(Entrada al sitio arqueológico de Kaminaljuyú)
まずカミナルフユ遺跡はどんなところか、行ってみます。 午前中ミスコ・ビエホに行った帰りで、何とか3時前に滑り込み。
小雨が降っていて、管理人以外無人の遺跡公園です。 写真左は入口の管理人詰め所、右の赤い小屋で入場料を支払います。
(Rótulos en el área de entrada)
遺跡に入って正面に看板が立っていますが、文化省の看板は KAMINAL JUYÚ、真ん中の大きな看板は Kaminaljuyú 。
カミナル ・ フユ なのか カミナルフユなのか。 死者の丘を意味し、キチェ語ですから、どちらでも良さそうですが、最近は
カミナルフユの方が一般的なようです。
(Hacia La Acrópolis)
遺跡は芝で綺麗に整備され、左手(北西)から右手(南東)に広がります。 管理員が「もう閉めるよ」と。 閉園は4時半の筈
ですが、誰もいないので早めに帰りたいのでしょうか? 左手のアクロポリスに急ぎます。
(Vista aérea por GOOGLE EARTH)
空から見た遺跡公園、小さな白い x 印が入口で、左手 北西方向の緑で囲まれた部分がアクロポリス、南東の外周道路に囲まれた
ところはパランガーナ(Palangana)になります。 GOOGLE EARTH の画像はクリックで大きくなります。
(Entrada a La Acrópolis)
ここがアクロポリスの入口。 と言ってもアクロポリスの壮麗な建造物群がある訳ではなく、発掘された遺構が屋根で覆われていて、
そこに入る入口です。 管理員が同行してきて鍵を開けてくれます。
(Estructuras excavadas)
中に入るとガイドブックなどで見慣れた光景が広がります。 幾つかの建造物が狭いところに入り組んでいて、発掘現場とはいえ
何がどうなっているのか。 調査によると数百年の間に建物が積み重ねられ、10mの深さに20層にもわたる建設の跡が認められる
そうで、露出している建造物も異なる時期のものが混在するとなると、何処がどうなのか正確に理解するのは難しそうです。
(Estructuras excavadas)
1枚上の写真を撮った場所から右手を見ると右の写真、通路面の上です。 少し進んで反対側 (入口から入って左側) を見ると
左の写真になります。
(Estructuras excavadas)
真っ直ぐ奥へ進みます。 歩いて良いのは板を敷いた通路だけ、監視員の目が光ります。 アルファベットで建造物名が振られて
いますが、何だか複雑です。
(Estructura "K")
正面に建造物 Kの表示があり、突当って右を見ると建造物 Kが奥へ伸びています(写真右)。 ここは通路面の上ですから、掘り出された
通路下の建造物より新しい時代でしょうか?
(Estructura "K")
これは右上の写真の奥で、左の壁面は建造物 Kですが、正面にも階段があり、これは別の建造物でしょうか? そして右の壁は
また別の? 何だかよくわかりませんね。 せめて建造物名を記した平面図でもあると良いのですが。
(Estructura "K")
これも建造物 Kで、階段左側の壁の表面が崩れて軽石が露出しています。 土と砂に軽石を混ぜて壁が作られていたようです。
写真右で穴の先の明るくなったところからは奥の建造物のマヤアーチが顔を覗かせます。
(Estructura "F")
正面にあたる建造物 Fは床面上部(写真左)から掘り下げた床面下部(写真右)に繋がり、その壁面にはテオティウアカンの
タルー・タブレロ様式が認められます。 建造物 Fは更に下に繋がり(写真下左)建造物 Aの標示になりますが、どうして同じ
建造物の名前が変ってしまうのか?
(Estructura "E" y "G")
建造物 F-Aの左手前にマヤアーチを伴う建造物 E があり、右手前はタルー・タブレロ様式の建造物 G です(写真左)。
マヤとテオティウアカンが数メートルの間隔で向かい合っている! 古典期前期に建てられたタルー・タブレロの建造物 Gが、
古典期後期になりテオティウアカンの影響がなくなってマヤ様式の建造物 Eで覆われた、そんな印象を受けますが、
どうなんでしょう? 写真右は建造物 E のマヤアーチ。
(Estructura "E")
これは奥の方から入口方向を撮ったもので、右側に広がる壁面が建造物 E になります。 天井が三角形に尖ったマヤアーチがあり、
石の積み重ねではなく土で固めて造られています。
(Estructura "E")
建造物 Eのマヤアーチです。 このマヤアーチのある壁は建物の外壁なのか、それとも発掘の過程で露出した断面なのか?
