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GUERRA DE MAYA II    マヤの戦争 2

       Yachilán vs Piedras Negras
マヤの戦争1 では、古典期マヤの二大勢力であるティカルとカラクムルの争いをみましたが、2部では碑文から見えてくる周辺部の抗争に焦点を当ててみたいと 思います。

古典期にはユカタン半島を大きく回る海洋交易路はまだ発達しておらず、ペテン地方とメキシコ中央高原との間の交易にはウシュマシンタ川が大きな役割を 果たしており、この川沿いに 40Km の距離で対峙していたヤシチランとピエドラス・ネグラスの間では絶え間ない争いが繰り広げられる事になります。
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  (Dintel 2, Piedras Negras)

戦いの装束を身に着けて並ぶマヤの戦士の一団、これはピエドラス・ネグラスの石板2です。   碑文には 667年に支配者2(639-686)が兜を受け取る儀礼を行った事が記されますが、510年の「カメの歯」王(500年頃)の同様の儀礼にも言及され、 石板に彫られている場面が 667年か 510年なのか、議論がわかれるようです。
いずれにしても、ここで興味深いのは、王の前に膝立ちしている6名がヤシチラン、ボナンパック、ラカンハ出身の戦士だと言う点で、ピエドラス・ネグラスが ウシュマシンタ川流域に於ける覇権を主張しているかのようです。

果たして実際はどうだったのか、以下時代を追ってピエドラス・ネグラスとヤシチランの争いの跡を辿ってみましょう。
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ヤシチラン 対 ピエドラス・ネグラス  Yaxchilán vs Pidras Negras
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  (Principales ciudades Mayas en conflictos)

ヤシチランとピエドラス・ネグラスは、共にウシュマシンタ川沿いの交易ルート上にあり、上流側のヤシチランと 40Km 下ったピエドラス・ネグラスでは、 交易の利権を考えると初めから争う事が運命づけられたような立地でした。



《 古典期前期  Clásico Temprano 》

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  (Dinteles 11, 49, 37 y 35, Yaxchilán)
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   (Escalera jeroglífica 1, Edificio 5, Yaxchilán)           (Dinteles 35, Yaxchilán, Museo Británico)

古典期前期 (250-600) の初期の状況を知る手掛かりはヤシチラン側に残され、 キニチ・タトゥブ・頭蓋骨 2世 (526- 537?) が残した王名表(上のイラストの 石板 11. 49, 37, 35)には初代のヨアート・バラム1世から 10代キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世までの歴代王の業績が碑文に刻まれます。 また後 の鳥ジャガー4世 (752-768) も神聖文字の階段1 (写真下左)に16代目となる楯ジャガー2世までのヤシチラン王朝史を 463字の神聖文字で残します。

王名表では王は捕えた捕虜の名前と共に記され、初代ヨアート・バラム1世 (359- ?) の時に既に ピエドラス・ネグラスの捕虜を取って争いが始まっていた様子が窺われます。 月・頭蓋骨王 (454-467) はピエドラス・ネグラスの 支配者A (460年頃) を、 続く鳥ジャガー2世 (467- ? ) 支配者B(478年頃)の高位の 貴族をそれぞれ捕虜にとり、この時代 両者の争いはヤシチランが優勢だったようです。


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         (Estela 27, 514AD Yaxchilán) 

ヤシチランで見つかっている最も古い石造物の石碑 27 に、結び目・ジャガー1世 (508- 518) の姿が刻まれます。 この王の時代にも争いは続き、ボナンパックやピエドラス・ネグラスから捕虜を取り、508年にはティカルからも捕虜を取っている ようですが、このヤシチランの優位は長くは続かなかったようです。

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 (Dintel 12, Piedras Negras, Museo Nacional de Arqueología y Etnología, MNAE)

