ウアシャクトゥンはティカルと並んで先古典期に遡るマヤ遺跡で、古典期後期に放棄されるまで 1000年を遥かに超える歴史を刻みます。
太陽の運行を示す天文時計とも言うべきピラミッド遺構が最初に発見された遺跡として知られ、4世紀末にテオティウアカンがペテン地域
に浸透した際にはその足跡がウアシャクトゥンまで残され、マヤ全体の歴史を知る上でも非常に重要な遺跡です。
修復が進み観光地として整備されたティカル遺跡と比べ、ティカルから更に北へ 23Km 離れたウアシャクトゥン へは道路も未舗装で、
遺跡の入場料の徴収はなく、訪れる人も多くありません。
2003年の初回訪問時はガイドも不在で グループ E 以外は何が何だか良くわかりませんでしたが、12年後の今回 カラーの説明プレート
が沢山設置されていて、それなりに観光客の受け入れ態勢が整いつつあるようですが… 。
(訪問日 2003年 4月 14日、 2015年 1月 20日)
前日にティカルの案内所でウアシャクトゥンへの手配をしました。 まだ雨期の終わりかけで泥濘だらけの道路は四輪駆動が必須。
料金は高めでしたが止むを得ません。 案の定 車は泥まみれになり、前回 40分で行った所を1時間かけてウアシャクトゥンに到着しました。
(Aldea y principal sitio arqueológico de Uaxactún por Google Earth)
ウアシャクトゥンの村落と主要グループを Google Earth で見てみました。 1920年代にカーネギー隊が調査を始めた頃は 一面ジャングルで、
ラバで4日かけてベリーズと行き来していたそうですが、その後 飛行場が整備され、チクレの集積所として村落が形成されていきます。
70年代後半にティカルとの間に陸路が拓かれ、飛行場は 1984年に閉鎖されますが、現在も広々した滑走路跡が村を斜めに走ります。
(Tres paneles de explicaciones colocados a la entrada sur de Uaxactún)
南側から村に入りますが、村の入口にはこんな看板が。 12年前とは様変わり、地図には遺跡の異なるグループも示されます。
(Ubicacion de diferentes grupos de Uaxactún)
地図部分を拡大してみました。 滑走路の両側に村落が広がり、南東側にグループ E、北西側にグループ B と A があり、Google Earth
と比較してみても正確です。
(Camino principal al lado de antigua pista de aterrizaje)
村に車を乗り入れ昔の滑走路に沿った道を北東へ進みます。 小さな村には立派過ぎる広くて長い広場です。
(Desviación a Grupo E)
道路の先に標識があり、ここを右折してグループ E へ。 グループ H は残念ながら公開されていません。
(Area de Parqueo de Grupo E)
駐車場で車を降りて グループ E へ。 説明パネルがふたつ設置されていました。
(Mapa de sitio de Uaxactún)
ひとつはこれ。 想像復元図で異なるグループが示されますが、方角はおよそ南北逆になっています。 遺跡は飛行場跡の広い空き地で隔てられ、
グループ E を含めた南東側がより古い時代からの区域になるようです。
(Explicacion de conquista por Siyaj K'ak')
そしてもうひとつの説明パネルは 【 シャフ・カックに率いられた 所謂 "La Entrada" (登場、入場) はマヤの歴史を変えた。】 と言う
見出しで、纏めるのも何なので、全文 訳してしまいます。
テオティウアカン王 投槍フクロウはウネ・バラムと言うマヤ人の女性と婚姻を結び、息子ヤシュ・ヌーン・アイーンを儲けたと考えられる。
378年にテオティウアカンの軍事指揮者シャフ・カックが ”登場” と言われる出来事を指揮してマヤ地域に入った。
● ティカルではチャク・トク・イチャーク王を含む王族が滅ぼされ、シャフ・カックはウアシャクトゥンを占拠して王位に就き、
ティカルにはまだ若かったヤシュ・ヌーン・アイーンを王に据えて永きにわたって彼を補佐した。
