(Galerías de monumentos líticos)
博物館中央の円形の中庭を取り囲むように石造物が配され、石碑の回廊と言った感じの石碑コーナーがあります。 広いのでそれ程
沢山あるように見えませんが、マヤに関してはメキシコ人類学博物館の倍以上の石造物があります。
(Altar de Puerto Barrios, decomisado en Puerto Barrios en 1986)
最初にこの見事な祭壇から。 プエルト・バリオスの祭壇と聞き慣れない名前があります。 それもその筈、プエルト・バリオスは遺跡ではなく、
モタグア川がカリブ海に注ぎ込む所にある港町。 そこでこの祭壇が 1986年に押収されたそうです。 つまり国外へ密売される直前だった!
この祭壇には8列にわたり神聖文字が刻まれ、
カラコル に
代表される「巨大なアハウ」の祭壇の形を取りますが、出所不明。 長期暦 9.15.15.0.0 (746AD)
の日付と共に独自の紋章文字を持つ王の名が記されていますが、解明されていない紋章文字の為に出所が特定できず、
まだ知られていない遺跡の可能性もあるそうです。 盗掘・密売で歴史が隠されてしまうのは残念です。 (画像をクリックすると模写が開きます。)
ドス・ピラスの石碑のように盗掘者によって細切れにされてしまった石碑の展示もあります。
石灰岩製の石碑は遺跡に置いておくと風化してしまう恐れがある他に、こうした破壊、略奪の危険もあり、博物館に移す必要性がある訳です。
ここから博物館に展示されている石造物を古い順に遺跡毎にまとめて紹介していきます。 まず先古典期の石造物から。
KAMINALJUYÚ カミナルフユ
マヤ文明の起源については諸説有りますが、南部高地説の中心になるカミナルフユからは先古典期後期 (200BC - 200AD) の最も重要な石造物
3点を含む展示があります。 カミナルフユについては石碑の回廊に行き着く前の先古典期コーナーに先古典期中期に遡る石碑を含めて
興味深い石造物が多くあり、別途
カミナルフユのページの後半 にまとめてあります。
(Monument 65 de Kaminaljuyú)
これは 1983年にアクロポリス南西 400m で発見された先古典期後期のモニュメント 65 で、高さ 290cm、幅 180cm ある玄武岩製の大きな祭壇です。
右下が一部欠けていますが、三段に分けて彫刻が施されています。
各段共 同じモチーフで 玉座に座る貴族が左右に手を縛られた捕虜を伴います。 貴族は左向きで一様に左を指差しますが、被り物が夫々異なり
下に行くにつれ大きく表現されています。 貴族に跪く捕虜も被り物をつけており戦争で捉えられた敵側の貴族と考えられ、
カミナルフユの貴族がその権威を示す祭壇だったと考えられます。 カミナルフユの貴族は夫々異なる頭被りを付け、上から
’空か蛇の文字’、’日の記号’、’カカオの葉’が表されており、これが王の名前だとすると、カミナルフユの歴史を示しているとも
考えられるようです。
裏面は殆ど掠れて見えませんが博物館の説明書きによるとイサパ様式の彫刻が認められ、王と跪く捕虜が彫られていたようです。
興味深いのは線上に並ぶ丸い穴で、先古典期後期末に意図的に壊された跡だそうです。
(Estela 11 de Kaminaljuyú)
こちらは 花崗岩に素晴らしい彫刻が施された 高さ 189cm の石碑 11 で 1957年にパランガーナの南東 300m 位の遺構で発見されています。
先古典期後期に遡る石碑には 遺跡の遺構からは想像出来ない当時のカミナルフユ人の顔があります。 右側の立像部分の拡大では
仮面から覗いた目、鼻そして唇は判別できると思います。
カミナルフユ遺跡の案内板では、立派な頭飾りをつけて着飾ったカミナルフユの支配者とだけ説明されていましたが、
博物館にある説明文はもう少し詳しく、
イサパ
様式の流れを汲んで彫刻が3段に彫られ、上段は天空の神、中段は球戯者の装いをした支配者が刻まれ、下段の幾何学模様の帯は地上を表わす、
と説明されます。 腰に付けた衣装は球戯の際の防具(ユーゴ)で、球戯を行う支配者の像と言う事になるようです。
イサパ様式と言う事でイサパの石造物を見返してみる何とそっくりの石碑があるではないですか。 下に模写を並べてみましたが、
地上を表す帯は殆ど同じで、左を向いた王の姿とその上に天空の神が配された構図は作者が同じかと思えるくらい酷似しています。
使われている材質は異なり、両者の距離は 200Km 近くありますが、オルメカからイサパ、カミナルフユという文化の繋がりが感じられ驚かされます。
石碑 11 は上部が欠けていますが、おそらくイサパの石碑のように天空を表わす帯があったように思います。
(Dibujo de Estela 11 y Estela 4 de Izapa)
(Altar 10 de Kaminaljuyú)
祭壇 10 は 2015年訪問時は先古典期コーナーの改装で見れませんでしたが、2018年には改装が済んで「文字の起原」というパネルと共に
また展示されていました。 石碑 11 と同じ所で数メートル上から出土した断片を繋いだのが この祭壇 10 で、 高さ 122cm の花崗岩製です。
図像は失われた部分が多いですが、左上の断片には背中に羽を付けて左手を振り上げた王、右上の断片には仮面を付けた神の頭部、下の断片には何か
捧げ物をする女性が描かれているようですが(模写参照、模写は祭壇の写真をクリックです)、
パネルのタイトルにあるようにここで注目されるのは刻まれた文字です。
王の頭の左上にも暦(7 Ix)と碑文が一部認められますが、下の女性の左側には浮き彫りされた暦(8 Ok)と陰刻された 横 4文字、縦 10文字の碑文
が読み取れます。 二文字づつ下へ読んでいき、上に戻ってまた二文字づつ読むと言う、マヤの記法で書かれた
最も古い碑文のひとつになり、古いチョル語になるようです。
TAKALIK ABAJ タカリク・アバフ
カミナルフユと並んで南部高地でマヤ初期の遺跡とされるタカリク・アバフからも興味深い石造物が1点展示されています。
遺跡まで足を運ぶと沢山の石造物を見ることが出来ますが、この展示はまた別格です。
(El Cargador del Ancestro de Tak'alik Ab'aj)
改装された先古典期コーナーの中央に配置された石造物 「先祖を担ぐ人」 で、以前は石碑コーナーの一角に置かれて
背面がよく見えなかったのですが、新しい展示で背面上部の担がれたご先祖様が確認出来ました。