優位が続かなかった証拠がグアテマラ国立考古学民俗学博物館に展示されているピエドラス・ネグラスの石版 12 に見られます。  石板の右枠で正装して直立しているのが支配者C (514-518~)で、背後に後ろ手に縛られた 捕虜を従えます。 左枠には頭飾りはそのままに手を前に縛られた捕虜が3名跪き、一番先頭の捕虜 (写真左) にはヤシチランの王 結び目ジャガー1世 の名前が記されており、永年ピエドラス・ネグラスに対して優位を保っていたヤシチランが ピエドラス・ネグラスの軍門に下った様子が見てとれます。 (威厳を保って縛られているので、従属を誓って許されているのかもしれません。)

石版 12 はピエドラス・ネグラスで見つかっている最も古い文字記録で、514年の支配者C の即位や 9.4.0.0.0. のカトゥンの祝い、 518年の建物の 奉納などの他、ティカルのジャガーの鉤爪王(チャク・トク・イチャーク2世)の訪問を受けていた事も記されているそうで、 永年ヤシチランの後塵を拝してきたピエドラス・ネグラスがティカルの後押しを受けて、ヤシチランを打ち破った とも考えられそうです。


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 (Dintel 48 y 47, Yaxchilán, MNA)

結び目ジャガー1世がピエドラス・ネグラスに捕えられたヤシチランですが、直ぐに復興を果たした ようで、結び目ジャガー1世の弟のキニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世 (526- 537?) は前述の王名表を 含めて数多くの石板を残しています。

メキシコ市の人類学博物館に展示される石板 48 と石板 47 はセットになっていて、石板 48 には見事な全身体の神聖文字で8つのマス目に導入文字から始まる 長期暦 9.4.11.8.16 2 kib 19 pax (526年2月11日) が刻まれ、石板 47 でこの日付にキニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世が即位し、守護神を崇める数々の儀礼が 執り行われた事が記されます。

キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世自身の戦勝の記録は 4枚の王名表の最後に書かれていて、ボナンパック、ラカムトゥーン、更にピエドラス・ネグラスを通り越して カラクムルやティカルからの捕虜も捕り、ピエドラス・ネグラスからの敗北から立ち直ったようですが、 キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世による復興は一時的で、その後 537年から629年の間はまた記録が希薄で、闇の中になります。

神聖文字の階段1によると、キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世の後 ヤシチランでは4名ほど王が即位しているようですが、詳細は不明です。 ピエドラス・ ネグラスでも石碑30 と 石碑29 がありますが、風化した碑文からは 534年と 549年の日付以外 王の名前も読み解かれていません。 こうして両者の歴史が 不明瞭なまま、古典期後期を迎えることになります。 パレンケやトニナ等の他の勢力が優勢だったのかもしれません。



《 古典期後期  Clásico Tardío 》

古典期後期 (600-800) に入り活発に石碑が作られ始めるのがまずピエドラス・ネグラスで、608年の日付を持つ石碑25 にキニチ・ヨナル・アーク1世 (603-639) が現れます。 更に 628年の石碑26、637年の石碑31 にはパレンケから捕虜をとった事が 記され、ウシュマシンタ川流域でパレンケに抗してピエドラス・ネグラスが復権してきた様子が見て とれます。

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 (Estela 33, 642AD Piedras Negras, MNAE)       (Panel 4, 667AD Piedras Negras, MNAE)

キニチ・ヨナル・アーク1世の死後 順当に子供の支配者2 (639-686) が即位し、4分の1 カトゥンの5年毎に記念物を奉納し、このサイクルは 800年頃にピエドラス・ネグラスが衰退するまで維持されます。

即位後最初の石碑 33 が南のグループの R-5 の前に立てられ、続けて石碑 34-37、 38-39 及び石板 4、5、7 が建造物 R-5 と K-5 に設けられ、 50年近い統治期間を通じて5年毎に常に記念物が奉納され、比較的安定した時代だったように見えます。