● ”登場” の後、ティカルがウアシャクトゥンより重要な役割を果たす事になる。
● シャフ・カックの影響下、ティカルは広く他のセンターを従えて交易路を支配し、マヤ王国はかつて見た事のない繁栄を謳歌する。
● マヤ地域にもたらされた 緑色黒曜石、タルー・タブレロの建築様式、武器である投槍器等は テオティウアカンとマヤの交流の証しと言える。
パネルの地図にはテオティウアカンの侵入経路が黒の太線で示され、チアパス州の
パレンケ、
ポモナ を通り、
グアテマラに入って
エル・ペルー、エル・ソッツを経て
ティカル に入り、線はウアシャクトゥンまで伸びています。
グループ E GRUPO E
(Montículos de Grupo E)
さてここから遺跡です。 東へ向かって歩き始めると右手に土塁が並びます。 調査はされているのでしょうが、まだ発掘修復されていません。
(Hacia pirámides)
そして休憩小屋の先にはもうピラミッドが見えてきます。 シャフ・カックで古典期前期 (250-600AD) の話が先になりましたが、グループ E は
シャフ・カックに先立つ前王朝によるもので、先古典期後期 (250BC-250AD) に遡ります。
(Lado oeste de Estructura E VII sub)
正面に見えていたピラミッドがこれ。 E VII sub と呼ばれる方形のピラミッドの西側面で、基壇に取り付けられた仮面は最近漆喰を
上塗りして化粧直しされているようです。 仮面は各面に4つづつありますが、西面は右側の2つが上に被せられた新しい建造物で覆われたままです。
(Lado norte de Estructura E VII sub)
こちらは北側から見た E VII sub です。 北側は積み重ねられていた建造物は全て取り除かれ、先古典期の建物がそのまま姿を表し
仮面は4つ全て露出しています。 方形の基壇が積み上げられ、四方に階段と仮面が配されており、どの面から見ても同じように見えますが、
広場に面した東側が正面になります。
ウアシャクトゥンは 1916年にシルヴァヌス・モーリーによって発見されますが、30年代にカーネギー隊が崩れていた上部構造を
取り除いくと出てきたのが E VII sub で、埋蔵建造物の意味で sub が付けられます。 E VII sub はマヤで石造建造物の建造が始まった
先古典期後期に作られた古いピラミッドで、ウアシャクトゥンはマヤで最古の遺跡と考えられた時代もありましたが、
その後
エル・ミラドール
や ナクベ 等の調査が進んで最古の称号は譲る事になります。
(Planta de Grupo E)
グループ E は E VII sub と、東側に向かい合った E I、E II、E III の他、広場の北東側の E X と 北側の基壇だけ修復されています。
(Tres piramides al lado este de E VII sub)
E VII sub の北側から東方向には広場を挟んで横長の基壇が見え、基壇上に神殿が3つ並びます。
(Lado frontal de E VII sub)
木の陰で見辛いですが、これは広場に入って E VII sub の東側正面で、階段の前に石碑 20 を従えます。
(Lado sur de E VII sub)
折角なので南面も見ておきましょう。 階段左は新しい建物が被ったままですが、右側は先古典期の仮面がふたつ
掘り出され、こちらも化粧直しされたばかりのようです。
(Estela 20 de Gobernante A-22)
これが東正面前に置かれた石碑 20 で、正面を向いたウアシャクトゥンの王が刻まれます。 王はシャフ・カックの孫でシャフ・カックから数えて
3代目の王で、発見された埋葬の名をとって A-22 と呼ばれる5世紀後半の王になり、石碑は 9.3.0.0.0 (495年) のカトゥンの終了を記念した
ものになるようです。
古典期前期に E VII sub を覆う形で新しいピラミッドが積み重ねられましたが、新しいピラミッドは前王朝によるものなのか、
それとも石碑と同じ新王朝によるものでしょうか? ウアシャクトゥンの中心は古典期前期の始めに既に グループ E から