(Estructura "G")
建造物 Gをタルー・タブレロ様式が判る様に撮ってみました。 タルー(斜面)とタブレロ(垂直パネル)の関係は、
斜面のタルーの部分が比較的大きいようです。
(Estilo Talud Tablero de Tikal y Teotihuacan)
ティカルとテオティウアカンのタルー・タブレロと比べてみます。 左がティカルで右がテオティウアカン。 本家の
テオティウアカン のタルーは比較的短いのに対して、
ティカルの方が長めでカミナルフユの形状に似ています。
カミナルフユがテオティウアカンに征服された、と言う説もありますが、タルー・タブレロ様式の違いを見る限り、この様式が
ティカル経由伝わった可能性だって否定できません。 テオティウアカン様式の土器等の遺物はティカルでもカミナルフユでも出土し、
交易を通じて古くから交流があったとも解釈出来そうです。
(Área de Juego de Pelota)
アクロポリスの入口を入って左の方の通路を行くと、左方向、屋根の向こうに緑が広がり、ここが球戯場だったそうです。
(Marcadores desde Kaminaljuyú / Teotihuacan / Tikal)
この球戯場からマーカー(写真左)が見つかっていて、国立考古学博物館に展示されています。 テオティウアカン(写真中央)とティカル
(写真右)でも類似したマーカーが見つかっていて、この三者がどういう繋がりだったのか、興味のあるところです。
(Área de excavación)
球戯場の見える通路から下を覗いてみると、かなり掘り下げられています。 何がどうなって、何時の時代なのか、皆目検討も
つきません。 カミナルフユについての詳しい本を探してみないといけませんね。
アクロポリスの見学はここまで。 次に南東側にあるパランガーナ(Palangana)へ行って見ます。
(Dibujo hipotético de área central)
推定復元イラストで位置関係を確認しておきます。
(このイラストはミラフローレス博物館にあったもので、この博物館については後述します。) アクロポリスの発掘現場は
球戯場(Juego de Pelota →)の横で、ここからラ・パランガーナは南東方向です。
(Dibujo hipotético de Kaminaljuyú)
カミナルフユ遺跡全体の推定復元イラストもありました。 ミラフローレス湖を取り巻く形で街が発展した
様子がわかります。 アクロポリスとラ・パランガーナは北端(楕円で示した部分)になり、ここから南へ数多くの建造物が
設けられていた訳ですが、現在では湖も消え完全に都市化の波に呑み込まれています。
(Vista aérea que corresponde al dibujo de arriba)
空から見たら一目瞭然。 矢印がカミナルフユの遺跡公園で、周りは住宅が密集し、遺跡の南に当たる所はミラフローレス地区と
なり大規模商業施設で占められます。
丸印はミラフローレス博物館で、ミラフローレス・ショッピング・センターの南西側に隣接していて、ショッピング・センターからも入れます。
2002年にオープンされ、カミナルフユからの出土物を中心にした展示があるので、遺跡を訪問したら是非寄って見たい博物館です。
裏庭に土塁がひとつ残され、博物館前には当時の水路が実物大に復元されています。
(Hacia La Palangana)
遺跡に戻り、南東のラ・パランガーナへ。 芝で整備された公園には所々木々で覆われた土塁が残されており、これは未発掘の
建造物です。
(Plataforma noroeste de La Palangana)
ラ・パランガーナに近づくと横長の土塁で視界が遮られます。 ラ・パランガーナは大きな矩形の構造物からなり、北西側の
横長の基壇を2枚の写真で合成したつもりでした。 でも実はこれは左半分だけ。 右のこんもりした小山が北西基壇の
中央に聳える建造物でした。
(Plaza de La Palangana)
北側の角から手前の矩形に入ります。 南東側の基壇に沿って大きな屋根が広がり、発掘後保存されている場所のようです。
(Área de excavación en La Palangana)
近づいてみるとこれ。 柱を立てて大量のトタン屋根を敷き詰めだけ。 かなりみすぼらしい感じで、遺跡にかける予算は極めて
少なそうです。
カミナルフユの発掘調査は 1945年頃から始まり、この時点では土に覆われた建造物跡は 228箇所も確認さています。 しかしながら
60年代から都市化が急速に進み、1983年には 60ヶ所までに減っていたそうです。
(Una estela en la plaza)
建造物は土で作られましたが、記念碑は石で作られ、1本だけ建造物跡の前に現地保存されています。 横に広がる帯の中に
ジャガーの顔のようなものが見え、イサパの様式に似ています。 現地で説明はありませんでしたが、多分先古典期のものだと思います。
(Área de excavación techada)
