マヤ遺跡探訪
TAZUMAL
タスマル遺跡はカサ・ブランカ遺跡の南 1Km にあり、車で直ぐに着いてしまいます。

タスマルの存在は 19世紀末から知られ、1942年に初めて発掘修復に着手、1952年には博物館が整備され、チャルチュアパ遺跡地域で 最も有名な遺跡です。 チャルチュアパ遺跡地域については カサ・ブランカ のページの冒頭で説明してあるのでそちらを参照下さい。

タスマルはもともとインディオの言葉で、政府が土地を買い上げる前にあったタスマル農園が遺跡の名前の由来となっています。
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     (訪問日 2010年11月17日)
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 (Sitio arqueológico de Tazumal)

カサ・ブランカから街なかを走り、直ぐに目の前にピラミッドが見えてきます、写真は車内から。 周りに土産物屋が並び、屋台も 出ていて その脇にはブロンズ像が。

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 (Estatua de Bronce de Che Guevara)

誰の肖像かと思ったら、チェ・ゲバラ。 1954年4月にこのタスマル遺跡を訪れたそうです。 キューバ革命の前、当時 社会主義政権だった隣国のグアテマラに一時滞在していました。 マヤとは関係ありませんが。

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 (Entrada al sitio)

タスマル遺跡の入口、ゲバラの肖像の右です。 古くからの遺跡公園ですが、他の遺跡公園と同じ朱色の統一カラーで綺麗に 整備されています。

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まず遺跡の地図。 メインのピラミッドの他、番号の2から4が遺跡公園内で、その他は公園の敷地外です。  GOOGLE EARTH の画像はクリックすると大きな画像が開き、遺跡周辺の現状もわかります。


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 (Estructura 3 y 4, Juego de Pelota)

公園に入って直ぐ右手に細長い遺構があります。 球戯場だそうですが、かなり崩れていて指摘されて初めてそれと気づきました。  部分的に石組みが見え、後古典期に造られた球戯場だそうです。

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 (Complejo de Estructura B-1)

そして左手に見えるのがタスマルのピラミッド、建造物 1 正確には B1-1 で、高さは 23m あり、5つの建造物が付加された 複合建造物になります。

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 (Rótulo de explicación)

保護の為の柵が設けられ建造物には登れないので、遺跡に設置された案内板が理解の手助けになります。

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案内板中央の図を切り出しました。 一番高い所が B1-1 で、その前面に置かれた小さな礼拝堂が 1-E、西側の列柱が見える建造物が 1-D、北のテラス上に 1-A、1-B、1-C が設けられています。

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 (Panel que indica diferentes etapas de construcción)

これは博物館にあった説明パネルですが、古典期前期に 1-D の建設が始まり、古典期後期に入る前に増築が繰り返され、 現在目にする 10本の列柱はこの時期に完成されたようです。 古典期後期に入って 1-D をベースに大きな基壇が形成され、B1-1 が 建てられて、高さ 23m の建造物複合が完成していったようです。

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 (Complejo de Estructura B-1)

建造物 B1-1 の西側正面。 1-E を伴う B1-1 が、古典期前期に完成した 1-D の右後方(南東方向)に建てられているのがわかります。

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 (Complejo de Estructura B-1)

1-D 越しに 1-E 。 建造物は石と泥で構造を作り、表面を泥で仕上げたもので、発掘後の保存では表面をセメントで 覆わざるを得なかったようです。 それにしても 1-E の前の階段辺りは、苔か黴か、それとも自動車の煤煙なのか、真っ黒です。

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 (Oratorio 1-E)

1-E は小さな礼拝堂と考えられ、発掘時に掘り出されものを、失われていた天井を推定で追加し、復元保存されています。

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 (Oratorio 1-E)

登れないので望遠で撮ってトリミングしてみました。 他のマヤ遺跡では見かけない独特なスタイルですね。

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 (Complejo de Estructura B-1)

手前の建造物 B1-2 の上から、もう一度 B1-1 を。

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 (Estructura B1-2)

これは北西側から見た建造物 B1-2 です。  B1-2 も修復の過程でセメントで覆われてしまいましたが、2004年に部分的に崩れて 再度調査の手が入り、 古典期終末期頃に建設が始まり 数度の増築を経て後古典期前期に完成された事が判明しました。 修復されたピラミッド の形からトルテカ様式の影響を受けていると指摘されます。

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 (Estructura B1-2)

トルテカ様式と言われる B1-2 の西側を向いた前面。 トルテカ様式と言う事は古典期終末期の所謂マヤの崩壊の後に タスマルにはトルテカの影響を受けた別の部族が進出してきた事になります。

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 (Estilo Tolteca de Tula y Chichén Itzá)