グループ A に移っており、シャフ・カックの新王朝もグループ A、B を中心に据えますが、グループ E も維持されたようです。
2003年に来た時は石碑にはまだ
一部赤い彩色が残っていましたが、
残念ながらもう消えてしまったようです。
(Panel de explicación en el sitio)
広場にはカラーパネルがふたつ設置してあり、ここから冒頭でも触れましたがマヤの天文観察複合の説明です。
まず地軸の傾きによって日照時間が変り、春分、秋分 と 夏至、冬至が起きる事がイラストと共に説明されます。
(Panel de explicación en el sitio)
そして E VII sub の上から太陽観察を行う様子をイラストで示したもう1枚のパネル。 正面は東の基壇に並ぶ3つの神殿、左から
E I、E II、E III で、東の空から昇る太陽は、夏至の日には E I の左側面から、春分と秋分には E II の真上から、冬至には
E III の右側面から現れます。 この現象は 1924年にウアシャクトゥンのマッピングを行ったフランス・ブロムにより確認され、
マヤが古くから優れた天文知識を持っていた事が明らかになりました。
太陽観察複合はその後、ティカル、
カラクムル、
ヤシャー 他でも確認されますが、仕組みが初めて解明されたのがウアシャクトゥンで、
一番理解し易い形に修復されています。
(Estructuras E I, II, III en frente de E VII sub)
E VII sub の上にあがり、パネルと同じ東方向を見てみました。 春分の日には朝早くからここで祭事が催され、祈りの他に民俗舞踊や
球戯等が行われるようで、一度日の出を見に来たいものです。
(Estructuras E II)
中央の E II をクローズアップしてみました。 上部構造は失われていますが、模写を見ると漆喰彫刻を施された屋根が取り付けられていたようです。
横長の基壇を含めて3つの神殿は、E VII sub を覆っていた上部構造 ( E VII ) と同じく古典期前期の遺構になるようで、下部建造物があるのか、
太陽の観測は何時から行われていたのか、気になる所です。
(E VII sub vista desde E II)
これは E II (春分と秋分の神殿?)に上がって、反対に E VII sub を見返したところです。 基壇の中央階段の前に石碑 18 と 19 があり、
2003年にはなかった覆いが付けられています。 既にかなり断片化して風化が進んでいますが、358年に建てられた旧王朝のものになるようです。
(Panel de explicación de Grupo E)
グループ E の想像復元画のパネルもありました。 これに添って天文観測複合以外の建物も簡単に見てみましょう。 復元画の左の屋根飾りの
付いた神殿が E X (E 10) で、グループの中で一番大きな建造物になるようです。
(Plataforma del lad oeste de Estructura E X)
これは E X の手前の基壇を南東側から見た所です。
(Lado norte de misma plataforma)
同じ基壇の北側で、急傾斜の階段と仮面か何かの装飾が施されていたようです。
(Lado frontal de Estructura E X)
これは西正面から見上げた E X です。
(Lado frontal de Estructura E X)
最初の基壇を登り、目の前に現れる E X で、古典期前期の神殿になるようで、ティカルの様式に似て
います。 神殿の下には更に古い時代の建造物が眠っているそうです。
(Arco falso de Maya en el interior de E X)
屋根飾りは失われていますが、室内に入ると持ち送り式のマヤアーチが当時のまま残されます。
(E VII sub vista desde E X)
E X の前からは E VII sub が見え、手前に上部構造のない基壇が広がります。
(Un montículo alto en frente de E X)
基壇の右奥には未修復の土塁が残されます。 想像復元画では E VII に似た方形のピラミッドに
なっていますが将来的に修復されるのでしょうか?