屋根の中の建造物跡を覗いて見ました。 薄暗く しかも金網越しの為 写真は撮り難かったのですが、どんな状況かは
わかりました。 ここでもタルー・タブレロ様式が認められるそうですが、写真では判然としません。 アクロポリス同様
ここも古典期前期以降の時代になります。
(Vista desde La Palangana hacia sureste)
南東側の基壇に登って更に南東側を見ると、もうひとつ小さめの矩形が続きます。 そしてその先はグアテマラ・シティーの住宅地。
(Vista desde La Palangana hacia La Acrópolis)
翻って北西方向を見ると ラ・パランガーナのマウンドの右奥に 最初に行ったアクロポリスが見えました。 画像をクリックしてみて
下さい、アクロポリスの部分を切り出してあります。
(Area protegida con tres estelas sobre la vía periférica)
遺跡公園は以上ですが、遺跡公園の外周道路沿いに石碑があると言う事で行ってみました。 ラ・パランガーナのおよそ
南方向で、左の写真に見えるように保護の為の屋根があり、3つの石造物が保存されていました。 右は首が失われた
バリゴン形式の石造物、モニュメント41。
(Monumentos 42 y 43)
屋根の下には小さな神殿のようなものの前に石造物が2つありました。 全て先古典期後期から原古典期にかけてのものとされます。
かなり風化していますが、どんな置かれ方をしていたかが窺えます。 左がモニュメント42、右がモニュメント43でした。
遺跡公園を訪問して目にする事が出来るのはおよそ以上なんですが…、掘り出されたテオティウアカン風の建造物や 一部の先古典期の
石造物はカミナルフユの一面に示すに過ぎません。 長い歴史を持つカミナルフユをもう少し掘り下げてみたい。 手掛かりは博物館です。
カミナルフユは遺跡公園を除き広範囲にわって乱開発され、多くの遺物が散逸してしまいました。 しかし大きな石造物や密売を免れたものは
博物館に集められていて、カミナルフユの素顔を垣間見る事ができます。 長くなりますが、博物館にあるカミナルフユからの出土物も
見ていきます。
(Rotulo de explicación sobre monumentos liticos de Kaminaljuyú)
これは遺跡公園でアクロポリスに向う途中にあった案内板で、3つの代表的な石造物が紹介されています。 でもこれは遺跡公園
にあるのではなく、すべて国立考古学民俗学博物館にあり、前の日に博物館を訪問しておいて正解でした。
(Estela 11)
これが前日に国立博物館で撮った案内板左にある石碑11、花崗岩に素晴らしい彫刻が施された 高さ 189cm の石碑で、先古典期後期 (250BC-250AD) に
遡り、遺跡公園の遺構からは想像できない当時のカミナルフユ人の顔がここにあります。 顔の部分を拡大したので、仮面を被っていますが、
目、鼻そして唇は判別できると思います。
遺跡の案内板では、立派な頭飾りをつけて着飾ったカミナルフユの支配者とだけ説明されていましたが、博物館にある説明文はもう少し詳しく、
イサパ 様式の流れを汲んで彫刻が3段に彫られ、
上段は天空の神、中段は球戯者の装いをした支配者が刻まれ、下段の幾何学模様の帯は地上を表わす、と説明されます。
腰から背に付けた衣装は球戯の際の防具(ユーゴ)のようで、球戯を行う支配者の像と言う事になるようです。
(Monumento 65)
案内板中央のモニュメント65。 高さ 290cm、幅 180cm と かなり大きめの祭壇で、玄武岩でできています。
1983年にアクロポリス南西 400m で発見されたそうで、右下が一部欠けていますが、三段に分けて彫刻が施されています。
各段共 同じモチーフで 玉座に座る貴族が左右に手を縛られた捕虜を伴います。 貴族は左向きで一様に左を指差しますが、被り物が
夫々異なり下に行くにつれ大きく表現されています。 貴族に跪く捕虜も被り物をつけており戦争で捉えられた敵側の貴族と考えられ、
カミナルフユの貴族がその権威を指し示す祭壇だったと考えられます。
(Escultura zoomorfa)
案内板右の石造物も国立博物館にあり、動物を模った彫刻と題されています。 長さ 135cm の水を溜める大型の水盤で、
水を司る神聖なカエルが彫刻されています。
これら3つの石造物は 200 BC - 200 AD 頃のものとされ、古典期前期以降となるアクロポリスより古いカミナルフユの文化を
現代に伝えてくれます。
博物館には他にも数多くのカミナルフユからの興味深い展示があり、以下画像を中心に紹介していきます。
(Estela 3 del Período Preclásico Medio)
これは石碑3で、時代は先古典期中期にあたる 700 - 500 BC 頃とされ、カミナルフユからの展示物では最も古いもののひとつだと思います。
彫られているのは魚でしょうか、シンプルですがなかなか力強いタッチです。 この時代は
オルメカ のラ・ベンタが栄えた時代で、サルバドルの
チャルチュアパ地区などと並んでティカルよりも早く栄えた