グアテマラの考古学民族学博物館には石碑 33 と石板 4 が展示され、石碑 33 には支配者2の即位が、また石板 4 には王が捕虜を受取る場面が刻まれます。  石碑が沢山ある割には碑文が風化していてあまり多くの史実は読み取られませんが、戦いを通してウシュマシンタ川流域の平定が進められたようで、 背後にカラクムルあたりの優越王の存在も指摘されます。 冒頭で紹介した石板 2 に見られるよう、ピエドラス・ネグラスがこの地域の覇権を誇示して いて、他方ヤシチランでは碑文が希薄な為、ピエドラス・ネグラスがヤシチランを支配下に治めていたかもしれません。

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(Estela 6, 687AD Piedras Negras, MNAE) (Dibujo de restauración de Acropolis por Tatiana M. Proskouriakoff)

ピエドラス・ネグラスの次の王も順当に父子相続され キニチ・ヨナル・アーク2世 (687-729) が王位に就きます。 キニチ・ヨナル・アーク2世は長命で、42年に及ぶ治世に9回の4分の1カトゥンを迎えて、8本の石碑と祭壇をひとつ奉納します。  建築活動も活発に行われ、8本の石碑は全て建造物 J-4 の前に並べられ、有名なプロスコウリアコフの復元画にその石碑が描かれます。 (右の復元画で 右側に聳えるのが R-4 で、階段下に石碑が並びます。)

画像左は即位を記念して 687年の 9.12.15.0.0. に作られた石碑 6 で首都の博物館に展示されています。 建築や石碑からは内部は安定していたように みえますが、対外的にはパレンケに衛星都市を侵食され、再び勢いをつけてきたヤシチランとの抗争も再発してきます。 726年の石碑 8 (画像下左) には王の 足元にヤシチランの貴族が名前と共に刻まれ、キニチ・ヨナル・アーク2世の時代はまだピエドラス・ネグラスの 優勢が維持されていたようです。

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 (Estela 8, Piedras Negras)        (Estela 18, Yaxchilán, MNA)      (Estela 15, Yaxchilán, MNA)

726年には戦いに負けて捕虜をとられていたヤシチランですが、楯ジャガー2世 (イツァムナーフ・バラム2世) (在位681-742) の治世の終わりにかけて勢力を盛り返してきた事は、数々の石碑、石板、祭壇が残されている事から明らかになっています。

楯ジャガー2世は小アクロポリスや南の神殿群に数々の戦勝記念を残し、国立人類学博物館にある石碑 18、15 には楯ジャガー2世が戦争の捕虜と共に刻まれます。  直接ピエドラス・ネグラスと戦火を交えた記録はありませんが、石碑 18 (写真中央)には王の足元にラカンハの王ポポル・チャイが見られ、ヤシチランの南西 のボナンパックやラカンハを治め、対岸のラ・パサディータ からピエドラス・ネグラスに近いエル・カヨ付近まで攻め上がり、 楯ジャガーはピエドラス・ネグラスに抗して勢力を拡大していたようです。

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       (Distribución de sitios Maya en la Región de Río Usumasinta durante Período Clásico)



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 (Estela 40, 746AD Piedras Negras, MNAE)          (Dintel 3, Piedras Negras, MNAE y su réplica)

楯ジャガー2世で勢力を盛り返したヤシチランですが、王の死後その後継が定まらず、短期的に混乱した時代があったようです。 この間ピエドラス・ネグラス では支配者4 (729-757) が引き続き5年に一度の4分の1カトゥン毎に記念物を残し続けます。  最初の 731年は 15カトゥンの初め( 9.15.0.0.0.)に当たり、石碑 11 に即位が記され、その後在位中の5回の4分の1カトゥンには石碑 9、10、22、40 と 祭壇 2 が作られます。 石碑 40 はグアテマラ考古学民族学博物館にあり(写真左)、支配者4が地下の母親と交信する姿が刻まれます。

この時代の状況を表わすものとして後の支配者7の時代の石板 3 があり、同じく考古学民族学博物館に展示されます。 (写真右上、下はレプリカ)  795年頃に作られた石板ですが、支配者4の即位後1カトゥン(20年)を祝う 749年の儀礼を表わしているものと考えられ、玉座に座る支配者4の右側に王子の時代の支配者7とラ・マールの王子が控え、玉座の下で7人の参謀たちが座って 会話します。 ここで興味深いのは王の左で敬服の姿勢をとっているのがヤシチランからの一行で、一番前は楯ジャガー2世の後のあまり知られていない ヨアート・バラム2世 らしいという点です。