(Complejo triádico de Grupo E)
広場の南側には大きな基壇の上に古典期前期以前に典型的な三神殿形式の建造物があったそうです。 写真を撮り損ないましたが、
これは北西側から見上げた基壇で、中央の明るくなった所が主神殿で、右側に西の脇神殿が映っています。 全て未修復です。
(Estructura E VII sub en 2003)
グループ E は以上ですが、最後に 2003年に来た時の写真です。 風雨と強い日差しで建物が汚れてきたのか、光線の加減か、古い写真の
方が建物の形が見易いようです。
(Página 240-241 de "Culturas Prehispánicas de México, Guatemala y Honduras")
そしてもっとわかり易い画像があったのでスキャンさせて頂きました。 上の基壇には地の怪物ウィッツが、下の基壇にはジャガーが、
それぞれ8体づつ飾られています。 実際こんな彩色だったのでしょうか。
Culturas Prehispánicas de MÉXICO, GUATEMALA y HONDURAS という大判の出版物があり、この復元画を含めて大判を活かした画像は大迫力です。
(Réplica de Mascarón exhibida en MNAE)
上の基壇の地の怪物ウィッツは首都のグアテマラ国立考古学民俗学博物館に実物大に複製されたレプリカが展示されています。
グループ B GRUPO B
(Hacia Grupo A y B)
昔の滑走路脇の道に戻って、グループ A と B へ向かいます。 道を挟んで反対側で、歩くと少し距離がありますが車なら数分です。
(Parqueo de Grupo B)
遺跡の駐車場に着きました。 12年前と比べて遺跡の整備が進み、車で遺跡のすぐ近くまで来れます。
(Montículo de Estructura B VII)
これは 2003年の写真で、ここまでかなり歩いてきたように記憶していますが、現在は駐車場で車を降りると直ぐに写真の土塁があります。
土塁は建造物 B VII で、右横に小さく石碑が 1本映っています。
(Estela 5 que retrata Siyaj K'ak')
野ざらしだった石碑も現在は写真の通り保護の屋根が設けられ、「 石碑 5 379年 ティカルから来たウアシャクトゥンの征服者
シャフ・カック」 と書かれた説明プレートも取り付けられており、378年にシャフ・カックがウアシャクトゥンを征服した事を
記念して建てられた石碑で、歴史的にも非常に重要な石碑でした。
(Estela 5 que retrata Siyaj K'ak')
横向きに彫られた人物がシャフ・カックになる訳ですが、長年 雨風に晒された結果かなり風化しています。 発見当時はもっと
良い状態で日付や名前が読み取れたのでしょう。 (ハーバード出版に
昔の写真 がありました。
これならシャフ・カックの姿がイメージ出来ます。)
(Estela 4 que retrata Siyaj K'ak')
隣にもう1本石碑があり、8.18.0.0.0 (396年)のカトゥンの終了を記念して建てられた石碑 4 で、同じく 378年の征服が記されていたそうです。
ウアシャクトゥンの王となったシャフ・カックは 402年に亡くなり、ウアシャクトゥンで埋葬されています。
(Juego de Pelota de Grupo B)
石碑 4 の直ぐ北側にウアシャクトゥンの球戯場があります。 写真は奥が北で、太陽が昇る東の基壇と、沈む方向の西の基壇で
球戯場が形成されます。
(Juego de Pelota antes de restauración en 20003)
この球戯場、実は 2003年に来た時は写真の通りまだ修復されていませんでしたが、2009年にスロバキアのチームによって修復されたそうです。
(Planta de Grupo B)
「グループ B 西の広場」 という表示に建物の配置が記されていたので写真に撮りました。 右側がおよそ北になり、球戯場の B V と未修復の
土塁 B VIII の間に B-4 と B-5 と石碑が表されますが、これが石碑 4 と 石碑 5 になるようです。
(Panel de explicación de Grupo B)
前回来た時は表示すらなかったグループ B ですが、カラープレートが設置され、想像復元画に簡単な説明も添えられていました。