2008年に建造物7Aで発掘された先古典期後期の王墓(100-200AD頃)からモニュメント 215 と 217 が見つかり、
別の所で発見されていた石碑 53, 61 と同一のものだった事がわかり、ひとつに修復されたのがこれで、モニュメント 215
にオルメカ風のご先祖様を背中に担いだ王が刻まれる事から 「先祖を担ぐ人」 と言う名前のモニュメントとして展示されています。
元々は先古典期後期の初期(400-300年頃)に作られ、下部にマヤ風の図像と文字(石碑 53 と 61)、中間部にマヤ風のコウモリの彫刻
(モニュメント 217)、上部にオルメカ風の王(モニュメント 215)がのるという オルメカとマヤの移行期を示すモニュメントして注目されますが、
先古典期晩期のマヤ王が意図的に切断して先祖の記念の為に再利用したと考えられるようです。
タカリク・アバフのページの最後に
「先祖を担ぐ人」 の詳細 について解説してあります。
UAXACTÚN ウアシャクトゥン
ここから古典期に入ります、まず古典期前期(250-600AD)から。 古典期後期に入ると暦が刻まれた石造物は前期に比べて格段に増えますが、
前期のものは比較的数が少なく、前期の石碑のある遺跡はそれだけ古くからの遺跡という事になります。
(Estela 26 de Uaxactún 445AD)
これは 445年の日付を持つ ウアシャクトゥン の石碑 26で、石碑上部の大きな暦の導入文字に続いて、
9 baktún 0 katún 10 tun 0 uinal 0 kin 7 Ahaw 3 Yax の長期暦が確認出来ます。
ウアシャクトゥンは古典期前期初めにはティカルと肩を並べる勢力だったと思われ、378年のテオティウアカンの侵入以前の旧王朝の石碑が少なくとも
3本現地に残されます(石碑 9, 18, 19)。 ティカルからウアシャクトゥンに入ったテオティウアカンの軍事指揮者シャフ・カックはウアシャクトゥンに
居を構え、ティカルにはテオティウアカンの王子ヤシュ・ヌーン・アイーンを王に据えて、自らはウアシャクトゥンの王となって
ティカルを支えたと考えられ、新王朝創設時の石碑 5 (379AD) はかなり風化が進んでいますが現地に残されます。
この石碑 26 はシャフ・カックを継いだバット・マキーナ王の時代になるようで、碑文の右下の最後の文字がバット・マキーナ王の名前になるそうです。
現地に残された石碑はかなり風化が進み博物館での展示にはなりませんが、重要な石碑が何本もあります。 遺跡の詳細と残された石碑は
ウアシャクトゥンのページで。
TRES ISLAS トレス・イスラス
(Estela 2 de Tres Islas 475AD)
こちらはトレス・イスラスの 475年の石碑 2、古典期前期です。 トレス・イスラスはあまり知られてない遺跡ですが、
調べてみるとペテシュバトゥン地域の南、ペテン県最南部(下の地図参照)にあり、石碑は 3本同時に建てられた内の中央の1本になるようです。
(博物館では石碑 1 と表示されていますが、正しくは石碑 2 だそうです。)
2003年に始まったトレス・イスラスでの遺跡調査と碑文研究により新たな史実が明らかになってきます。
3本の石碑は 9.2.0.0.0 (475AD)のカトゥンに建立され、400年に遡る王の誕生、即位等の史実が刻まれ、
図像からはテオティウアカン風の装束、武具が認められて、同じくテオティウアカンの影響を受けたティカルとタカリク・アバフを繋ぐ
5世紀の交易路に位置していたと考えられるようです。 碑文には 20Km 南になるカンクエンに似た紋章文字も確認され、
トレス・イスラスは古典期後期にカンクエンに移っていったと言う推察も為されるようです。
TIKAL ティカル
最も有名なマヤ遺跡で世界遺産にもなっているティカル遺跡には 10本を超す古典期前期に遡る石碑が有り、
かなり破損したものも多いですが、遺跡併設の
遺跡併設の石造物博物館
に展示されています。
(Altar 8 y Estela 20 de Complejo de Pirámides Gemelas P, Tikal 751AD)
ティカルの石造物は上述の石造物博物館に集められ、古典期前期、後期にわたる 20本以上の石碑に加えて多くの祭壇と石像が展示され、
遺跡訪問の折に見学できますが、比較的程度のよい石碑と祭壇のセットが一組だけ国立博物館に展示されます。
9.16.0.0.0. (751AD) のカトゥンを祝ったピラミッド複合体P に置かれた石碑 20 と祭壇 8 で、
石碑 20 にはイキン・チャン・カウィール王の姿とカトゥンの終了が刻まれ、祭壇 8 には 748年に捕虜となり生贄にされたホルムルの王が表されます。
以前ティカルの北のゾーンまで行った時にピラミッド神殿がひとつ修復されていましたが、隣の複合体P は未修復でした。
ティカル遺跡 についてはこちらから。
QUIRIGUÁ キリグア
隣国ホンジュラスにある世界遺産のコパンに対して下克上を行った事で有名なキルグア、
聳え立つ石碑群が有名で殆どの石造物は遺跡で保存・展示されますが、祭壇がひとつだけ博物館の展示になっていました。
2014年のメキシコでのマヤ展に持ち出されて以降 戻っていないのですが、
コパン同様世界遺産キリグアからの収蔵品なので将来また展示に戻されるのではと思います。
(Monumento 12 Altar L de Quiriguá 652AD)
下克上とはキリグアのカック・ティリウ・チャン・ヨアート王がそれまでキリグアを支配していたコパンに対して反乱を起こし 738年5月に
ワシャクラフーン・ウバーフ・カウィール (通称 18ウサギ王) を捕らえて生贄にしてしまった事件の事で、その後コパンから
独立を勝ち取ったキリグアはコパンに倣ってグラン・プラサに数多くの石碑と獣形神と呼ばれる独特な祭壇を並べていきますが、
これは
キリグア遺跡のページで。
祭壇 L と呼ばれるモニュメント 12 は下克上前のキリグアがコパンに従属していた時代の記念物で、キリグアの支配者 5 が
9.11.0.0.0 (652AD) のカトゥンにコパンの煙イミッシュ王と共に儀礼を執り行ったことが刻まれるようです。
左の写真は 2010年に展示されていた時のもので、右は2014年のメキシコでのマヤ展で撮ったもので、一見して別の祭壇のように見えますが、
綺麗に修復して化粧直しされていたようです。
PIEDRAS NEGRAS ピエドラス・ネグラス
ペテン県最西部でメキシコとの国境を流れるウシュマシンタ川沿いの辺境、ピエドラス・ネグラス、古くからの重要なマヤ遺跡ですが、