更に混乱期のヤシチランについての記述がドス・ピラスで見つかっています。 ウシュマシンタ川上流に合流するパシオン川流域にある ドス・ピラス はカラクムルの後押しでティカルと争っていた事が知られますが、神聖文字の階段3に、 ヤシチランに攻め入って貴族を捕虜にした事が記されているそうです。 上記の石板 3 と考え合わせると、混乱期にドス・ピラスに攻め込まれたヤシチラン は、ヨアート・バラム2世がティカル側のピエドラス・ネグラスに追随したとも考えられ、ヤシチランで 鳥ジャガー4世が王位に就くまではピエドラス・ネグラスが優勢だったと言えそうです。


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  (Dintel 12, Yaxchilán, MNA)

10年位の混乱期を経て王位に就いた、鳥ジャガー4世 (752- 768) は既に 40歳を超えており、 在位期間はそれ程長くなかったにも拘らず、大々的な建築活動が行われ、数多くの石造物が残されます。  このヤシチランの繁栄はウシュマシンタ川流域でヤシチランが覇権を握っていた結果と考えられ、人類学博物館の石碑 12 にも捕虜を従えた鳥ジャガー 4世の姿が刻まれます。

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  (Dintel 8, Yaxchilán)                       (Dintel 1, La Pasadita)

鳥ジャガー4世は 20人の捕虜をとったとされ、石板 8 にも鳥ジャガー4世が 755年の戦争で捕えた捕虜と共に刻まれますが、鳥ジャガー4世の捕虜達はあまり 高位の貴族ではなかったようです。 ヤシチランに従属していたラ・パサディータの石板に 759年の戦争の後、ラ・パサディータのティロームという貴族から 鳥ジャガー4世が捕虜を受け取る場面が描かれ、この捕虜はピエドラス・ネグラスの称号を持つ貴族と考えられているようです。

ピエドラス・ネグラスではこの時代 キニチ・ヨナル・アーク3世 (758-767) が在位していて、 761年(9.16.10.0.0.) を記念した石碑 14 では 758年の自らの即位を記し、5年後の 766年にも石碑 16 を残しており、759年に貴族がヤシチランに 捕虜にされたとしても王朝自体は維持されています。


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          (Dintel 9, 768AD Yaxchilán, MNA)

鳥ジャガー4世 最後の石板 9 が 768年に作られ、鳥ジャガー4世が義兄弟の偉大な頭蓋骨と杖の交換を行い、次の若い王の為の摂政職を委嘱している とも考えられます。 鳥ジャガー4世はこの儀式の後 間もなく死去したようです。


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 (Dintel 58, Yaxchilán, MNA)             (Detalle de Dintel 58)

ヤシチランでは鳥ジャガー4世の後に 楯ジャガー3世 (イツァムナーフ・バラム4世) (769- 800) が後を継ぎ、ピエドラス・ネグラスでもキニチ・ヨナル・アーク3世の後に ハ・キン・ショーク (767-781) が即位と、ほぼ同じ時期に王が代わっています。

楯ジャガー3世は鳥ジャガー4世の子供として順当に王位を継承し、支配地域も軍事指導者達も鳥ジャガー4世の時代そのままに維持されたようです。  メキシコの人類学博物館に展示される石板 58 には、楯ジャガー3世(右側)と向かい合って 鳥ジャガー4世の時代から軍事面のリーダーだった 叔父の偉大な頭蓋骨が刻まれており、対外的にもヤシチランの勢力が保たれたようです。 建築活動も続けられ、アクロポリス東端に建造物 20 が 作られ、更に東へ向かって街づくりが進んでいました (この部分は遺跡では未修復で見学コース外)。