参考に、左はトルテカの都、トゥーラの方形基壇、右がトルテカ様式のチチェン・イッツァの金星の基壇です。  B1-2 が似ていると 言われれば、まあ…。

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 (Parte superior de Estructura B1-2 con restos de columnas)

これは B1-2 の上部、ここは登れます。 居室が設けられていたようで床面の上には壁と丸い柱の基部が残ります。 ここから正面に B1-1 の東側が見え、近づけるのかと思ったら、床面から先はまた立ち入り禁止でした。

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 (Cementerio moderno al lado oeste del parque arqueológico)

B1-2 から西側を見ると公園との境界の向こうは墓地になっています。 建造物 5 はこの墓地の中で、既に姿を消してしまったようです。

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 (Estructura B1-2)

B1-2 の中央階段の右側。 粗石組みのまま残されていて、ここから右へ迂回して B1-1 の側面にまわります。

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 (Escalinata que conduce al lado sur de B1-1)

南側は写真にある階段を使って一段目の基壇を登り B1-1 の直ぐ南側に出られます。 

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 (Lado sur de B1-1 y cancha de juego de pelota)

B1-1 の南側。 柵の向こうの芝のある部分は球戯場の球技面で、B1-1 の南斜面を球戯場の片側として利用、手前に傾斜を 持つ建造物を新たに設けて一対とした、変則的な球戯場だったそうです。

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 (Parte posterior de B1-1)

B1-1 の背面(東側)は芝生で整備され奥に屋根がついたところがあります。

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 (Proceso de excavacion en la parte posterior de B1-1)

屋根の下は発掘された建造物跡で、セメント処理されておらず 最近の発掘のようです。 案内板にも博物館にも特に 説明はありませんでしたが、ここにも建造物があったようです。

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 (Parte norte de B1-1)

上の建造物跡を過ぎて、北の広場にでます。 写真の右、階段のある部分は案内板でも特に番号は振られていません。

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 (Parte norte de B1-1 y 1-C)


上の写真の更に左側。 セメントで平らに修復されているのが 1-C なんですが、この先は行きませんでした。 柵があって行けなかったのか、 1日の終わりで疲れて行かなかったのか。 でもこの先は古典期の埋葬が見つかり大量の発掘物が回収された重要な場所だったようです。

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 (Reconocimiento al arqueólogo Stanley Boggs)

博物館にここの発掘当時の写真がありました。 B1-1 の上から北方向に 1-A、1-B を見た所です。 右の写真はタスマルを発掘修復 し エルサルバドルの考古学の父とも呼ばれる アメリカ人考古学者スタンレー・ボッグスで、横の説明には 1942年から 3次に渡る発掘調査の後 1948-50年にはセメントを使用して遺跡修復を行った事が記されていました。

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 (Parte norte del conjunto B-1)

B1-1 の北側、写真左に遺跡併設の博物館が見えます。 博物館はスタンレー・ボックスの文化遺産保全への貢献を称えて、 彼の名前が冠せられています。 博物館の手前に4本の柱で覆われた部分がありますが、これは…。

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 (Piedra de Las Victorias)

4本柱の覆いの下です。 博物館の目玉、ラス・ビクトリアスの石と言われる石彫りで、オルメカ様式の人物像が見事な形で 残されています。 オルメカ風の被り物とケープを身に着け、右手に錫杖のようなものを抱え、左手で前を指差しながら 歩いていく様子。 まさに生き生きしていると言えます。

これはタスマルからではなく、チャルチュアパ地区で古くに栄えたラス・ビクトリア遺跡(カサ・ブランカ遺跡の東)にあったもので、 時代は BC 900-600 とされ、オルメカ地域ではラ・ベンタが栄えた時代に当たります。 当時のオルメカ文化がエルサルバドル西部まで 広がっていた事を示すと共に、チャルチュアパ地区の歴史的古さを物語ります。

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                      (Monumento 77 Governante, Parque arqueológico de La Venta)

これはタバスコ州のラ・ベンタ公園博物館にある「モニュメント 77 統治者」で、上の石彫りはこの統治者があたかも歩き出したような 感があります。

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 (Piedra de Las Victorias)

ラス・ビクトリアスの石には4面に彫刻が施され、2つは歩いている場面、もう2つは座っているところだそうですが、正面以外は あまり明瞭ではありません。 右側の彫刻は歩いている人物像でしょうか?

