マヤ遺跡探訪
CEIBAL
ペテン県南西部を流れるパシオン川の流域は古くから栄えた地域で、セイバルはパシオン川沿いの断崖上に築かれた先古典期 からのマヤセンターでした。

パシオン川南側のペテシュバトゥン地域では 7世紀前半からドス・ピラスを中心に戦乱が繰広げられ、セイバルは 735年に ドス・ピラスに制圧されますが、761年にはドス・ピラス自体が周辺勢力に追われ、セイバルはまた独自の道を進んで、古典期 終末期の崩壊を迎えます。

セイバル遺跡の存在は19世紀末から知られ、60年代の発掘調査で一部建物の修復が行われたものの、殆どは修復の手が及んでいません。
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     (訪問日 2010年11月24日)
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 (Aterrizaje al Aeropuerto de Flores)

ペテシュバトゥン地域遺跡訪問の初日がセイバル。 まずグアテマラ・シティーからTACAの早朝便でフローレスへ。 フローレス島を 左手に見ながら着陸です。 機体は ATR-42 で大きな手荷物は不可、預けさせられます。

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 (Embarquedero de Sayaxché)

フローレスから車で南へ、パシオン川沿いの町サヤスチェを目指します。 道は空いていて 61Km の距離のところを1時間弱で着いて しまいます。 写真左はサヤスチェの船着場で、宿泊地プンタ・デ・チミーノはここから南、でも東へセイバルを目指します。

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 (Vista aérea de la región de Petexbatún)

サヤスチェから南のペテシュバトゥン地域を空から見てみます。 (画像はクリックで拡大出来ます。) セイバルへは蛇行するパシオン 川を東へ 16Km遡ります。 GOOGLE EARTH でセイバルに近づいてみましたが、衛星写真の解像度の悪さもあってか全く建物は確認 できませんでした。

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 (Las aves encontradas en el Río La Pasión : Wood Stork)

水量豊かなパシオン川を一路東へ。 でも船旅は順調ではありません、何故ならこの写真。 豊かな自然がそこにあり、 しばしば船を停めて貰う事になりました。 写真はコウノトリの仲間のアメリカトキコウです。

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 (Osprey)

木にとまっていたミサゴもボートに驚いて飛び出します。

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 (Ringed Kinngfisher)

そしてクビワヤマセミも。 すぐ逃げてしまうので、望遠レンズが必須です。

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 (Río La Pasión)

この辺りのパシオン川は川幅が広く流れもゆったりしていました。
パシオン川は下っていくとサリーナス川を経てメキシコ国境の ウシュマシンタ川に合流し、最後は湾岸のカリブ海に抜けます。 また反対に遡っていくとペテン県を出てアルタ・ベラパス県に 至ります。 こうしたグアテマラ中部からウシュマシンタ川を通り海に繋がるルートは、古典期後期まで重要な水上交易路 になっていました。 

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 (Río La Pasión)

川岸にはマヤの聖なる木、セイバもあり、熱帯の密林が広がります。

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 (Embarcadero de Ceibal)

道草ばかりで、1時間以上かかってしまいましたが、やっとセイバルの船着場です。

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 (Embarcadero de Ceibal)

ボートを係留し、遺跡へ。 赤いシャツは今日から3日間、ボートを運転してくれるアルフォンソ君。 グアテマラ南部の漁村 出身だそうで、ボートの操縦はお手の物。 

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 (Rótulo del sitio)

セイバルはセイバが沢山生える所の意味で、近くにあった木材切り出し場の名前から来ているそうです。 それにしてもスペルが Ceibal、 El Ceibal、 Seibal とまちまちで、英語で Seibal になってしまったようですが、ここでは Ceibal を採用。

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 (Subiendo la escalera puesta sobre la escarpa)

遺跡は断崖の上に広がる丘陵に築かれている為、セイバの木を横に見ながら、断崖につけられた急な階段を登っていきます。

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 (Subiendo la escalera puesta sobre la escarpa)

