ジビルチャルトゥン遺跡の地図です。 遺跡の案内板を加工しました。
遺跡全体は 16㎢に及びますが、中心部だけで 3㎢、
この地図はその内で見学できるところだけをカバーしています。 中央広場の南西に南の広場があり、修復中のかなり大きな建造物が
続きますが、立ち入り禁止でした。
(Estructura 41 de Plaza Central)
まず中央広場の方へ行ってみます。 小径を進んでいくとサクベ1にぶつかり、その先に中央広場に面する建造物が見えてきます。
これは小さな建造物 41 の裏側です。
(Capilla Colonial, a la izquierda, y Estructura 36)
サクベ1は東の7つの人形の神殿と西の中央広場を繋いでいて、写真は中央広場にぶつかった所。 広場北側の建造物 36 と
植民地時代に造られた礼拝堂が見えます。
(Estructura 36)
これは建造物 36 の東面です。 基壇が積み重ねられていますが、基壇を繋ぐ階段が基壇の外側ではなく内側に切り込む形で
つけられています。
(Plaza Central y, al fondo, Estructura 44)
建造物 36 の前から広場の南側の建造物 44 が見えます。
(Estructura 44)
建造物 44 は長さ 130m の長い建造物で北側全面に階段があり、上部には列柱が並びます。
手前の木の右側に荘園時代の門のようなものが残っています。
(Capilla Colonial)
建造物 44 から見た礼拝堂です。 西側に開いた礼拝堂で、後ろには建造物 36 が見えます。
この礼拝堂は1590年頃の建造で、例によって建築資材は
マヤ時代の建造物からの流用です。 スペイン人にとってマヤの偶像崇拝は邪悪なもので、マヤの宗教を排斥してカトリックへ
改宗させるのが植民政策の基本でしたから、マヤの建造物を壊して礼拝堂の材料にする事には何の躊躇いも無かったと思います。
残念ですが…。
(Estructura 42)
南側の建造物 44 から東側の建造物 42 を見たところです。 建造物 42 にも列柱があります。
(Estructura 44)
建造物 44 の列柱です。 ジビルチャルトゥンは祭礼のセンターでもあったようですが、この中央広場ではどのような儀式が
行われたのでしょう?
(Estructura 44-sub)
建造物 44 地下で発掘、修復された 44-sub です。 埋蔵建造物なので 建造物 44 より古く古典期前期の建造でしょうか。
ジビルチャルトゥンは先古典期から後古典期まで居住が続き、古い建物の上に新しい建物が積み重ねられて
古い時代の建物はあまり見られません。 最も繁栄した時代は古典期後期で、現存する建物はおよそこの時代のもので、
古い建物は少なく貴重です。
(Cenote Xlacah)
中央広場西側にあるセノーテ・シュラカーです。 海に近く海抜は低いのでセノーテもほぼ地上面にあります。
写真でもわかるように、エメラルド・グリーンの透きとおった綺麗な水です。 これは石灰層の地下水脈が繋がっている為で、水は
流れています。
(Cenote Xlacah)
マヤの時代には、重要な水源であると同時に、儀式を行う場所でもあった様で、沢山の捧げ物が回収されているそうです。
でも現在ではハスの花の咲き乱れる地元の人達の憩いの場所です。 アクアラングを付ければ地下水脈探検が出来るようです。
(Cenote Xlacah)
岸の近くには沢山の小魚が泳ぎ回り、なかには結構大きな魚も入ってきています。
と言う事で、大変に綺麗なセノーテで、最も美しいセノーテと言うのが写真でお判り頂けるでしょうか。
(Estructura grande en investigación, Plaza Sur)
中央広場南の建造物 44 から見て南西側にある建造物です。 高さもあってかなり大きな建造物ですが、現地の案内板には記載
されていません。 赤や黄色のテープが張られて立ち入り禁止でした。
(Estructura grande en investigación, Plaza Sur)
上の写真の建造物の北東角ですが、仮面が二重になったような部分が出ています。
本格的な調査・発掘が進むとなかなか面白そうです。
(Estructura 38-sub)
中央広場の北側に出てみました。 写真は建造物 38-sub で、下にあった建造物が露出しています。 より大きな建造物が上に
積み重ねられていた訳ですが、正面の階段を残して崩れて無くなり、下の建造物が出てきた次第です。
(Estructura 38-sub)
建造物 38-sub を斜めから見たところです。 この辺りが集中的に礼拝堂建設の資材になったのかな、何ていうのは勝手な
想像です。
(Estructura 36)
中央広場に戻って左側は既に見た建造物 36 です。 写真右側には サクベ(マヤの白い道) が奥の方へ伸びていて、