2時間以上の船旅が必要な為に定期的に催行されるツアーはなく、現在も秘境のまま。 60年代に徹底的な盗掘にあいますが、石碑コーナーには
盗掘前に遺跡から持ち出された石造物を中心にピエドラス・ネグラスからの貴重な石碑、石板が並びます。
対岸のメキシコのヤシチラン遺跡からの碑文との対比で、タチアナ・プロスコウリアコフがマヤの碑文解読の手掛かりを得る事になった石造物になり
石碑コーナーの一番の見どころのひとつです。
(Dintel 12 de Piedras Negras 514AD)
『古代マヤ王歴代誌』 によるとピエドラス・ネグラス王朝の創設は 297年、対岸のヤシチラン王朝は 359年で、両者の争いは
4世紀には既に始まっていたそうですが、ピエドラス・ネグラスの古典期前期の状況はあまり解明されていません。
この石板 12 は古典期後期の石碑が多く置かれていた建造物 O-13 から 30年代に回収された石造物のひとつですが、
O-13 を増築する際に他所から移設されたと考えられる 古典期前期に遡る古い石板です。
9.4.0.0.0 のカトゥン(514AD)を記念したもので、
支配者 C の戦勝の記録が刻まれ、
右枠に支配者 C が正装して直立し、その背後に後ろ手に縛られた捕虜が見え、左枠に被り物をつけて手を前に縛られた捕虜が3人跪いていますが、
一番先頭がヤシチランの王、結び目ジャガー1世だそうです。
(Estela 33 de Piedras Negras 642AD)
支配者 C の次の支配者 1 (キニチ・ヨナル・アーク1世、在位 603-639AD) は南のグループに石碑を建立しますが模写や複製が残されるだけで
既に喪失されています。 引き続き
支配者 2 (イツァム・カン・アーク1世、639-686AD)
は南のグループの建造物 R-5 の前に 5年毎のホトゥーン(ho'tuun、4分の1カトゥン)に石碑を建て、
即位後最初の石碑が この石碑 33 (9.10.10.0.0 642AD) になります。 639年の即位日が記され、支配者 2 は玉座の上に前向きに胡坐をかいて
左側の女性から被り物を受け取る場面が描かれています。 王は即位時に12歳だったとされ、女性は母親になるのでしょうか。
(Estela 36 de Piedras Negras 667AD)
(Panel 4 de Piedras Negras 667AD)
建造物 R-5 からは盗掘前に上述の石碑 33 と同時に石碑 36 と石板 4 も回収されており、共に支配者 2 の時代になり、
石碑 33 から数えて ホトゥーンを5回経過した 9.11.15.0.0 (667AD) に作られています。
石碑 36 は R-5 の前に石碑 33 と共に 6本 並べられた石碑のうちの 1本で、4列 8段の碑文が刻まれ、
暦の導入文字に続いて 9.10.6.5.9 (639AD) の王の即位年と名前が記され、王の生年と碑文の奉納日も記録されるようです。
博物館の説明書きには古典期前期 445年なんて書かれていて、2010年以降 2015年、2018年もそのまま。
445年に 7世紀の史実が書ける訳がなく、誤った情報は困ります、誰も指摘しないのでしょうか?
石板 4 には羽飾りのある被り物を付けて着飾った王が 二人の跪いた戦士から捕虜を引き渡されている場面が描かれ、
胸を上にして頭を下げた捕虜の姿から生贄の場面という見方もあるようです。
長い碑文はかなり風化していて解読は部分的になりますが、支配者 1 の幾つかの戦勝記録と王の没年、
更に没後 20年に行われた祭祀が記されるようです。 支配者 2 が先王を回顧して作らせた石板で、
描かれている王が支配者 1 なのか支配者 2 なのかわかりませんが、支配者 1 とするのが素直な見方でしょうか。
(Estela 6 de Piedras Negras 687AD)
支配者 2 の跡を継いだ
支配者 3 (キニチ・ヨナル・アーク二世、687-729AD)
は引き続き ホトゥーン毎にアクロポリスの建造物 J-4 の前に石碑を建立していき、
プロスコリアコフが書き残したアクロポリスのスケッチ(下の画像)の右端に J-4 と 8本の石碑が描かれています。
8本の石碑は発見当時の写真やその模写は残されますが、60年代の盗掘の為に散逸してしまい、
30年代に遺跡から回収されたこの石碑 6 だけここ国立博物館に展示されます。
石碑 6 は即位から数カ月を経た 9.12.15.0.0 (687AD) に建立されたヨナル・アーク二世の最初の石碑になり、
ニッチ・シーンと通称されるピエドラス・ネグラス独特の様式で作られています。 中央の窪み(ニッチ)に正面を向いた王が深浮き彫りされ、
周囲は碑文と図像が浅浮き彫りされ、窪みの下にある縦長の帯にはジャガーの足跡が玉座に向かって刻まれていて、
即位儀礼の場面と考えられるようです。
ニッチ・シーンの石碑は他にも支配者 1 の石碑 25(608AD)、支配者 4 の石碑 11(731AD)、支配者 5 の石碑 14(761AD)があり、
調べてみるとこの石碑 6 と同様に全て即位後最初のホトゥーン (4分の 1 カトゥン)を迎えた際の石碑で、その後の石碑にはニッチ・シーンの様式は
用いられない事から、ニッチ・シーンは即位儀礼を表す為の特別な様式だったと言えそうです。
(実は上述の石碑 33 は支配者 2 の即位後最初のホトゥーンの石碑でしたが、即位直後だったからか、即位時 12才と若年だったからか、
母親と一緒に?肖像が彫られ、ニッチ・シーンの様式ではありません。)
写真は
FAMSI の研究論文 p.156 から お借りしました。
(Panel 15 de Piedras Negras 706AD)
この石板 15 は唯一近年の発見になり、2000年の発掘調査で見つかって直ぐに首都の国立博物館へ移されました。
遺跡には現在その複製が飾られています。 碑文には支配者 3 が ホトゥーン終了を祝った日付 (9.13.15.0.0 706AD) があり、
これが奉納日になるでしょうか。 (博物館の表示は 785年になっていますが、時代が違います、これまた誤記。)
碑文解読は風化の為に不完全ですが、支配者 2 の生誕、即位と逝去した日付が数々の戦勝の記録と共に書き残され、
石板 4 と同様に先代王を讃える為に作られ、建造物 R-4 に設置されたもののようです。
図像は戦いの装束を着けた王が左右の戦士から捕虜を引き渡される場面が描かれていますが、
