SALA MAYA IV
人類学博物館 マヤ室 IV
古典期終末期 Clásico Terminal (800-1000AD)
古典期終末期は、中部低地マヤを中心に各地で繁栄を極めた古典期マヤ王朝
が没落する時代となり、他方ユカタン北部ではプーク地域を中心に新しいマヤの勢力が勃興してくる事になります。
古典期マヤ王朝の崩壊
Caída de Dinastias Maya de Período Clásico
神聖文字で長期暦を刻んだ古典期各王朝は、パレンケで土器に描かれた 799年、
カラクムルの石碑の 810年、コパンの祭壇Lの 822年、ティカル3号神殿石碑の 810年辺りを最後にして、徐々にその幕を閉じていきます。
最後まで生き延びたトニナでも カトゥンの終わりを祝った石像の 909年が長期暦で刻まれた最後の年号になるようです。
古典期マヤ王朝崩壊については いろいろな説があります。 人口増大が環境破壊を招き日照りや作物不良につながって人口が減少した。
王が捕獲され生贄に供されたりと王朝間の争いが激化し絶対王朝が弱体化した。 その他、13カトゥン(260年)毎に拠点を放棄して
移住したという暦の周期説、沿岸航海による交易ルート変更で中部低地が重要性を失い没落したという交易ルート説等々、様々な説明
がなされます。
実際のところ崩壊の原因は定かではありませんが、恐らく上に挙げた色々な要因が重なり王朝が滅亡していったものと思います。
興味の尽きないテーマですが、ここで重要な事は古典期王朝文化が終わり、続くマヤの歴史はかなり異質なものになっていくと言う事です。
強い王の権力を背景にした記念碑や豪華な儀礼用品、副葬品が見られなくなり、文字記録が無くなって歴史は闇の中となります。
と言う事で、王朝文化没落期の古典期終末期に当たる展示物は数少なくなります。
プーク地域の勃興 Desarrollo de Región Puuc
古典期王朝文化の崩壊と時を同じくして、ユカタン半島北部でプーク地域
を中心に新しいマヤのセンターが勃興してきます。 代表的な遺跡は、ウシュマル、カバー、サイール、ラブナー、そして後古典期
前期の代表的な遺跡となるチチェン・イッツァーです。
(Columna esculpida de Bakná) (Escultura de Cumpich) (Reina de Uxmal)
有名なプーク遺跡以外から古典期終末期とされる石造物がふたつ展示されています。 左のバクナのL神が彫刻された円柱と、
中央のクンピックの見事な
○○ を持つ石像です。 クンピックはシュカルムキンの北側、
バクナはトーコックの北西で、共に殆ど無名ですが、カンペチェ州の北部でプーク地域に隣接します。
右は有名なウシュマルの女王と呼ばれる石造彫刻で、占い師のピラミッド周辺の建物を飾っていたものです。
向って左側の頬には刺青が施されていて、実際は女王ではなく男性です。
(Mascarón de Chaac, Kabah) (Cabeza de Señor de la mano fuerte, Kabah)
左はカバー遺跡からの雨の神チャーク像、 30位の細かく彫刻された石片で構成され、プーク様式で特徴的なモザイク彫刻です。
前方に渦を巻いて突き出た鼻は 遺跡に有るチャーク像では欠けてしまったものが多いですが、これはほぼ完全です。 カバーの
コズ ポープは前面が 250体位のこのチャーク像で埋め尽くされ、見るものを圧倒します。
右もカバーのコズ ポープからで、建物裏側の壁面上部を飾った「強い手を持つ男」の頭部彫刻のひとつです。
これらの石造彫刻はプーク様式建造物の壁面を飾ったもので、部分部分を見てもその素晴らしさ、凄さはわかりません。 実際に
こうした壁面彫刻で飾られた建物の写真は
ウシュマル遺跡 、
カバー遺跡 のページを参照ください。 マヤ室では復元された
サイールの大宮殿(下の写真)で 壮大な壁面装飾の一部が確認出来ます。
(Reproducción de El Palacio, Sayil)
後古典期 前期 Posclásico Temprano (1000-1250AD)
後古典期 前期は
チチェン・イッツァー 全盛の時代になり、
マヤ室の展示も殆どがチチェン・イッツァーからのものになります。 チチェン・イッツァーにはプーク様式とトルテカ様式が共存しますが、
マヤ室ではトルテカ様式の遺物が中心に紹介されています。
(Chac Mool de Plataforma de Águilas y Jaguares, Chichén Itzá)
生贄の心臓を捧げたと言うチャック モール。 ワシ(とジャガー)の基壇からのもので、恐らく残っているチャック モールの中で
