sendero arriba hacia Pequeña Acrópolis)

小アクロポリスまでは約 50m の高低差があり、ちょっとした山登り。 すれ違いには道を譲りあい、写真の小道を上へ、上へ。 

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      赤い点線が小アクロポリスへの小道で、道を登り切ると建造物 45 の正面に出ます。

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   (Edificios 45 y 44)

写真は建造物 45 から建造物 44 方向で、こちら側が小アクロポリスの正面だったでしょう。 下から登っていくと前方にこの正面が聳え立って いた筈ですが、現在は森に囲まれているので、山道を登り切ると突然この正面が姿を現します。

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   (Plaza Oeste detrás de Edificio 45 y al fondo Edificio 50)

建造物 45 に登ると裏側には西の広場があり、南東側が大きな建造物 50 で閉じられます。 建造物 50 の先は中央広場ですが、まず先に建造物 44 へ。

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   (Fachada frontal de Edificio 44)

これは建造物 44 を北東側から見上げたところです。 建造物 44 は楯ジャガー2世の時代の建物で、正面を残して奥の居室部分の屋根は失われて いますが、3つの戸口部分のまぐさには彫刻された石板が残されます。

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   (Dintel 45)

建造物 44 は楯ジャガー2世の時代に立てられ、王の戦勝を記念した石板が知られますが、これは中央の戸口上部にある石板 45 で、北東側から 見上げると右側を頭にして石板が置かれています。

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               (Dintel 45)

石板 45 はモノクロ写真で彫りの深い素晴らしい彫刻を見ていたのですが、かなり風化が進んでいてやや期待外れでした。 特に左側で跪く 捕虜 アフ・ニク の姿は殆ど消えかかっています。 でも他の建物では殆ど消えてしまった石板の彩色が、背景の赤だけですが しっかり残っている のが印象的でした。

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               (Dintel 46)

右側の戸口にも赤い彩色の残る石板 46 があり、文字部分は石板 45 より綺麗に残っていますが、楯ジャガー2世の顔は失われ、左下の捕虜も 殆ど消えてしまっています。

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  (Dintel 44)

向かって左の戸口には石板 44 がありますが、現状は写真の通りです。 石板の向きは他の2枚と異なり左が頭で、左隅に頭飾りの一部が残り ますが、他は彫刻が消えてしまったか、割れた断片毎 無くなっています。

建造物 44 はグラン・プラサの建造物 23 同様、楯ジャガー2世によるものですが、建造物 23 では石板は放血儀礼などの儀式を記録しているのに対し、 建造物 44 は楯ジャガー2世の戦勝の記録が捕虜の姿と共に刻まれたようです。

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  (Edificio 42)

小アクロポリスには楯ジャガー2世のみならず、鳥ジャガー4世の足跡も残されます。 小アクロポリスの東角にあたる写真の建造物 42 には 鳥ジャガー4世の時代の石板が3枚ありましたが、中央の1枚が現在も現地にそのまま残されます。

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   (Dintel 42)

これが現地に残る石板 42 で、右が頭になりますが、手前、つまり図像の左側が崩れているのが気になります。

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   (Dintel 42)

彫りが浅いのか、それとも風化が進んでいるのか、真下から撮った写真を補正しましたが、かなり見辛い状態です。 現地の説明版にあった模写を 横に並べてみましたが、左側の斧を持ったカン・トックという名前の高位の臣下は半分以上消えてしまったみたいです。 小アクロポリスの石板は 屋根が無くなった建物に残されているので、風化が激しいようです。

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                      (Dintel 43, MNA)

これは同じ建造物 42 の右側の戸口にあった石板 43 で、首都の人類学博物館に展示されているものです。 石板 43 は下の4分の1を残して 落下していて、1964年に上下合わせて博物館へ送られた為、現在も良い状態を保っています。 (左の戸口を飾った石板 41 は上の半分が イギリスへ持ち出されて大英博物館の収蔵物になっています。)

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  (Plaza Central)

石造物はこの辺にして、小アクロポリスの他の建造物を見てみます、と言っても屋根まで完全な建物はひとつもありませんが。 これは建造物 42 の 隣の建造物 52 (写真手前)から見た中央広場で、奥は建造物 51 です。

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  (Plaza Central)

建造物 51 に登って中央広場を見下ろしました。 右奥は鳥ジャガー4世の建造物 42 で、左奥が楯ジャガー2世の建造物 44 です。 写真は パノラマ合成してあります。

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  (Pequeña Acrópolis y Edificio 44)

中央の建造物 42 の手前に広がる建物跡は、西の広場から聳え立っていた建造物 50 の上部でした。

小アクロポリスは上の中央広場と下の西の広場を13の建物が囲みますが、天井まで復元された建物は皆無で、見どころは彫刻されたまぐさの 石材だけでした。


ツアーではヤシチランの滞在が2時間と限定されますが、2時間では全てを見て回るには不十分です。 建物に興味があるなら南の神殿群を優先して 小アクロポリスを諦めるか、彫刻に焦点を当てるなら南の神殿群を忘れて小アクロポリスを回るか、どちらかでしょう。 南の神殿群も 小アクロポリスも全て見たければ、2時間大急ぎで駆け回るしかありません。 その場合はグラン・プラサに戻らず、直接 小アクロポリス南端から 大アクロポリスへ抜ける裏道もありますが…。 (^-^)




帰途   Regreso a Frontera Colozal

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 (Lado Guatemalteco del Río Usumacinta)

二度目の訪問で、ヤシチランの理解を深めると同時に前回見落とした南の神殿群のリベンジも出来、まずは満足ですが、また小アクロポリスの 宿題が出来て…、また戻ってくる口実が出来ました。 帰途は川を遡る事になり、左岸がグアテマラです。 船旅は流れに逆らうので来る時より 10分程余分にかかったようです。

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 (Un cocodrilo grande en siesta!)

3度目のヤシチランで帰途 大物のワニに遭遇、ヤシチランを発って10分位でした。 ウシュマシンタ川では初めてです。 やはり居るのですね。


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 (Embarcadero de Frontera Corozal)

コロサル村に帰着しました。 もう午後2時近くです。 ここでビュッフェスタイルの昼食をとり、次のボナンパックへとツアーは続きます。

ボナンパックはヤシチランに近く 因縁浅からぬマヤセンターで、楯ジャガー2世の娘は 壁画の神殿を残したチャン・ムアーン2世に嫁いでおり、 両者は戦火を交えた時代もあったようですが、最後は婚姻関係も結ぶ友好国でした。 ボナンパック遺跡壁画の解読 は別途紹介してあります。

 ★ 隔月刊の雑誌 arqueología Núm.22 (Nov-Dic. 1996) に写真と地図を含め 10頁に亘って Yaxchilán の特集があり、
   参考になりました。  王の名称は最新の表記に変えてあります。




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