648年、664年、668年の戦いの日付は読めるものの相手は何処で捕虜は誰なのかは読み解かれていません。
(Estela 40 de Piedras Negras 746AD)
次の
支配者 4 (在位729-757AD) はアクロポリスの建造物 R-3 の前に石碑を建てており、
これは 9.15.15.0.0 (746AD)に捧げられた石碑 40 です。 図像は前年に行われた祭礼の様子で、
支配者 4 が跪き 下にある石棺の中に右手で香をばら撒いている様子とされ、マヤでは珍しい独特の構図です。
石棺の中は右を向いた母親と思われる上半身像が描かれ、支配者 4 は支配者 3 の子供ではない為、母系相続が暗示されるようです。
(Estela 13 de Piedras Negras 771AD)
これは支配者 4 の次の次の王、
支配者 6 (ハ・キン・ショーク 767-780AD)
が 9.17.0.0.0 (771AD) のカトゥンを祝って奉じた石碑 13 です。 支配者 5 と 6 は兄弟だったと考えられ、
両王とも短い統治期間ですが、父王の 支配者 4 の墓所と思われる建造物 O-13 に石碑を並べていき、この石碑 13 は O-13 前の
広場西側から 30年代に回収されています。 広場東側から同時に回収された支配者 5 の石碑 14 (761AD)
はニッチ・シーンの様式で、現在はペンシルバニア大学博物館に展示されます。 石碑 13 も支配者 6 の即位後最初の石碑ですが、
どういう訳かニッチ・シーンの様式になっていません。
支配者 6 の時代も周辺の勢力との抗争は続いていましたが、石碑の図像は即位でも戦争でもなく、何かの儀礼の場面が描かれているようで、
王は大きな被り物を付けて着飾り、右手から種か香のようなものを撒いている様子が刻まれます。
(Estela 15 de Piedras Negras 785AD)
支配者 6 の跡を継いだ
支配者 7 (キニチ・ヤク 781-808AD)
は支配者 4 と 5 が石碑を並べた建造物 O-13 の基壇上にこの石碑 15 を奉じます。 即位後最初の石碑ですがニッチ・シーンではなく、
立体的に王の肖像が彫られ、これ迄にない新しい表現方法で作られています。 写真2枚は同じ石碑 15 を正面と斜めから撮ったもので、
顔が崩れて表情がわからないのが残念ですが、写実的な王の立像が見てとれます。
碑文には王の即位日と 9.17.15.0.0 (785AD)の石碑の奉納日が刻まれるようです。
(Trono 1 de Piedras Negras 785AD)
支配者 7 はピエドラス・ネグラスの最後の王になりますが、石碑 15 から この玉座1を含めて石碑 12 まで、石造物 5点が
この王の時代になります。
玉座は 30年代にアクロポリスの建造物 J-6 で発見された時はバラバラに壊されていたそうですが、復元し補修を加えて
現在見る姿になりました。 それにしてもこの玉座、何とも息を呑むような見事さです。 J-6 はアクロポリスの中庭 1 を見下ろす所にあり、
支配者 7 はこの玉座に座り中庭で執り行われる行事や祭礼を差配していたのでしょう。
玉座の背もたれは下顎のない山の怪物の仮面で、目の窪みの部分から支配者7の両親と思われる祖先が顔を覗かせ向かい合って会話しています。
碑文には前王の時代の出来事や、母親の名と自らの出生、即位が刻まれ、上の石碑 15 と同時期の 9.17.15.0.0 (785年)
のカトゥンの日付も残され、およそこの頃にに製作されたようです。
彫刻の質の高さも然ること乍ら、玉座に赤、緑、青、黄の当時の彩色が一部残るのも凄いです。
(Dintel 3 de Piedras Negras, original y réplica 782-795AD)
もうひとつ支配者 7 によるマヤ芸術の傑作とされる石板 3 が残されます。
博物館の説明パネルには 9.15.18.3.13 (749AD) とありますが これは作られた年代ではなく、749年に行われた
父王 支配者 4 の即位 20年の記念行事の模様を描いているいう事で、実際の製作年は 782-795年頃と考えられます。
描かれている 15名の姿は意図的に壊されているようですが、碑文はかなりの部分が解読可能な状態で残されており、
登場人物が誰なのか解明されています。 玉座に座るのは支配者 4、右側に高位の貴族二人に伴われた幼い王子は、一人は後の支配者 7、
もう一人はラ・マールの王子で、支配者 4 の左で敬服の姿勢をとっている三人の虜囚の貴族は右端はヤシチランの王 ヨアート・バラム二世、
更に玉座の下に座り会話するのは7人の参謀たち、と言う事になるようです。
ヤシチランを支配していた支配者 4 の時代の場面に支配者 7 が自らを描かせ、
ピエドラス・ネグラスの優越性を示して自らの王権の正当化を計ったとも考えられます。
碑文は757年の父王の死とそれに続く建造物 O-13 への埋葬、そして782年の再埋葬の儀礼と史実が綴られているそうで、
この石板自体は O-13 ピラミッドの階段に設置されていたと推測されます。
上の写真は博物館の実物を撮ったもの、下は複製の写真です。 この複製はメキシコ滞在中に入手したもので、実物では失われた部分も復元されており
石板の説明を理解するのに参考になりました。 この複製は興味本位の単なる土産物ではなく、考古学的な裏付けがあって学術的な価値もありそうです。
(Soportes de Altar 4 790AD)
石碑ではありませんが、写真の石造彫刻3点も併せて展示されています。 祭壇 4 を四隅で支えた脚で、写真上段は左から、脚 1、2、3 になり、
残るひとつはペンシルバニア大学博物館にあります。 祭壇の方は東のグループの広場で下段の写真のように苔生しています。
脚の彫刻は神話上のコンゴウインコを表しているとされ、写真中段に見える側面にはウィッツ・モンスターを示すブドウの房模様も描かれます。
9.18.0.0.0 (790AD)の日付が刻まれていることから、18カトゥンの切れ目には石碑ではなくこの祭壇が残されたようで、
肝心の祭壇の方が解読不能なのは残念です。
(Estela 12 de Piedras Negras 795AD)
781年に即位した支配者 7 は 9.18.5.0.0 (795AD) に O-13 の基壇上に石碑 12 を建立しており、これが支配者 7 の、
そしてピエドラス・ネグラス王朝の最後の石碑になります。
おそらくマヤで最も洗練された石碑で、写実的なスケッチと精緻な彫刻技術により玉座 1 と並んでマヤ彫刻の最高傑作と言える完成度だと思います。