先古典期からのウアシャクトゥン遺跡の中では比較的新しい時代のグループになるようですが、数多くの石碑と壁に残された彩色壁画から
ウアシャクトゥンの歴史解明に大きな手掛かりが得られたそうです。
(Dibujo de pintura mural de Estructura B XIII, Museo Popol Vuh)
さて 「壁に残された彩色壁画」 とは。 調べてみると有名なウアシャクトゥンの彩色壁画が グループ B からで、今はもう
失われてしまった 建造物 B XIII の室内で 1937年にカーネギー隊が発見したものでした。 グアテマラ・シティーの
ポポル・ブフ博物館 に壁画を書き写したものが展示されていて
写真に収めてありました。
壁画の左側にひと際大きく描かれている向かい合った2人の人物が主役です。 右手に投槍器を持ち左手を振り上げた赤い肌のテオティウアカン人
を前に、黒く塗られたウアシャクトゥンの王が右腕を胸に回して恭順の意を表しているようで、テオティウアカンによるウアシャクトゥン
征服の歴史的瞬間を描いた壁画とも考えられるようです。 2人の間に記された文字にはシャフ・カックの名前もあるようですから、
テオティウアカン人はシャフ・カックその人と考えていいでしょうか。 建物の中では
ふたりの女性が黒い肌の女性にケツァールの羽を差出し、建物の外にも沢山の貴族がいて、黒曜石のナイフと彩色土器を交換するような様子や
太鼓を叩いている場面も描かれます。
建造物 XIII はその後盗掘者によって破壊されて壁画は永遠に失われてしまいますが、模写が残されていたのは幸いでした。 上のグループ B
の想像復元画で球戯場の奥に描かれた横長の宮殿が XIII になるのでしょうか。
(Plaza al sur de Juego de Pelota)
グループ B は写真右端に見えている球戯場以外に修復された建造物はなく、グループ A へ向かいます。
(Hacia sur a Grupo A)
土塁 B VIII の西側にも屋根で保護された石碑が並びますが、かなり風化が進んでいます。
グループ A GRUPO A
(Plaza al oeste de Estructura A III)
グループ B からマヤの時代のサクベを 200m位南へ下るとグループ A で、建造物 A III の横にでます。
(Estructura A III)
A III は二層の基壇のシンプルな建物で、南を向いた正面が修復されています。
(Panel de explicación que muestra reconstrucción hipotética de Grupo A)
これは広場に設置されたグループ A の想像復元画ですが、実際に現地で修復されているのは中央に描かれた大きな建築複合 A V (A-5)、
右端に聳える宮殿 A XVIII (A-18) 位で、復元画の下半分は全て森の中です。
グループ A、B と更に北に位置する グループ C は
防御に適した台地の上に築かれ、アクセスは人工的に作られたサクベに限られたそうです。
(Planta de Grupo A)
広場にグループ A の建物の配置図もあったので切り出してみました。 建物の大きさや位置があまり正確ではなさそうですが、
建物間の位置関係はおよそ掴めます。 (復元されている建物だけ番号を振り直してあります。)
(Hacia Complejo A V)
建造物 A III から東へ進むと建築複合 A V の裏側 (写真右)に出ました。
建築複合 A V COMPLEJO A V
(Lado norte de Complejo A V)
建築複合 A V には北側からアプローチしたので、目の前に見えたのは裏側でした。
(Lado este de A V)
こちらは A V の東側面で、かなり崩れた壁面を修復してあるので、北東角が丸い仕上げになっている以外 あまり特徴がわかりませんが、
複合内部の建造物が頭を覗かせます。
(Lado este de A V)
東側面の中程に通路が開かれていて中に入れます。 ここは正式な入り口ではなかったような感じですが… 。
(Pasillo para el patio interior)
通路に入ると両側にマヤアーチが見られます。 正面は西方向です。
(Pasillo para el patio interior)
通路のすぐ先がまた崩れていて、建築複合内部の中庭に出られます。
(Panel de explicación que muestra diferentes fases constructivas de A V)