最も状態が良いものだと思います。 両手で腹の上に支えた小皿が心臓を置いたところ、恐いです。 下の拡大画像で細かい彫刻が
見えます。
(Esculturas de Atlantes de Templo de los Jaguares)
これはジャガーの神殿からの アトランティスの柱で、マヤ室には状態の良い4本が展示されています。 天と地を繋ぐギリシャ神話
のアトラス神からスペイン人が名付けたものと思いますが、両手を挙げて戦士の姿をした柱がアトランティスと呼ばれるようです。
机や祭壇を支える小柱や建物開口部の柱などに用いられ、チャックモールと共にトルテカ様式の特徴になります。
(Lápida de Jaguar, Plataforma de Águilas y Jaguares) (Cabeza de Serpiente)
(Hombre saliendo de boca de Serpiente)
トルテカ様式ではワシ、ジャガー、ヘビが主要なモチーフで、左はワシとジャガーの基壇壁面にあった心臓を貪り食うジャガーの浅浮き彫り。
中央は階段手摺り下に置かれたヘビの頭 (ヘビは遺跡で随所に見られます)。 右は壁面を飾ったヘビの口から頭を出す人物像です。
(Tablero de Hombre disfrazado de Pájaro, El Osario)
(Estandarte de Jaguar recuperado de Cenote Sagrado)
左の石造パネルは高僧の墓 (El Osario) の上部神殿壁面を飾ったもの、鳥に扮して踊る 王杓を持った人物が彫られています。
右側の2枚は聖なるセノーテから回収されたジャガー石像で、写真では見えませんが背中に竿を差す穴があって旗持ちです。
聖なるセノーテの説明は下の方で…。
聖なるセノーテからの奉納物 Ofrendas recuperadas de Cenote Sagrado
チチェン・イッツァーの聖なる泉では生贄を含めて数多くの奉納物が投げ込まれたようで、1882年と1968年には水を抜いて発掘調査が行われ、
沢山の遺物が回収されています。 かなりのものが海外へ持ち出されたり闇に流れましたが、マヤ室にこの回収物を展示したコーナー
があります。
(Sección de Ofrendas de Cenote Sagrado)
金製品や土器等 セノーテから回収された遺物を中心に展示したコーナーです。 詳細は下の個別写真で。 装飾された円盤はひとつ
何処かへ貸し出されていたようです。
(Vasijas policromadas recuperadas de Cenote Sagrado)
人物像が描かれた彩色土器がふたつ有りますが、古典期のものと随分様式が異なるようで、長い間水没していた為にあちこち絵が
剝げ落ちていますが、当時の人物像が認められます。 右は口の周りを黒く塗った戦士だそうです。
(Artículos de Oro ofrendados en Cenote Sagrado)
生贄の人骨や木製品も沢山ありましたが、ここで展示されているのはその他の目ぼしい回収品です。 金製品はこの時代マヤ地区では
作られておらず、コスタリカやパナマ辺りから交易されたものが奉納物としてセノーテに投げ込まれました。
(Discos con la representacion de cabeza de Serpiente, Sub-estructura de El Castillo)
トルコ石や珊瑚、貝で細工された円盤があり、セノーテへの奉納物かと思いましたが、円盤はカスティーヨの地下建造物からの
発掘品だそうです。 右の金製の円盤にはトルテカ風の戦士が打ち出されていてチチェン・イッツァーでの細工でしょうか?
出所はセノーテかどうか判りません。
セノーテからの回収物は別として、チチェン・イッツァーからの展示品、プーク地区遺跡の展示品等、ユカタン州の遺跡に関しては、
メリダに有る
”カントン宮殿” 地方人類学博物館 の方が充実しており、メリダ訪問
の際は必見です。
後古典期 前期の陶器 La Cerámica del Posclásico Temprano
セノーテからの奉納物の反対側の展示ケースに後古典期 前期の陶器がまとめられています。
(Sección de Cerámicas de Posclásico Temprano)
ここにあるのは日常の生活用品ではなく特別な目的で作られたもので、古典期とは作風が異なります。 工芸的に見て古典期より優れたもの
とは思えません。
(Ceramicas de Posclásico Temprano)
造形的にはなかなか面白いものもあります。 右側の老人の顔の表情は浮世絵の写楽みたい?