石碑上段で玉座に座った支配者 7 は 顔が摩耗していますが豪華な被り物や胸飾りで着飾って描かれます。 中段には向かい合った 2人の戦士の間で
坐して恭順の姿勢を取る敵将、更に下段には様々な姿勢を取った 8人の捕虜の一団が刻まれます。
古典期後期の後半になるこの時代は戦乱が絶えず、碑文にはウシュマシンタ川下流の
ポモナ との 792年と 794年の戦争が記録され、
石碑の敵将はAh Hanab Cuhin Tz'am Sotz と名前が刻まれており、捕らえられたポモナの王と考えられるようです。
下の捕虜の一団も体に名前が彫られているので、名のある貴族になるようです。
ポモナはこの戦闘の後 衰退に向かいますが、ピエドラス・ネグラスもその後 808年には宿敵のヤシチランに支配者 7 が捕らわれた事が
ヤシチランの石板 10 に記録されます。 遺跡の発掘ではあちこちに火災の跡が認められたとの事ですから、
最後はピエドラス・ネグラス王朝はヤシチランに蹂躙されて終焉を迎えたようです。
ヤシチラン も残された数多くの石造物が有名で、プロスコリアコフ女史はピエドラス・ネグラスとヤシチランの碑文の対比で、解読を進めていき
ました。 碑文は風化して崩れた文字が多いので全部が解読される訳ではありませんが、戦いの相手は周辺の小国から、パレンケやトニナ、
あるいはドス・ピラス、更には2大パワーのティカルやカラクムルの姿も見え隠れし、碑文の解明からはこうした古典期の絶え間ない戦闘の
様子が浮かび上がってくるようです。 (碑文から見えてきたドス・ピラスとヤシチランの抗争の歴史は
マヤの戦争2 として別途まとめてあります。 また
ピエドラス・ネグラ遺跡 の現状も別ページでまとめてあります。)
DOS PILAS ドス・ピラス
盗掘者の手にかかって細切れにされた 2本の石碑が修復されて展示されています。
カラクムル、ティカルの二大勢力が対立する構図の中で重要な役割を果たしたドス・ピラスからの石碑です。
一見して王の肖像が大きく彫られた素晴らしい石碑なんですが、横から見ると盗掘の跡が歴然…、
薄く剥ぎ取られた表面が台座に貼り付けられています。
(Estela 9 de Dos Pilas 682AD)
(Estela 11 de Dos Pilas 716AD)
ペテシュバトゥン地域にあるドス・ピラス遺跡は道路が整備されておらず、泥濘んだジャングルの小道を馬に乗っても 3時間位かかる秘境になり、
歴史的に貴重な石碑も盗掘者にとっては格好の獲物になります。
ドス・ピラスの発見は 1960年頃に遡り、石碑 9 は 1971年に盗掘されますが、細切れにされて持ち出される直前に押収されたそうです。
石碑 11 の方は特に鋸で真横に切られた跡がありありと残り、切断箇所を繋いで台座の上に修復されても、石碑側面に彫られていた碑文は
もはやありません。
石碑 9 はドス・ピラス王朝を創設した初代バラフ・チャン・カウィール(在位648-692AD) による 9.12.10.0.0 (682AD) の石碑で、
王の足下にあった捕虜の姿は取り戻せなかったようですが、左上の 3文字と右下の 6文字で、王の名前と石碑の奉納年は確認出来るそうです。
側面には捕虜の出自等も記されていたでしょうか。 王が持つ丸い盾にはティカル王の称号が刻まれ、自らがティカル王朝の正当な王である事を
主張していたようです。
石碑 11 は2代目王 イツァムナーフ・カウィール(698-726AD)の石碑ですが、碑文の刻まれた上部と王の足が掘られた下部が行方不明です。
石碑は中央グループの西に位置するエル・ドゥエンデから発見されたもので、
調べてみると
欠けた部分を含む全体の模写 が UNAM の論文のPDF資料 67ページで見つかりました。
模写をキャプチャーしたもの を見ると失われた上部に文字が 12文字分刻まれていて、
王の名前と 9.14.5.0.0 (716AD) のホトゥーンを祝って 次の王となる弟と共に中央広場で香を焚いて踊りを奉納する儀礼を行った事が
記されるようです。
石碑 9 も 11 も遺跡に残して置いたら風化してしまい、博物館で保存される事で現在目にする状態に保たれている訳ですが、
盗掘者の手で破壊されて碑文が読めなくなってしまい、何とも残念な限りです。
(Panel 19 de Dos Pilas, Bodega de MNAE)
博物館の倉庫にはドス・ピラスからの石版 19 もあり、
2014年にメキシコで開かれたマヤ展 に貸し出されていました。
支配者 3 が妻のカンクエン妃と共に、幼少の息子、次王となる科ウィール・チャン・キニチの放血儀礼を見守る様子が表されているそうですが、
将来石碑コーナーに並べられるのでしょうか。
ドス・ピラス遺跡とその歴史は
ドス・ピラスのページで。
NARANJO ナランホ
20世紀初頭に発見されたナランホはヤシャー・ナクーム・ナランホ国立公園の東端にあり、
古典期におけるマヤセンター間の争いでも頻繁に名前の出てくる主要なセンターのひとつで、これまで 46本の石碑が確認されています。
ピエドラス・ネグラスやドス・ピラスと同様に アクセスの悪い奥地にある為 60年代以降徹底的な盗掘に遭い、
細切れにされた後に修復された石碑や 辛うじて盗掘を免れて回収された石碑が石碑コーナーに集められています。
盗掘前の模写も手掛かりにナランホの歴史解明が進められますが、残された石碑は貴重です。
(Estela 24 de Naranjo 702AD)
546年にカーン王朝の後見のもと即位したナランホ王アル・フォサルは長命で 615年の石碑迄確認されますが、
その後ナランホは暗黒時代に入ったようです。 ティカルの巻き返しがあったと想像されますが、
682年にカラクムル配下のドス・ピラスのバラフ・チャン・カウィール王の娘、
6の空(Señora Seis Cielo) が嫁いで ナランホの再興が計られ、石碑 24 にはその 「6の空」 の姿が刻まれます。
足元で踏みつけられている捕虜は キニチ・カブと名前が彫られ、「6の空」 は正式には即位していなかったと思われますが、
戦争の場でも積極的な役割を果たしていたのかもしれません。
碑文からは 9.12.10.5.12 (682AD) の「6の空」 のナランホへの到着日、 9.13.7.3.8 (699AD) の儀礼、及び
9.13.10.0.0 (702AD) の石碑の奉納が読み取れるようで、博物館の説明文では 699年となっていますが、