途中階段の崩れている所もありますが、兎に角上へ上へ。 15分かかって登りきりました。 やれやれです。 高低差は 100m 近く になるようです。

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 (Mapa del sitio)

地図で確認してみると、パシオン川の船着場(Embarquedero)から 南北に伸びるサクベ II まで赤で線を引いたところが 15分の 崖登りです。 等高線の低い部分を辿っていったので、およそこんなルートだったでしょうか。

セイバルの中央部はグループA、C、Dに分かれ、サクベ I、II、III で繋がれています。 修復された建造物は C-79 と A-3 だけで、 まずサクベ II を南へ C-79 に向います。 青い線はサクベ上を歩いた所を示します。

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 (Camino hacia Estructura C-79)

”川へ”の表示ですが、ここは”川から”でした。 右の写真は南へ向うサクベ II で その先が C-79 です。

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 (Estructura circular C-79)

サクベ II の突き当たりに 三層の円形ピラミッド C-79 がありました。 西側が正面で幅広の階段があり、階段の前に祭壇を伴います。  反対の東側にも基壇に沿って小さな階段が取り付けられていました。

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 (Una araña grandota, Tarántula)

C-79 の表示と、祭壇の下にタランチュラを見つけたので その写真を1枚。 腹が赤い 10cm 以上ある大物で、遠くから望遠気味に 恐る恐るパシャ。

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 (Altar de jaguar en frente de C-79)

祭壇はかなり風化が進んでいて、支えになる3つの石の上にのった円形の祭壇にはジャガーの顔が認められます。

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 (Estructura circular C-79)

C-79 は古典期終末期にあたる 870年頃に古い基壇の上に築かれたそうで、この時代 メキシコ中央高原の影響を受けていたと言う指摘も あります。 円形の建造物は、風の神エヘカトゥルを祭ったものと言われますが、どうでしょうか。

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 (Hacia Grupo A)

次にグループAの A-3 を目指します。 サクベ II を北に戻るとキャンプ(Campamento)への標識があり、ここからサクベ II を左に折れて赤で示した経路を西へ向います。 その角に土塁がありますが…。

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 (Montículo de Juego de Pelota)

これがその土塁で、南北に土塁が向かい合っており球戯場の跡です。 と言っても石組みは殆ど認められず、どんな形状をしていた のか? また普通 球戯場の側壁は東西に並びますが、ここでは南北です。

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 (Hacia Grupo A)

赤で示した経路を通ってグループAへ向うと前方が明るくなって黄色いスクールバスが見えてきます。

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 (Campamento de Ceibal)

ここがキャンプでした。 何故大型バスが絶壁の上の丘陵に? 実はキャンプの裏側には道路があり、セイバルへは車でも来れるそうです。  でも急階段を登ってセイバルの立地を実感するのも良いかもしれません。

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 (Maqueta de Ceibal en el Campamento)

キャンプにはセイバルの復元模型があり、赤く塗られた建造物群が示されます。 この写真では右が北になり、手前がグループD、 サクベの先がグループC、一番奥がグループAになります。

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 (Réplica de estelas en el Campamento)

またキャンプの一角には石碑が3本立てかけられており、実物と置き換える為の複製と聞きました。 と言う事は遺跡には実物が?  後でよく確認してみたら、写真の左側の石碑は石碑11、真ん中は石碑14、右が石碑2の複製でした。

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 (Plaza Sur de Grupo A)

キャンプからグループAに向います。 と言っても修復されて見れるのは建造物 A-3 だけ。 キャンプからだと広場に西側から 入る事になり、見えてきたのが A-3 の西側でした。

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 (Plaza Sur el la maqueta)