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 (Monumento 5 de El Trapiche)

屋外に展示されているもうひとつの石造物、エル・トラピチェ遺跡の「モニュメント5」、猫科の動物、ジャガー?が彫られています。  エル・トラピチェのもうひとつの「モニュメント1」の石碑はカサ・ブランカ遺跡の併設博物館に展示されていました。(カサ・ブランカ のページ参照)  モニュメント5の年代はわかりませんでしたが、モニュメント1の方が BC 600-500 だったので、およそ同時代かと 思います。

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 (Estela de Tazumal, Museo Nacional de Arqueoogía, San Salvador)

タスマルからの石造物としては 有名な「タスマルの聖母」と呼ばれる モニュメント 21 タスマルの石碑がありますが、これは併設博物館で は写真展示だけ、実物(写真左・中)は首都サンサルバドルの国立考古学博物館にあります。 1892年に発見され首都に搬送され、1939年 の写真(右、FUNDAR のページから)では細部がまだ明瞭ですが、現在はかなり風化しています。 建造物 B-1 西側斜面で発見され、 古典期のものとされます。 

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                      (Restos de inscripciones, Estela de Tazumal)

石碑に彫られているのは女性ではなく実際は王か戦士の像で、立派な頭飾り、首飾り、腕飾りに、幾何学模様の腰巻をつけ、 右手に王杓のようなものを持っています。 マヤの石碑としては一風変っていますが、側面には神聖文字が刻まれています。 博物館で見た時 は気づきませんでしたが、写真をよく見てみると文字らしきものがありました。 テオティウアカン風の頭飾りに、マヤ文字、肖像は独特なものと、 マヤの周縁部で多方面の影響を受けていた感じです。

チャルチュアパ地域はマヤで重要な翡翠の産地で、数多くの発掘された遺物からはグアテマラ南部高地やホンジュラス・コパンあたりと 盛んに交易が行われた様子が窺われるとの事。 オルメカやテオティウアカンの影響を考えると 広くメゾアメリカ圏にあっても重要な交易拠点 だったのかもしれません。



タスマル遺跡は以上ですが、併設の博物館(スタンレー・ボックス博物館)にはタスマルで発掘されたその他の遺物が沢山展示 されており、以下画像でざっと紹介しておきます。

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 (Articulos exhibidos en el museo del sitio)

最初のキノコ型の石造物は、メキシコではあまり見かけませんが、グアテマラやエルサルバドルではよく見られ、古典期前期の ものとされます。 2番目の真っ赤な辰砂が残る斧は球戯に関連付けられるものです。

彩色土器は沢山展示されていて、B1-1 の北側広場、1-A、1-B 周辺から発掘された副葬品が多く、殆どのものは古典期と のみ記され、なかなか立派なものでした。

最後の盛装した貴族のマネキン?は発掘された翡翠の装身具の展示のようですが、なかなか迫力ある見せ方でした。


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 (Ceramicas policromadas desde Tazumal, Exhibición en el Museo Nacional)

最後に、タスマルで発見され首都の国立考古学博物館に移されているもの。 この2点は出所が 1-B の埋葬 14 と埋葬 2 と明示されていました。 タスマル遺跡からの土器の傑作という扱いでしょうか?

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 (Xipe Totec y Chac Mool desde Tazumal, Posclásico, Exhibición en el Museo Nacional)

そして後古典期の遺物になりますが、左のシペ・トテック神の像も首都の博物館に移され、現地では複製が展示されています。(写真は 実物の方)  豊穣を求める神ですがその代償として生贄の生皮を要求するおぞましい神で、メキシコ中央高原からの信仰です。  魚の鱗を着た焼き物の像で表わされ、類似した像がメキシコの国立人類学博物館やベラクルス州ハラパの州立博物館でも見られますが、博物館 の説明ではピピル人の文化の存在を示すものとなっていました。

もうひとつ、これも首都の博物館行きとなった、タスマル出土のチャックモール。 生贄の心臓を捧げたチャックモールはトルテカ文化を 特徴付ける後古典期の遺物で、遺跡に残された建造物 B1-2 と時代が合致しますが、ピピル人がシペ・トテックと共にメキシコの信仰・習慣を 持ち込んだのでしょうか?

タスマル自体は後古典期前期以降 放棄されますが、タスマルの北、ヌエボ・タスマルやクスカチャパ湖などの周辺部では引き続き人々の生活 が続いたようです。



以上、国立考古学博物館に移された遺物も含めてタスマル遺跡を見てきましたが、カサ・ブランカ遺跡と併せて チャルチュアパ遺跡地域 全般のおよその概要が把握が出来たと思います。

オルメカの影響を示すラス・ビクトリアスの石彫りや 古いマヤ文字の記されたエル・トラピチェの石碑など 先古典期からの繁栄が窺え、 古典期には土の文化が発展しテオティウアカンの影響もあり、さらには後古典期は入ってトルテカだ ピピル人だ、とエルサルバドルの全時代に わたる歴史が刻まれ、興味の尽きないマヤの南東周縁部でした。



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