正しくは下の石碑 22 と同時に 702年に作られたものと思います。
もともと東のグループの建造物 C-7 の前にあった石碑 24 は 60年代に盗掘に遭ってバラバラにされ、
後にマイアミの博物館で修復されています。
(Estela 22 de Naranjo 702AD)
石碑 22 は建造物 C-7 と向かい合った C-6 の前に建てられていたもので、1971年に盗掘を免れて正規に持ち出された為、
側面の碑文を含めて完全な形で残されます。 「6の空」 はナランホで男児を儲け、碑文にはカック・ティリウ・チャン・チャークの出生
9.12.15.13.7 (688AD) と 即位 9.13.1.3.19 (693AD) の日付が刻まれます。
石碑の奉納日は 9.13.10.0.0 (702AD) で、この間戦争が続き碑文には数々の戦勝記録が記され、石碑で玉座に座った王の左下に
両腕を縛られたウカナルの貴族が表されます。 王は若年でしたから、母親が院政を敷いたようです。
(Estela 30 de Naranjo 714AD)
石碑 30 は 2010年に展示されていましたが、2015年以降常設展示になっていません。
建造物 C-9 の前に建てられていた石碑は 1966年に盗掘され 2年後にはヒューストンの税関で押収されたそうで、
最近になって 43 の破片になっていたものが修復されています。
残された文字部分が少ない為かあまり詳しい解説が見当たりません。
王はカック・ティリウで、踏みつけられているのはウカナルの王になるようで、説明板には 714年と書かれていました。
(Estela 2 de Naranjo 716AD)
これはアクロポリス北西の建造物 A-15 に置かれていた石碑 2 です。 60年代に盗掘者の手で壊されますが未遂に終わったようで、
1971年に遺跡から回収されています。 然し側面の傷みが激しく解読を難しくしているようです。
碑文は 9.14.0.0.0 (711AD) の 14カトゥンの儀礼から始まり、ウカナルへの攻撃や、即位から 1 カトゥンが経過した事等が記され、
描かれているのは 25才になった王の姿で、9.14.5.0.0 (716AD) のホトゥーンを祝った石碑になるようです。
カラクムルは 695年にティカルに決定的な敗北を喫しますが、ナランホはその後も一定の勢力を保持したようです。
(Estela 33 de Naranjo 780AD)
カック・ティリュウ王の後、カラクムルの後ろ盾を失ったナランホは勢力を盛り返してきたティカルに敗れて低迷期を迎えますが、
息子のカック・ウラカウ・チャン・チャーク (在位 755-780-AD)とその息子イツァムナーフ・カウィール(在位 784-810-AD)
の頃にはまたナランホは復興したようで、ヤシャー始め周辺の勢力と争いが続き、石碑の奉納も再開されます。
カック・ウラカウ王の石碑 33 が展示されて、これは 780年のハーフカトゥン 9.17.10.0.0.を祝ったもので、
中央広場の天文複合 B-20 の前にありましたが 1971年に遺跡から回収されています。
彫りが浅く細長い石碑で盗掘者には魅力がなかったのでしょうか。
(Estela 8 de Naranjo 800AD)
ナランホ王朝で最後から二番目の王になるイツァムナーフ・カウィールの石碑 8 が 2018年に新たに展示されていました。
もともと中央広場北側の建造物 B-4前にあったものが 1966年にアメリカに密輸されてセント・ルイスの博物館の収蔵品になっていましたが、
返還交渉の末に 2015年に返還されたもので、新たな収蔵品として展示に至ったようです。
盗掘時に石碑を薄くするために背面の文字は失われてしまったようで、碑文の詳細はわかりませんが、王名の他に 9.18.9.14.3
(800AD) の日付があり、9.18.10.0.0 を記念した石碑だったでしょうか。
ナランホでは 2000年に入ってからも武装した盗掘団に調査隊のキャンプが焼かれたりして、軍とのイタチごっこが続いたようです。
2002年以降ナランホのプロジェクトが始まって遺跡の修復が進められますが、修復作業は盗掘坑の埋め戻しから始まり、
建造物の修復保善はまだ中心部に限られます。 勿論遺跡にはまともな石碑は 1本も残されず、
ナランホの石碑を見るならまずここ国立博物館と言う事になります、他にメルチョール・デ・メンコスの中央公園にも何本かあるようですが。
ナランホ遺跡の現状 はこちらから。
TAMARINDITO タマリンディート
(Estela 3 de Tamarindito)
ペテシュバトゥン地区にあってドス・ピラスによる戦乱の渦に巻き込まれたタマリンディートからの石碑も1本展示されています。
650年頃のドス・ピラス王朝建設以前、ペテシュバトゥン地域にはタマリンディーと
アロヨ・デ・ピエドラ が古典期前期から繁栄していましたが、共にドス・ピラスに征服されて支配下に置かれます。
然しドス・ピラスの勢いが弱まると 761年には逆にドス・ピラスを破り
アグアテカ へと追いやったようです。
石碑 3 について博物館の説明書きは、石碑名、出所と古典期後期(600-900AD)だけなので、少し調べてみましたが、
兄弟都市のアロヨ・デ・ピエドラの石碑 2 (731AD) とおよそ同時代になるようで、ドス・ピラス支配下のものになるでしょうか? 詳細不明です。
IXTUTZ イシュトゥツ
(Estela 4 de Ixtutz 780AD)
761年にドス・ピラスが衰退するとそれまでドス・ピラスの支配下にあった周辺の小国が自立して自ら石碑の建立を始めます。
ドローレスに近いイシュトゥツの石碑 4 は 12 Ahau 8 Pax のカレンダーラウンドから始り 14文字の碑文のみの石碑で、
日付けは 9.17.10.0.0 (780AD) になり、イシュトゥツの紋章文字や王の名前と儀礼が刻まれます。
博物館の説明文では祝典にはティカル王とキリグアから 28名の参列者があった旨書かれていますが、
これは正確を欠く解釈で、ティカルの紋章文字はドス・ピラス、アグアテカ他でも使われていて、
ここで言うティカル王はアグアテカのタン・テ・キニチ王で、イシュトゥツはアグアテカに従属していたと言う事になりそうです。
何でキリグアが出てくるのか、博物館の説明文は残念ながら疑ってかかる必要があります。 9.17.10.0.0 ではなく 9.17.0.0.0 と書かれているし…。
LA AMELIA ラ・アメリア
(Panel 1 de La Amelia 804AD ?)