復元模型からグループAだけ取り出してみました。 広場の真ん中にある矩形の神殿が唯一修復された A-3 です。

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 (Estructura A-3)
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A-3 は三層の矩形の基壇上に神殿が設けられたもので、基壇の四方に各1本と上部神殿内に1本、計5本の石碑があります。  ドス・ピラス王朝崩壊後にセイバルの王 ワトゥル・チャテル(在位 830-889年頃)が 849年にカトゥンの終了を祝って 建造物 A-3 と石碑5本を奉納したと考えられます。 

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                   (A-3 reproducido hipotéticamente)

現在は上部神殿の屋根が崩れていますが、60年代の調査で崩れ落ちた上部壁面の漆喰彫刻が一部回収され、この図像のような 想像復元図が作られました。 トルテカ様式の基壇の上にプーク様式の神殿が載り、壁面装飾はウシュマシンタ様式? 何だか ごった煮の建造物に見えますが、逆に独創的とも言えます。

四方に開いた入口の上にワトゥル・チャテル王の像が置かれ、王の左右と四方の角に更に 12体の 像が嵌め込まれ、全部で 16体の像が神殿上部を取り囲んでいたそうです。

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 (Templo superior de A-3)

これは神殿上部が崩れた現在の姿。 神殿内部はマヤアーチで支えられた南北に細長い部屋が3室並び、東西の通路で 結ばれていました。 東西南北どの方向からも同じ形に見える神殿ですが、中央に置かれた石碑は東を向いているので、東が 正面だったのかもしれません。

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 (Boveda falsa de A-3)

中央通路から各部屋の断面をみるとマヤアーチの屋根が確認できます。 真ん中の部屋の先に見えるのが建物北面の石碑9に なります。

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 (Estela 21 colocado en el centro de A-3)
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 (Estela 9 al oeste del Templo y Estela 10 al norte)
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 (Estela 11 al este y Estela 8 al sur)

神殿 A-3 に奉納された石碑5本、上から神殿中央の石碑21、西面の石碑9、北面 石碑10、東面 石碑11と南面の石碑8で、 全てワトゥル・チャテル王が彫られています。

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 (Detalle de Estela 11 al este y Estela 8 al sur)

石碑10と8からワトゥル・チャテル王の横顔を見てみました。 左の方は伝統的なマヤ王にはない髭をつけていると説明され ますが、模写でも見ないとあまりはっきりしませんね。

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 (Foto panorámica de oeste de la Plaza Sur)

広場の西側のパノラマ写真。 右奥に小さく石碑が見えますが…。

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 (Estelas 20 y 13)

これが西側にある石碑20と石碑13。 13は 870年の日付が刻まれ、20の方は日付が 889年と セイバル最後期の石碑です。

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 (Foto panorámica de noreste de la Plaza Sur)

このパノラマ写真は広場の北から東方向。 

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 (Estela 1)

この石碑1も同じくワトゥル・チャテル王で、869年、つまり A-3 で祝った次のカトゥンでしょうか。

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     (Estelas 2 y 3)

広場の北の奥にある石碑2(写真左)は唯一正面を向いた顔が彫られています。 870年頃のものとされ、伝統的なマヤとかなり異なる 様式で、異民族の侵入や異文化の影響が感じられます。

右側の石碑3は石碑2に並んで置かれていましたが、現在は首都の国立博物館に展示されています。 この石碑は構図と言い、描かれて いる人物の衣装と言い全くこれまでのマヤの石碑とは異質で、日付にはメキシコ中央高原のカレンダー文字が使われいて、プトゥン・ スタイルだと言われます。 日付は 810年との事で、ワトゥル・チャテル王以前の石碑になるかもしれません。 謎の多い石碑です。

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 (Plaza Sur, vista desde este)

神殿 A-3 を大分回り込んできて、これは東側からみた広場で、右の方、広場北東に更に石碑が1本あります。

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 (Estela 19)