建築複合 A V の南側に説明パネルがあったので、まずパネルを参考に建物の概要を見てみましょう。
建築複合は長年にわたって増改築が繰り返されていたので、異なる建築段階を確認する為に発掘調査には5年の年月を要したそうです。
先古典期後期の最初の三神殿形式から古典期後期の最後の増改築まで、パネルには異なる建築段階の姿を フェーズ1 からフェーズ8 に別けて
図示してあります。
この建築複合では王墓を含む 50 以上の埋葬が発見され、グループ A の中心になる最も重要な宮殿アクロポリスでしたが、現在見る姿は
フェーズ 8 の最後の段階が崩れた跡なので、実際遺跡に足を運んでも何処が何処だかよくわからない事になります。
(Entieros de primeros gobernantes de Dinastia Siyaj K'ak')
各フェーズの時期は記載されていませんが、フェーズ1 は先古典期ですからシャフ・カックのウアシャクトゥン征服以前になります。
フェーズ2 は主神殿の前にシャフ・カックの埋葬(A-29)が置かれた 402年以降、フェーズ3 には2代王の埋葬(A-31)がある神殿
が南側に建てられていて5世紀中頃、フェーズ4 にはその南の神殿の東西に神殿が追加され 3代と4代王の埋葬があり(A-22, A20)。
新しくても6世紀中頃、更に5代王の埋葬(A-23)も複合南側で見つかっており、おそらくフェーズ4 か 5 辺りまでが
古典期前期に当たりそうです。
2代王はシャフ・カックの子供でバット・マキーナ、3代目、4代目はシャフ・カックの孫、曾孫と世襲が続き、名前ではなく
埋葬の番号をとってそれぞれ A-22王、A-20王と呼ばれ、5代目は A-23王です。
595年にティカルが戦争に敗れて HIATUS (中断)と呼ばれる低迷期に入るとウアシャクトゥンも同様に低迷期に入りますが、
ティカルの再興と共にウアシャクトゥンでも 702年に石碑 14 が作られ、繁栄を取り戻したようです。 フェーズ 6 から 8
はこのウアシャクトゥンの再興以降、古典期後期末に遺跡が放棄されるまでの時代に当たるものと思います。
(Estela 6 al lado sur de A V)
これは建築複合 A V の南正面を西から東方向へ見たところで、正面の屋根の下は石碑 6 があります。
(Estela 6)
石碑 6 は5代目王 A-23 が 9.6.0.0.0 (554年) のカトゥンを祝った石碑で、この直後 562年にティカルが戦いに敗れて低迷期に入り、
ウアシャクトゥンでもその後暫く石碑の建立が途絶え、ここにシャフ・カックの家系は途絶える事になったようです。
(Lado oeste de Complejo A V)
建築複合 A V の西側が一番修復されていますが、三神殿形式の建物群は南を向いており、西側は正面ではなさそうです。
フェーズ8 の復元図と照合しても何処が何処になるのか?
(Lado oeste de Complejo A V, fotos en 2003)
これは同じ西側面を 2003年に来た時に撮った写真ですが、復元図とよく見比べてもやはりあまり符号しません。 発掘調査でかなり
新しい建物が剥ぎ取られているのでしょうか?
(Esquina noreste del Patio de A V)
南側に戻って複合の中に入ってみます。 内部は中庭のようになっていて、これは中庭の北東方向で、手前には楕円形の基壇が見えます。
(Lado norte del Patio)
これは中庭の北側で三神殿形式の北側の主神殿があった辺りです。 正面の建物は中央が一度崩されてから蓋をされているように見えますが、
ガイド氏によるとこれは 30年代のカーネギー隊の発掘の跡で、当時は副葬品を求めて墓を探していった為に遺跡がこのように壊されてしまったと
憤慨していました。
(Lado oeste del Patio)
これは中庭の西側(画像左)に横から見た北面(画像右)をパノラマ合成した写真です。 西側の脇神殿のように見える建物も正面が崩されているようです。
(Lado suroeste del Patio)
これは上のパノラマ画像の更に左側で、中庭の南西方向になり、復元図と比べてみても仕方ないくらい崩れています。
(Lado sur del Patio)
パノラマ合成出来ませんでしたが、これは中庭の南方向で、左奥に石碑 6 が見えています。 建物は古典期後期に増築されたもの
でしょうか。