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      (Estela 13, 771AD Piedras Negras, MNAE)    (Dintel, Sitio R, 783AD Kimbell Art Museum)

ピエドラス・ネグラスではハ・キン・ショークが5年毎の記念物の奉納を続け、771年の石碑 13 (写真左)が考古学人類学博物館に展示され、他に 775年の 石碑 18 、780年の石碑 23 が作られたようですが、神聖文字の刻まれた記念物はヤシチランと比べて少なく、キニチ・ヨナル・アーク3世とハ・キン・ショーク 王の時代については即位の日付以外あまり詳しい史実は知られません。 残された記念物の数を見る限り、 ヤシチランの方がかなり活発だったようです。

この時代の出所不明の石板(写真右)がテキサスのキンベル美術館 に展示されています。  鋸で精巧に4つの断片に切り分けて密輸されたようで、残念ながら出所不明になってしまいましたが、玉座に座っているのは楯ジャガー3世です。   ヤシチラン支配下で場所の特定されていないラシュトゥーン、或いはラ・パサディータ辺りの衛星都市からのものと考えられ、地方の王から3人の捕虜が 楯ジャガー3世に引き渡されている場面です。 ヤシチランに従属する周辺国でこれだけ質の高い石造物はちょっと驚きです。

楯ジャガー3世は妹をボナンパックのチャン・ムアーン2世に嫁がせ、ラカンハを含めて南西の地域の支配確立を進めたようで、ボナンパックにも楯ジャガー3世 の姿が石板に残されます。


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 (Estela 15, 785AD Piedras Negras, MNAE)      (Trono 1, 785AD Piedras Negras, MNAE)

ヤシチランで楯ジャガー3世の治世が続く中、ピエドラス・ネグラスでは 781年に 支配者7 (781-808? ) が即位します。 古典期終末期に近く それ程繁栄を極めていたとも思われないピエドラス・ネグラスですが、工芸面で大きな進歩の跡が見られ、 785年の石碑 15 には支配者7の 781年の即位が記され、王は丸彫りに近い姿で残されます。 この石碑 15 と共に考古学民族学博物館に展示されている玉座1は 更に見事な造りで、息を呑むような美しさです。 (支配者4の所で紹介した石板 3 も支配者7の時代の 795年頃に作られています。)

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         (Estela 12, 795AD Piedras Negras, MNAE)

では軍事面ではどうだったかと言うと、考古学民族学博物館に展示されている石碑 12 に戦争の記録が見られます。 戦争の相手は上流のヤシチランとは反対の 下流域になる ポモナ で、792年と 794年の二度に亘って星の戦争を仕掛けてポモナを 制圧したようです。

石碑には上段に支配者7が玉座に座り、中段には二人の高位の戦士に挟まれてポモナの王が座らされています。 戦士の一人は石板 3 に 幼少の時代の支配者と共に刻まれていたラ・マールの王子(当時)で、成人してラ・マールの王 として支配者7と一緒に星の戦争を進めたようです。  石碑の下には捕虜が 8名が描かれ、名前も彫られていて名のある貴族だったようで、この戦いの後ポモナは滅び去ったようです。

ヤシチランは南西部を固め、ピエドラス・ネグラスは北西部を平定していった事は上記の様に知られますが、両者の直接対決はどうだったのでしょうか。  古典期マヤの崩壊を目前にして、碑文からは窺い知れませんが、8世紀後半には両王朝ともそれぞれに繁栄を 続けていたようです。 そしてその最後の決着は古典期終末期になって…。



《 古典期終末期  Clásico Terminal 》

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 (Dintel 10, 808AD Yaxchilán, Corpus of Maya Hieroglyphic Inscriptions 3-1)

古典期終末期に当たる9世紀に入った頃、ヤシチランは楯ジャガー3世から息子のキニチ・タトゥブ・ 頭蓋骨4世 ( 800 - ) に引き継がれます。 古典期終末期になると碑文記録は殆どなくなり、キニチ・タトゥブ・頭蓋骨4世の即位日も 正確にはわかりません。