これは石碑19で、日付はわかりませんが、メキシコ中央高原の影響を受け、王は風の神エヘカトゥルの姿をしているそうです。  写真からはよくわかりませんね。

英語版の Wikipedia によると、広場の北側には更に 780年頃の石碑5、6、7があったようで、これはアハウ・ボット王 (在位 771-800年頃)の時代にあたります。 残念ながら遺跡では確認出来ませんでしたが、後の王朝により壊されたのでしょうか。


グループAは以上です。 と言っても A-3 がある所はグループAの南広場。 更に北へ中央広場や北広場が広がり、 2006年には調査発掘が行われていますが、現在の一般的な観光コースは南広場まででしょうか。 プロのガイドさんがいれば もう少し茂みをかき分けて先に進めたのかもしれませんが、道案内はボートのアルフォンソ君でした。


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 (Mapa del sitio)

グループAを後にして帰途につきます。 帰りはキャンプを通らず広場の東側から地図の青線に沿ってサクベ I を東へ 戻ります。

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 (Salida hacia Sacbé II)

写真左は広場の東側に口を開けたサクベ I に通じる出口。 出口の先のサクベ上に石碑が1本、これはかなりボロボロです。

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 (Salida hacia Sacbé II)

ボロボロの石碑の先は道が下り、東へ進んで行きます。 右は東に伸びるサクベ I 。

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 (Estela 14)

サクベ I、II、III の合流点に状態の良い石碑14が立っていました。 複製がキャンプにあったので、ゆくゆく複製に置き 換えられるのかもしれません。 870年頃の石碑とされ、チチェン・イッツァの彫刻との類似性も指摘されます。

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           (Punto de bifurcacion de los tres sacbé)

石碑14は正面から見ると石碑というより立体的な石像にも見えますが裏側には彫刻はありませんでした。

サクベ I は分岐点の先がサクベ II になり、その先にグループDがある筈ですが、アルフォンソ君から行けないと言われて素直に 従ってしまいました。 どうなっているのか行ってみても良かったかもしれませんが手遅れですね。 この分岐点を右(南)に折れて サクベ II を通り、元来た断崖を降りて船着場へ戻ります。

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 (Viaje de regreso a Sayaxché)

セイバルの船着場へは午前11時過ぎに到着、出発は1時を回ったところで、2時間弱の滞在になりました。 ここから サヤスチェに一度戻り、預けた荷物をピックアップして、パソ・カリーベ経由宿泊地のプンタ・デ・チミーノへと向います。  パソ・カリーベではドス・ピラス行きのガイドと馬の予約を済ませ、明日はいよいよ アロヨ・デ・ピエドラ 経由、 ドス・ピラス です。


セイバルは先古典期中期に人々の居住が始まり、先古典期後期にかけて周辺を含めると1万人程度の人口を抱えるセンターにまで 成長したようです。 しかしその後衰退期を迎え、理由は不明ですが古典期前期に当たる 300-600 AD 頃、街は放棄されます。  この辺りは発掘された土器等による考古学の世界でしょう。

古典期後期初頭にセイバルは再興されたようですが、その後のドス・ピラスの侵略により その歴史は 解明されません。 ドス・ピラスやアグアテカの石碑にはセイバルの記念物を破壊した旨の記述があるそうです。  Aグループの 中央広場にはセイバルがドス・ピラスの属国だった時代の神聖文字の階段があるようですが、これは見れませんでした。

結局 遺跡で確認出来たのはセイバル最後期にあたる建造物と石碑だけですが、メキシコ中央高原やユカタンの影響も見られ、 ドス・ピラス王朝崩壊後の歴史解明に大きなヒントを与えてくれるものと思います。 残された石碑には 830年のセイバル再興に ウカナルが優越王として登場したり、849年のカトゥンの祝いにはティカルやカラクムルからの貴族の参列が記されたりするそう で、この辺りがもう少し詳細に解明されると、古典期マヤ崩壊に繋がる大きな手掛かりとなるかもしれません。



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