(Plataforma oval en el Patio)
最後に広場を少し上から見下ろしてみました。 正面は北西方向で、すぐ下には楕円形の基壇があります。
(Plataforma oval en el Patio)
楕円形の基壇は先古典期の建物の跡で、写真の北側が正面になります。 4本の柱の跡が認められたそうで、基壇上には木製の柱
に茅葺きの家が建てられていたようです。
度々増改築が行われて 込み入った構成になっていた建築複合 A V は、近年の発掘もあり複雑に崩れていて理解し辛いですが、
復元図で想像を膨らませるしかありません。
宮殿 A XVIII PALACIO A XVIII
(Hacia Palacio A XVIII)
グループ A には修復された建造物がもうひとつあり、建築複合から東へ向かいます。
(Palacio A XVIII)
これが宮殿 A XVIII で、南西側から見上げた所です。 この建物は建築複合の復元画にも描かれており、
下のパネルにも当時の様子が示されます。
(Panel de explicación de Grupo A)
宮殿の前にこのパネルが置かれていましたが、グループ A 全体を説明するもので、宮殿については何も書かれていませんでした。
古典期前期から古典期後期末に放棄されるまで、グループ A は グループ B と共にウアシャクトゥンの政治、祭事の中心で、
王の住居もここにあったようです。
(Subiendo la plataforma frontal)
宮殿は3代王 A-31 が5世紀後半に建てさせたもので、基壇上には二層に亘り 18部屋の居室が設けられ、二層目中央には玉座も
あり、王が執務を摂り、寝起きもしていた場所になるようです。
(Entrada central del edifico superior)
正面の中央階段は修復されていないので草に覆われた斜面を登って基壇上の建物に辿り着きます。 写真は一層目の中央入口で、屋根部分が
崩れ落ちていて茅葺きの屋根が付けてあります。
(Cámara con techo abovedado)
入口に入って左右を見ると両側ともしっかり屋根が残っていて、梁で支えられてマヤアーチが当時のまま残るようです。 壁には所々
彩色が残り 壁画が描かれていたそうですが、痕跡を残すだけで何が描かれていたのか全くわかりませんでした。
(Cámara interior y techo)
1列目の部屋の奥に更に部屋があり、ここから東側に行くと二層目に上がる階段がありました。 全部で 18室あったそうですが、これは
帰ってから知った事で、2列目の裏側にも更に部屋があったようです。
(Segundo nivel del edificio superior)
これは二層目に上がって登ってきた階段の方を見返したところです。
(Segundo nivel del edificio superior)
二層目の中央には台のようなものがあって屋根はもうありませんが、これが玉座だったのでしょうか。
(Primer nivel del edificio superior)
一層目に降りて、これは中央から東方向で、森が無ければ建築複合 A V が見える筈なんですが。
(Lado oeste de A XVIII)
これは東方向から見た宮殿の側面で、一番上に茅葺きの屋根が見えますが、ここから二層目へ上がりました。 当時はこの上に
屋根飾りが付いて、宮殿はグループ A で一番高い建造物として、見張り台の役割も果たしていたそうです。
グループ A の石碑群 Las Estelas de Grupo A
建築複合 A V と 建造物 A II の間の広場に石碑が沢山あり、一回りしてみました。 遺跡に残されている石碑
ですから、あまり程度の良い石碑はありませんが、重要な石碑も含まれるので簡単に触れておきます。
(Una estela al lado este de Complejo A V)
写真の石碑は建築複合 A V の直ぐ東側にある石碑で番号は不詳です。 かなり風化していますが 断片化しておらず
図像と文字も見えるので発見当初は十分読み取れたものと思います。
(Estelas en la Plaza entre A V y A II)
上の番号不詳から石碑から建造物 A II にかけて石碑が並びます。 隣の石碑は断片化して厚く苔に覆われていて
もはや屋根も付けられないようです。
(Estela 8)
石碑 8 とプレートの付いた石碑はかなり細かく割れていますが、王の肖像が深彫りされていて、古典期後期の石碑