様子が窺われます。 (国立博物館)
(Estela 10)
石碑10。 石碑11と同じ地区からの出土で 200 BC - 50 AD とありました。 石碑11と同じく花崗岩に彫刻されたものと
思いますが、見事な彫刻です。 特筆すべきは、ここに4列にわたり細かく神聖文字が刻まれている点で、古いチョル語だそうです。 (国立博物館)
(Altar 1 desde Museo Miraflores)
祭壇 1。 ラ・パランガーナ地区で見つかったもので、紀元後 1 - 2 世紀にあたるようです。 右側が欠けていますが、中央に
当たる部分に神聖文字が2列並び、これもチョル語との事。 (ミラフローレス博物館)
(Estela 23 desde Museo Miraflores)
石碑21。 断片ですが、王の足元に拝跪する貴族が描かれています。 年代、出土場所は不明。 (ミラフローレス博物館)
(Estela 19 desde Museo Miraflores)
石碑19、実際は建物に嵌め込まれた石版だったようで、先古典期後期に遡ります。長い鼻を持ち足が鈎爪になった人物が両手で蛇を持ち上げる様子が刻まれ、
蛇は天空を表わし人物は世界を支える神を表わすとも。 (ミラフローレス博物館)
(Estela 5)
石碑 5 (250BC-250AD) 。 特に詳しい説明書きはなく、カミナルフユの代表的な石碑として展示されています。
モチーフはイサパの石碑に良く似ています。 (国立博物館)
(Soportes de Altar 4)
祭壇 4 の支え。 これも年代と出土地だけで詳しい説明はありませんでしたが、祭壇を支えた足で、おどろおどろしい頭が
3つ並べて展示されていました。 先古典期後期です。 (国立博物館)
(Más monumentos líticos del Período Preclásico)
その他、先古典期後期の石造物。 キノコ型の彫刻は先古典期のグアテマラ南部で特徴的なようです。 水盤は更に大きい
ものを上の方で紹介済みです。 (国立博物館)
(Figurillas femeninas de Período Preclásico)
先古典期後期の土器等の焼き物も沢山展示があります。 人型の土偶はオルメカ的な雰囲気を持ちます。 (国立博物館)
(Articulos de ceramica de Período Preclásico)
土器類は知識不足であまり説明を加えられませんが、ここに並べた写真は全てカミナルフユ出土で、先古典期後期から原古典期にあたる
時代が付記されていました。 一番下の左側にある香炉はテオティウアカン風を感じさせますが、これも 200 BC - 200 AD だそうです。
(国立博物館)
(Monumento 29 de Período Clásico Temprano)
すこし時代が新しくなって、これは古典期前期のモニュメント 29。 先古典期とは明らかに異なる様式に変化していて、
テオティウアカンの影響を受けたのでしょうか。 形状からすると建造物に差し込んで使用された装飾だと思いますが、土製の
建造物ではこの重さが支えられないように思います。 (国立博物館)
(Incensario de estilo teotihuacano)
左の香炉は古典期前期のテオティウアカン様式です。 説明書きにはっきりテオティウアカン様式と書いてあり 間違い
無いところですが、上の方の先古典期の香炉とも結構似ていますね。 右のイヌ型の容器はテオティウアカンで多い
オレンジ土器だと思います、時代は古典期前期です。
(国立博物館)
(Cerámicas policromadas del Perído Clásico recuperadas en la zona de Kaminalfuyú)
さて最後の最後に見事な彩色土器の写真を並べてしまいました。 古典期後期になると交易が盛んになり、ペテン地方、
南部海岸地方などとも活発に物資の交換が行われたようで、ミラフローレス博物館にはカミナルフユで出土した他地域の
土器が沢山展示されていました。
カミナルフユでの乱開発の過程でこうした土器類が闇に流れて、
例えば出所不明のペテン式土器が実はカミナルフユ出土だったりする事もあるようです。 高温多湿のペテン地方より南部高地
のカミナルフユの方が土器の保存には適していたかもしれません。
遺跡公園で発掘現場を含めた遺構だけ見ても カミナルフユについて充分理解が得られません。 博物館の展示物を参照して
より立体的な理解に努めましたが、遺跡を訪問するだけよりは理解が深まったでしょうか。
先古典期のチョル語族の時代から、二世紀頃に最繁栄期を迎え、400年頃にはテオティウアカンの影響も受けながら、2000年近くにわたり
繁栄を続けたカミナルフユですが、900年頃には他の古典期マヤセンター同様 衰退の道を辿り歴史の舞台から姿を消していった
ようです。
グアテマラ2日目は、後古典期のミスコ・ビエホから この先古典期に遡るカミナルフユと、時代が前後しましたが、明日3日目は
また後古典期の
イシムチェ を回り、チチカステナンゴに向かいます。