キニチ・タトゥブ・頭蓋骨4世の唯一確認されている石造物は 808年に作られた石板 10 で、彫刻の質は高くありませんがヤシチランの最後の石造物として 重要な意味を持ちます。 現在どこに保管されているものかわからず、ピーボディー博物館の出版物からスキャンさせて貰いました。

石板 10 にはキニチ・タトゥブ・頭蓋骨4世の戦争の記録も刻まれ、最後の2文字(E8とF8) にピエドラス・ネグラスの支配者7が捕虜になった と書かれているそうです。 こうしてヤシチランとピエドラス・ネグラスとの積年の宿命の争いは、最後は ヤシチランの勝利で終わったようです。
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                                                (Glifos E8 y F8 de Dintel 10)

ピエドラス・ネグラスでの現地調査では焼かれた跡も見つかっているそうですが、古典期マヤ崩壊の時期にあって、宿敵を倒したとは言え、 ヤシチラン自体もキニチ・タトゥブ・頭蓋骨4世の後の王は知られず、程なく歴史からその姿を消していきます。





マヤの戦争2 ヤシチラン対ピエドラス・ネグラス はここまでですが、折角なのでその他の有名なマヤの対立も少しだけみてから このページを終わりにします。

パレンケ 対 トニナ  Palenque vs Toniná
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マヤ中部地域で、ウシュマシンタ川の西に位置するパレンケとトニナも互いの利害関係から度々戦火を交えていたようです。

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 (Tablero de los Guerreros, Templo 17, Palenque)

パレンケ遺跡で十字のグループの南に隣接する神殿 17 に写真のパネルがあります。 有名なパカル大王の後を継いだ キニチ・カン・バラム2世 (在位 684-702)が槍を持って立ち、足元に縄目を受けた捕虜が跪きます。 捕虜はキニチ・カン・バラム2世 が 687年トニナに攻め込んで捕虜にした トニナの支配者2 (668-687)で、トニナでは 立像(写真下左)も作られている王ですが、翌年 688年には次の王が即位することになります。

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 (Monumento 26, Gobernante 2 de Toniná, MNA)    (Monumento 65, Toniná, Museo de Sitio)

支配者2が敗れたトニナは次の王 キニチ・バークナル・チャーク (688-704- ) が急速に勢力 を回復し、ウシュマシンタ川流域を東から北に攻め上がります。 ボナンパックを抑え、北のアナイテやラ・マールからも捕虜をとり、パレンケとの抗争が 続いたようで、トニナの球戯場のマーカー(写真中央)にはパレンケからの捕虜が据えられます。 右は遺跡の球戯場に付けられたマーカーの複製です。

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 (Monumento 172, Toniná, Museo de Toniná)    (Escultura de Pricionero, Juego de Pelota, Toniná)

左の石板 172 は 692年の戦闘で捕えたカウィール・モと言う名前のカン・バラム2世の指揮官、右の 2011年に球戯場で発見された石像も 同じ戦闘で捕えられたとブクと言う貴族(Arqueologia #135)で、こちらは 696年の球戯場の奉納で供犠に供されたと考えられるようです。 687年に王を捕えられた トニナでしたが、後を継いだバークナル・チャーク王が直ぐに反抗に転じた様子が窺い知れます。

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 (Monumento 122, Toniná, Museo Regional de Chiapas)     (Monumento 153, Toniná, Museo de Sitio) 

こうしてパレンケに対して攻勢を強めていたトニナはキニチ・バークナル・チャークの後、支配者4 (708-723? ) が即位します。 支配者4は幼少でしたが、キニチ・バークナル・チャークの時代からの高位の貴族達が補佐し、711年にはパレンケに 星の戦争を仕掛け、パレンケまで攻め込んでキニチ・カン・バラム2世の後を継いだ カン・ホイ・チタム2世 (702-711)を捕虜にとります。 この勝利はチアパス地方博物館所蔵の石板 122 (写真左)に刻まれ、太腿に名前が記されたカン・ホイ・チタム2世 の哀れな姿が残されます。 パレンケではこの敗戦後 10年の間 王が不在となり停滞期に陥ったようです。