その先に米粒みたいに見えるのが、7つの人形の神殿です。
神殿までは1Km 弱で、熱帯の強い陽射しの下、遮るものは
何もありません。 かなり汗をかきかきの道程になります。 それでは行ってみましょう。
(Tres Estelas sobre pequeñas plataformas)
サクベ1を歩き出して直ぐ右側、建造物 41 と 42 の裏側になりますが、矩形の小さな基壇の上に石碑が載ったものが南北に
3つ並んでいます。 風化したのか、彩色だけだったのか、石碑には彫刻がありません。
(Una caminata calurosa hacia Templo de los Siete Muñecos)
まだまだ遠い道程です。 写真を見るだけでは汗はかきませんが…。 ;;;; ( *‘ へ ’* ) ;;;;
(Estructura 12 con Estela y Templo de los Siete Muñecos)
さて、汗をかかずに7つの人形の神殿前の広場に来ました。 (実際は強い陽射しの下、汗だくですが) 手前は建造物 12、
四方に階段がついた基壇で、無地の石碑が
建っています。
(Estructura 1-sub, Templo de los Siete Muñecos)
これが7つの人形の神殿の全景です。 建造物1-sub という名前からわかるように、地下建造物です。 上に新しい建造物が
被せられた訳ですが、中央階段右側だけ新しい建造物基部を残してあり、左側は古い地下建造物1-sub の基部です。
(Estructura 1-sub, Templo de los Siete Muñecos)
神殿の壁面上部には各面入口上部と角に合計8つのマスクが残ります(写真左下)。 漆喰彫刻の装飾がもっと沢山あったそうですが、
残っていません。
中央階段左側の角もマスクの模様で飾られていて(写真右下)、8枚上の写真の調査中、立ち入り禁止の建造物と酷似した
仕上げでした。 因みにこの建造物は700年代に建てられ、800年頃に新しい建造物で覆われたようです。
(Techo abovedado, el inteior del Templo)
神殿は各面に入口があり、内側に部屋がひとつあって四方を通路で囲まれています。 写真上は内側の部屋の天井を見上げた
ところ、左下は内部通路角の天井、右下は内側の部屋の開口部です。
(Vista de Sacbé 1 a través del puerta del Templo)
内側の部屋の東側開口部から、西側開口部の先に、建造物 12 と 先に続くサクベ1が見えます。
(Tres Estructuras sobre plataforma del Templo 1-sub)
7つの人形の神殿と、石碑のある建造物 12 の間には、3つの建造物が立ち並びます。
ジビルチャルトゥンにはスペイン人による征服まで居住は続きますが、900年頃からチチェン イッツァが隆盛してくるにつれて、次第に
衰退していったようです。
(Grupo Residencial)
ジビルチャルトゥン訪問はほぼ終了ですが、遺跡内に博物館が併設されているので寄ってみます。
サクベ1を戻る途中、左側に住居跡が残っていますが、基礎部分が殆どで、素人にはあまり面白みがありません。
(Figuras de siete Muñecos excavadas en Templo de los Siete Muñecos, Museo del Sitio)
博物館は、ユカタン州の遺跡から集めた石像を展示するテラス、マヤ室、ジビルチャルトゥン室とに分かれ、7つの人形の神殿の
名前の元となった、7体の土製の人形はここで見ることが出来ます。
(Pérgola de los monolitos, Museo del Sitio)
これは石像のテラスの写真です。 いろいろなマヤ遺跡からの石像物が展示されていて、屋外のように見えますが、ガラスの
天井の下です。
博物館については別途ページを改めて、
マヤ民族博物館
としてまとめてあります。
(Vivienda Maya Tradicional, Museo del Sitio)
博物館の庭には、典型的なマヤの住居が2棟作ってあります。 石の土台に、真っ直ぐの蔓で丸く壁面を作り、茅葺の屋根をつけた
造りです。 風通しが良く、熱帯の気候に適した造りです。
(Un pájaro Cardinal que nos despidió)
博物館を出た所で、見上げると真っ赤な鳥がいました。 ナツフウキンチョウという鳥のようで、自然が豊かです。
ジビルチャルトゥンは、ユカタン州で有名なチチェンイッツァやウシュマルより古くから栄えたマヤセンターで、
発掘調査中の南の広場を始め、ペテン様式があちこち顔を出します。 古典期前期からのマヤ遺跡の北限として
興味深く、解読可能な碑文資料でも見つかり歴史が解明されると更に面白いのですが。