ドス・ピラスの北西にあったラ・アメリアからもこの時代の石造物が展示されています。 石碑 1 と表示されていますが、
捕虜が刻まれた階段の手すり部分に嵌め込まれていた2枚の石板のうちのひとつで、パネル 1 と呼ばれるようです。
パネルには球戯を行うラ・アメリアの王 ラチャン・カウィール・アハウ・ボット王の姿が刻まれ、王は 760年に生まれて 802年に即位し、
アグアテカのタン・テ・キニチ王に従属していた事などが読み解かれているようで、ドス・ピラス配下にあったラ・アメリアは
ドス・ピラスが衰退した後引き続きアグアテカの下に王朝を継続させていたようです。
1965年に盗掘されて王の足元と下のジャガーの部分が切り離されて流出しますが、1995年にスウェーデンの博物館から返却を受けているそうです。
MACHAQUILÁ マチャキラ
古典期ペテシュバトゥン地域の動乱で常に揺り動かされてきたマチャキラ、9世紀前半の石碑4本の展示があります。
ドス・ピラスに居を構えたバラフ・チャン・カウィールはティカルと戦いを続ける傍ら、東方へも勢力を拡大し、664年にマチャキラの
タハル・モ王を捕獲したとされ、その後マチャキラは本拠地の移転を余儀なくされたようです。 現在のマチャキラ遺跡に残された最も古い石碑は
シャフ・キン・チャーク王による 711年の石碑 13 で、この頃までにマチャキラは現在の場所に移り、次のエツナブ・チャーク王は 761年の
石碑 12 まで3本の石碑を残しています。
然しその後のマチャキラ王はカンクエンのマーカーに捕虜として刻まれていて、マチャキラは再び支配を受ける立場に置かれたようですが、
カンクエンがアグアテカと共に衰退の道を辿ると、マチャキラはまた独立した地位を回復したようで、800年を過ぎるとアー・ホ・バーク王による
石碑 2 が建てられ、マチャキラは古典期終末期の主要なマヤ遺跡のひとつとして石碑を後世に残していく事になります。
(Estela 2 de Machaquilá 801AD, Ochk'in Kaloomte' Aj Ho' Baak)
まずカンクエンの支配を排して最初に建てられた 石碑 2 です。 1961年に発見された当時は背面には風化していたものの 54文字、更に側面にも
18文字の碑文が確認されましたが、その後盗掘者の手にかかり 1971年にアメリカで 35万ドルで売りに出されていたそうです。
無事に取り戻して修復されましたが、表面を剥いで細切れにして持ち出された為、側面の碑文も写真に見る通り既に失われています。
石碑正面にはカウィール神の笏を持ち着飾った王の肖像と共に 16文字の碑文が残され、暦は長期歴ではなくカレンダー・ラウンドの
12 Chikchan 13 Kumku が刻まれ、オチキン・カロームテ・アー・ホ・バーク王が9.18.10.7.5 の 12 Chikchan 13 Kumku (801AD)
にハーフ・カトゥンを記念して建てた石碑と読み解かれます、7ヵ月(20日換算で)と 5日既に過ぎていますが。
(Estela 3 de Machaquilá 816AD, Siyaj K'in Chaak II)
アー・ホ・バーク王のその後の石碑はなく、815年に即位したシャフ・キン・チャーク II 王の石碑 3 が次の石碑になります。
実はこの石碑は 2015年迄は展示されておらず、その後定位置を与えられて展示が始ったようですが、
2018年には海外の展示会に貸し出し中の札が有り不在、でも 2014年のメキシコでのマヤ展で写真を撮っていました。
写真はその時のもので、展示会から戻ったら石碑コーナーに展示場所が確保されています。
この石碑の後、次の王の時代を含めて 840年まで5年毎のホトゥーン(ho'tuun、4分の1カトゥン)に欠かさず石碑が建立され、
王はカロームテ(神聖王)を名乗ってマチャキラは安定期に入りますが、石碑は正面の図像と短い碑文だけで石碑 2 と比べると簡素になります。
石碑 3 は上部に 8 Imix 14 Sotz’(9.18.10.7.7 815AD) と王の即位日が、1 Ajaw 13 Kumk'u (9.19.5.11.0 816AD) の石碑の奉納日と共に
記され、盗掘の跡は見えず綺麗な状態です。
(Estela 4 de Machaquilá 820AD)
石碑 4 はシャフ・キン・チャーク II が次のホトゥーンに建立したもので、3つの断片を修復した跡が見えますが、
1962年に発見された時に既に3つに割れていたそうです。 正面を下にして倒れていた為に盗掘されず図像と碑文の風化も免れたようです。
Ajaw 8 Xul (9.19.10.0.0 820AD)のカトゥンの切れ目を儀礼を執り行う王が彫られ、12 ウィナル後の 1 Ajaw 8 Kumk'u (9.19.10.12.0 820AD)
に石碑の奉納が行われた事が刻まれます。
(Estela 7 de Machaquilá 830AD)
石碑 7 は石碑 4 同様に3つに割れていたそうですが、綺麗に修復されて殆ど繋ぎ目が見えません。
シャフ・キン・チャーク II を継いで 824年に即位した フーン・ツァク・トーク王は引き続き 840年までに5年毎のホトゥーンの石碑を4本奉納し続け、
石碑 7 はその 2本目の石碑で 830年の 10 バクトゥンを記念したものになります。
短めの碑文は 10 バクトゥン (10.0.0.0.0) に当たる 7 Ajaw 18 Sip から 13ヶ月(ウィナル)経過して、
10.0.0.13.0 7 Ajaw 18 Pax に石碑が奉納されたことが刻まれているようです。
フーン・ツァク・トーク王はその後 石碑 6 (836AD)、石碑 5 (840AD) を残します。 マヤ古典期の石碑文化を古典期終末期まで継承したマチャキラ
でしたが、石碑 5 を最後に文字記録は途絶えたようです。
UCANAL ウカナル
(Estela 4 de Ucanal 849AD) (Altar 1 de Ucanal)
ウカナルからの石碑 4 と祭壇 1 が展示されます。 石碑 1 はふたつに割れていましたが、1972年に博物館に収容されて
比較的良い状態を保っています。 祭壇 1 は石碑 4 ではなく石碑 3 と対になる祭壇だったようです。
ペテン州東部でベリーズ国境に近いウカナルは先古典期から繁栄し、古典期前期にはティカルの勢力圏にあったようですが、
古典期後期になると戦乱に巻き込まれてカラクムル陣営のナランホの石碑にウカナルの貴族が捕虜して刻まれます(上既のナランホの
石碑 22 と 30)。 800年頃になるとベリーズのカラコルの祭壇 23 に捕虜として、また祭壇 12 には従属王として刻まれますが、
この石碑 4 では 9世紀中盤になりやっと自らの石碑を建立する立場を獲得した事がわかります。
碑文の日付けは 5 Ajaw 3 K'ayab で 10.1.0.0.0 (849AD) と 10バクトゥンから 1カトゥン過ぎての石碑になり、
暦の切れ目にウカナルの王が香を焚いて儀礼を行う様子が刻まれるようですが、残念ながらウカナル王と足下の捕虜の名前は読み取れないようです。
IXLU イシュル
(Estela 1 de Ixlu 859AD)
695年にカラクムルを破り繁栄を取り戻しティカルも 800年頃になると衰退期に入ったのか石碑に刻まれた文字記録は希薄になり、
逆にそれまでティカルに従属していたと思われる周辺の小国が自立して石碑が建てるケースが見られるようになります。
ティカル遺跡南 30Km のペテン・イッツァ湖東岸に位置する
イシュル遺跡
もこうした例になり、4 Ajaw 13 K'ank'in (10.1.10.0.0 859AD) のカレンダー・ラウンドが刻まれたイシュルの石碑 1
にはイシュル王自らカトゥンの切れ目の儀礼を執り行う様子が刻まれます。
JIMBAL ヒンバル
(Estela 1 de Jimbal 879AD)
ティカルの北 13Km とイシュル遺跡より更にティカルに近いヒンバル遺跡でも独自の石碑が作られます。 その石碑 1 は
2 Ajaw 13 Ch'en (10.2.10.0.0 879AD) とイシュルより更に 1 カトゥン(20年)新しいものになり、
様式はよく似ていて、図像、文字などメキシコ中央高原の影響が見て取れます。
マヤ古典期後期の石碑文化は大半が 9バクトゥン( 9.0.0.0.0. 435AD - 9.19.0.0.0. 810AD)ですが、10 バクトゥン(10.0.0.0.0)
に近づく頃から暦は長期歴ではなく簡易なカレンダー・ラウンドが用いられ、石碑自体の造りも粗雑なものになり、
石碑文化の終焉を迎えつつあったようです。
CEIBAL セイバル
石碑コーナーの石造物を古い順に紹介してきましたが、最後に残ったマヤの石碑はセイバル遺跡からの石碑 3 です。
セイバル遺跡は紀元前 900年頃の先古典期中期に遡るマヤ創成期からの遺跡ですが、古典期に入る頃一度街は放棄されています。
しかし古典期後期に入りティカルが暗黒時代を迎える頃にセイバルは復興し、ペテシュバトゥン地域の騒乱に巻き込まれて、
古典期終末期を迎える事になります。
(Estela 3 de Ceibal 874AD ?)