になるようです。
(Estela 12 de 889 años ultima erregida en el sitio )
これは石碑 12 で、プレートには 889年の最後の石碑と書かれています。 ウアシャクトゥンの王 カル・チキン・チャクテが、
ティカル最後の王ハサウ・チャン・カウィール II と共に 10.3.0.0.0 のカトゥンを祝った事が記されているようで、
これはウアシャクトゥンの最後の石碑になるだけでなく、
セイバル遺跡
の石碑 20 と共にマヤ圏全体で古典期最後の石碑になり、ウアシャクトゥンが古くからの遺跡というだけでなく、
古典期を最後まで生き続けたマヤ・センターのひとつだった事も示す重要な石碑になります。
(
トニナ遺跡 には更に新しい 10.4.0.0.0 909年
の日付を刻んたモニュメント 101 という小像があります。)
(Una estela al lado norte de A II)
建造物 A II の北側まで石碑や祭壇の列が伸びています。 この石碑は番号不詳、後ろ側は建造物 A II の北側面です。
(Estela 9 de 327 años, la mas antigua del sitio )
建造物 A II の西側にあるのがこの石碑 9 で、これはウアシャクトゥンで最も古い石碑になるそうです。 8.14.10.3.15 と 長期暦で
327年に当たる日付が刻まれ、ウアシャクトゥンがシャフ・カックに征服される前の王朝の石碑になり、王と捕虜が描かれており
戦勝を記念したもののようです。 石碑が置かれた広場は古典期後期に整備されたところで、石碑 9 は元々 別の場所にあったのものが
ここに移されたと考えられるようです。
ウアシャクトゥンの名称は 8 (Waxac) と 石 (Tun) の造語で、ウアシャクトゥンの発見者のシルバヌス・モーレーが当時最も古いと
考えられた 8バクトゥンの石碑を見つけてそう命名したそうで、その石碑がこの石碑 9 だと言われます。 モーレーを派遣してくれた
カーネギー財団がワシントンにあるので、音の遊びでウアシャクトゥンとワシントンを重ね合わせたとも言われます。
(Estela 10)
石碑 9 の南側には 石碑 10 とプレートが付けられた石碑もありましたが、これはかなり風化が進んだ断片だけで詳細は全くわかりません。
他にも祭壇や石碑と祭壇のセットなど幾つもありましたが、殆ど図像が読み取れないので割愛しました。 見栄えのする石碑はありませんでしたが、
ウアシャクトゥンで一番古い石碑に、マヤ全体で古典期後期の最後になる石碑もあって、興味深いところでした。
(Estructura A II, foto en 2003)
これは 2003年に来た時の写真で、建造物 A II の手前に ウアシャクトゥン最古の石碑 9 が野晒しなっていました。
何十年もこうして雨風に晒されていたとすると今更 屋根を付けても少し風化の速度を遅らせるだけですね。
グループ A の建造物 ? Mas Estructura
以上でウアシャクトゥンは 全て終わりですが、気が付いたら前回見た建物がひとつ欠けています。 ガイド氏が案内してくれなかったようで、
前回の写真を載せておきます。
(Edificio residencial ? en Grupo A, foto en 2003)
貴族の住居のように見えるこじんまりした建物がひとつだけですが、建物の入口とマヤアーチは当時のまま残っているようで、2枚の画像は
同じ建物の正面と側面です。
(Grupo A en Google Earth)
何処にあった建物か、Google Earth で探してみるとそれらしい建物が建築複合 A V から石碑のある広場を通り越して更に西方向に見えます。
どなたか行かれたら是非確認ください。
グループ H Grupo H
(Grupo H en Google Earth)
グループ H はまだ調査が続いていて一般に開放されていないようですが、Google Earth で見ると 部分的に森が整理されて建物が顔を
出しているようです (右下隅の Google Earth のロゴの上)。 グループ H はウアシャクトゥンの中心がグループ E に移る前の
最も古い区域になり、巨大仮面が残る 三神殿形式の遺構が発掘されているそうです。
ウアシャクトゥン訪問から大分時間が経ってしまいましたが、何とかこのページを纏め上げました。 書き終わるとまた
もう一度行きたくなってしまう… 、困ったものです。