支配者4の時代の石板として 石板 153 (写真右)が有名で、刻まれた神聖文字から捕虜がカラクムル出身と判明しているそうで、カラクムルとどんな戦いが 交わされたのか 興味深い所です。 トニナ遺跡併設の博物館 には捕虜の石板や王の 立像が数多く展示されています。

キリグア 対 コパン  Quiriguá vs Copán
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ヤシチランと ピエドラス・ネグラス や パレンケと トニナのような宿命のライバルの対決とは異なりますが、絶頂期にあった王を突然奈落の底に突き落とした キリグアのコパンに対する下剋上も古典期マヤの有名な事件です。

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  (Estela D de Copán)                      (Estela C de Copán")

王の広場とも呼ばれるグラン・プラサに自らの姿を刻んだ素晴らしい石碑を7本も並べ、一世を風靡していたコパン王 ワシャクラフーン・ウバーフ・カウィール (18ウサギ王) (在位 695-738)ですが、突然の悲劇に見舞われます。 738年にキリグアの カック・ティリウ・チャン・ヨアート (724-785) の襲撃を受けて捕虜となり、キリグアで供犠 に付されてしまうのです。 写真は石碑Dと石碑Cに刻まれた悲劇のウバーフ・カウィール王の素顔です。

キリグアはカリブ海に抜ける大河モタグア川の川岸に築かれ、他方コパンはモタグア川の支流コパン川の川岸なので、地理的にはキリグアの方が交易の 要衝を占めますが、426年の初代キリグア王の即位はコパンの初代ヤシュ・クック・モに後見されており、キリグアは当初からコパンの出先、若しくは属国 だったようです。 この為キリグアの突然の攻撃は裏切り若しくは反逆と言えそうです。 

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       (Estela D de Quiriguá)                (Estela J de Quiriguá, sacrificio de Rey de Copán) 

カック・ティリュウ王はコパンに倣ってグラン・プラサに自らの石碑を7本残しています。 高さ 8m を超える石碑Eがマヤで最も高い石碑として有名ですが、 一番破損と風化の少ない石碑D から王の素顔を見てみました。(写真左)  石碑D は 766年に建立されており、738年当時 カック・ティリュウ王は 30歳前後 だったようなので、この石碑の頃は 40代後半の壮年だったでしょうか。 ウバーフ・カウィール王の生年は不明なので 738年の時点で何歳だったかわかり ませんが、石碑に現れた二人の王の素顔を見比べてみるのも一興です。

756年の石碑J の碑文にはウバーフ・カウィール王の斬首が記され(写真右)、右上の×印のある文字が斬首、それに続く中段 2文字と下段の左の文字が ウバーフ・カウィール王を表わすようです。

キリグアの突然の反逆の裏にはカラクムルの後押しがあったと言う説もあるようで、ティカルとカラクムルの対立に、ティカル、コパン、パレンケの 枢軸を重ね合わせると何となく頷けるような感じですが、実際の所はどうなんでしょう?

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 (Gran Plaza de Copán)                      (Gran Plaza de Quiriguá) 

写真左はウバーフ・カウィール王の石碑が並ぶコパンのグラン・プラサ、写真右がカック・ティリュウ王の石碑が並んだキリグアのグラン・プラサです。

ヤシチラン、パレンケ、トニナは チアパス州、キリグアは グアテマラ、コパンは ホンジュラス のページにそれぞれの詳細の訪問記 があります。 アクセスの難しいピエドラス・ネグラスは未訪問です。



以上 碑文から読み解かれた史実をマヤの対立と戦争の視点から見てきました。 碑文は限定的で風化も進んでおり、解き明かされた史実は全く 不完全な為にフラストレーションが溜まります。 でもメゾアメリカの古代文明で、残された文字記録から当時の様子が垣間見れるのはマヤ文明だけで、 これがマヤの面白さと言えるでしょう。


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