735年にセイバルはドス・ピラスに征服されセイバル王はドス・ピラスの石碑に捕虜として刻まれ
ドス・ピラスの支配下に置かれますが、ドス・ピラスが 761年に衰退の道を辿ると再び独立した地位を回復します。
パシオン川沿いという交易に適した立地を生かしてセイバルはマヤ古典期終末期に地域の中心的なセンターとなって、
マヤの石碑文化の最後に最も多くの石碑を残します。
830年に即位した ワトゥル・チャテル王が 10.1.0.0.0 のカトゥン(849AD)を祝って
建造物 A-3 と石碑 5本を奉納した 事が知られ、この 5本を含めて9世紀後半の石碑が 17本あり、
大半は風化は進んでいますが現在も現地に残され、この石碑 3 だけ博物館へ移されました。
17本の石碑は絵柄や文字、石碑の形状等 それまでのマヤの石碑と異なる点が多く、
この石碑 3 では上段にメキシコ風の文字と雨の神の仮面を被った人物が表され、中段の洞窟の入り口に立つ人物は 布を巻いた頭や鼻飾り・装身具など
これまでのマヤの風俗と異なり、下段で会話する右側の人物は風の神の仮面を被るなど、
石碑全体から明らかに異民族の影響が窺われます。
石碑 3 は正確な奉納年はわかりませんが、およそ 874年から 889年頃に作られた考えられ、
こうしてマヤ最晩期の石碑には異文化の痕跡が残されて、マヤの石碑文化はその幕を閉じていきます。
ペテン地方での 10バクトゥン(10.0.0.0.0) を過ぎてからの石碑をわかる範囲でホトゥーン毎に拾ってみました。
10.0.0.0.0 830AD Machaquilá Estela 7
10.0.5.0.0 835AD Machaquilá Estela 6
10.0.10.0.0 840AD Machaquilá Estela 5
10.1.0.0.0 849AD Ucanal Estela 4, Ceibal Estelas 8, 9, 10, 11, 21
10.1.10.0.0 859AD Ixlu Estela 1
10.2.0.0.0 869AD Tikal Estela 11, Ceibal Estelas 1, 17
10.2.10.0.0 879AD Jimbal Estela 1
10.3.0.0.0 889AD Uaxactun Estela 12, Ceibal Estelas (3, 18, 19), 20
10バクトゥンを過ぎると古典期の主要なマヤ遺跡は殆ど姿を消し、石碑文化は南部のマチャキラからウカナル そしてセイバルと移っていき、
中部地域ではティカルやウアシャクトゥン そしてその周辺で細々と石碑が作られ続けた事がわかりますが、900年に入る頃には
強力な王権の下に王の姿や事績を刻んだ古典期マヤの石碑文化は終わりを告げます。
(メキシコではチアパス州トニナ遺跡のモニュメント 101 に 10.4.0.0.0 909AD の長期暦が刻まれていて、これが最後の石造物になります。)
CULTURA COTZUMALGUAPA コツマルグアパ文明
古典期にペテン地方を中心にマヤの石碑文化が開花する一方、グアテマラ南部地域では独特なコツマルグアパの文化が興隆します。
死の神や髑髏に骸骨などのグロテスクなモティーフが多く、およそマヤとは異なる文化です。 暦はメキシコ風のものが使われ、
数字は丸を幾つも並べて表されて、メキシコ方面の文化を持った民族によるものとも言われますが、詳細は不明です。
博物館の石碑コーナーにはこのコツマルグアパ文化のものも多く展示されていますが、石造物から読み取れる史実は限られており、
時代考察も碑文ではなく考古学によるところが多く、以下詳細説明は省いて写真と出所のみ紹介しておきます。
(Espiga Antropomorfa, Santa Lucía Cotzumalguapa, Esquintla)
顔が髑髏になった典型的なコツマルグアパ様式の建物飾り。
コツマルグアパの中心地
エル・バウル 及び
ビルバオ の詳細と石造物は夫々の遺跡のページを参照ください。
(Estela 1, 2 y 3 de Palo Verde)
石碑上部の円形の文字でそれぞれの人物の暦の名前が記され、石碑 1 は 6の蛇の目が ’被り物’ を、石碑 2 は 8の鹿が ’トカゲ’ を、石碑 3 は
9のウサギが ’子供か人形’ を、それぞれ空に掲げていると説明されます。
コツマルグアパ文化の遺跡の地図はここをクリック。
以下その他のコツマルグアパ様式の石造物です。
(Monumento 24, Palo Gordo, Sacatepéquez) (Monumento 9, Palo Gordo)
(Espiga Antropomorfa, Palo Gordo)
(Monumento 9, La Nueva, Jutiapa) (Escultura, La Nueva, Jutiapa)
(Escultura Zoomorfa, Pasaco, Jutiapa) (Espiga Antropomorfa, Pompeya, Sacatepéquez)
(Escultura Antropomorfa, Costa Sur) (Escultura Antropomorfa, El Obrero, Escuintla)
(Espiga Zoomorfa, Costa Sur)
(Espiga Antropomorfa, Costa Sur) (Espiga Zoomorfa, Costa Sur)
(Espiga Zoomorfa, Costa Sur)
以上、グアテマラ考古学民俗学博物館の石造物に絞って展示品をみてきました。 僻地の石碑を労せずして見る事が出来るだけでなく、
詳しく見ていくと夫々のマヤセンターの当時の様子や異なるマヤセンター間の歴史も明らかになり、古典期マヤ全体の歴史が浮かび上がって来ます。
マヤファンにとっては一見どころか何度でも繰り返し訪問したい博物館です。
大辞林によると博物館は 「資料を収集・展示して一般公衆の利用に供し、教養に資する事業を行うとともに資料に関する調査・研究を行う施設」
とありますが、ここでは展示・研究に加えて、風化、破壊、盗難などから身を守る避難所であり病院でもあった訳で、その役割は大きなものがあります。
石碑コーナー奥の
博物館の特別室 は別ページにまとめてあります。