(Ceramicas de Posclásico Temprano)
出所が明らかでないものが多いですが、中央はカンペチェ州エツナ遺跡からのもので、展示場所はこのコーナーではなく、シュカンブの交易品
の近くに置かれています。 もうひとつ別のコーナーにあった後古典期 前期のトラロック?の壷、チアパス州タパチューラ出土です。
後古典期 後期 Posclásico Tardío (1250-1550AD)
1200年頃 イツァー家のチチェン・イッツァーが衰退し、ココム家の
マヤパン
に覇権が移りますが、前期のチチェン・イッツァーの壮大な建造物と比べると、後期のマヤパンの建造物は質量共に大分見劣りします。
そのマヤパンも 1450年頃には没落し、その後 16王国が乱立して、スペイン人の上陸を迎える事になります。
マヤパンからのものとしては、香炉が2点と、ククルカンのピラミッド階段下を飾った ヘビの頭がマヤ室に展示されています。
(Incensario con la representación de Itzamná) (Incensario con Chaac) (Cabeza de Serpiente)
後古典期後期はメキシコ中央高原の神々を模した香炉が多く作られたようで、左は創造神イツァムナを表したもの、中央は雨の神チャークが
樹脂のコパルと壷を持ったもので、マヤブルーや赤、黄、白が マヤパンの土器で特徴的です。 ヘビの頭は風化が激しく、使用した石灰岩
の質も低かったかもしれません。
(Incensario de Dios del Maíz descendente, Dzibanché) (Incensario de Tláloc, Balamkanché)
左はマヤパンのものに似ていますが、キンタナ ロー南部 シバンチェのトウモロコシの神の形をした香炉で、後古典期に良く見られる
降臨する神の姿勢をしています。
シバンチェ は古典期前期からの
遺跡ですが、古典期が崩壊した後も細々と街は続いたようです。
右側の2枚の写真は同じもので、洞窟遺跡として知られる
バランカンチェ
からの香炉、 雨の神トラロックの図柄です。 素焼きした後に左半分を青、右半分を赤で着色してあります。
(Dios Descendente de Tulum) (Estela de Cozumel)
左は
トゥルーム で建物入口上部を飾った、
降臨する神の漆喰彫刻。 後古典期の
東海岸建築様式 に特徴的な
建物の飾りですが、保存の為に建物飾りだけ切り取って博物館入り。
右の石碑は、交易の拠点として、また 16世紀に入ってスペイン人との接触の場ともなった
コスメル島 からのもので、マヤ室出口近くに2本展示されている内の1本です。 2本とも雨の神チャークが刻まれています。
後古典期 後期の陶器 La Cerámica del Posclásico Tardío
建築や美術が政治・経済・文化を全て具現するとは必ずしも言えませんが、城壁に囲まれたマヤパンからは常に戦争に備えていた様子が窺え、その
後 16王国に分裂していった事を考えるとこの時代のマヤは 社会的には停滞し、美術工芸品は前の時代に比べると質量共に見劣りするようです。
(Sección de Ceramicas de Posclásico Tardío)
後古典期 前期の陶器コーナーの隣に後期の陶器が集められています。 展示品の点数も貧弱で、仕上げの粗い土器、陶器が
目立ちます。
(Conjunto ritual, Quintana Roo) (Urna de Pok Ta Pok, Cancún)
左の大型複合陶器が一番質が高そうですが、これはキンタナ ロー州のものです。 一番右の
香炉はカンクンのポクタポク地区からのもの。
スペイン人到来時のマヤは群小国が乱立し、輝かしい古典期からチチェンイッツァーやマヤパンの時代を経て既に衰退期にありました。
スペイン人によるマヤ征服は、モンテホ将軍のユカタン征服がおよそ 1542年頃、最後まで抵抗を続けていたグアテマラのタヤサル
征服が 1697年と言う事になっていますが、文明としてのマヤはスペイン人の新大陸到来を持ってその終焉を迎えたと言えそうです。
マヤ室もこの後古典期コーナーが最後で、入口に戻ります。
さて、国立人類学博物館・マヤ室の紹介は四部に亘る長編になりました。 マヤの歴史を含めて先古典期から後古典期までの展示物を
詳細に見て来ましたが、展示品は飽くまでも実際の遺跡とのセットで初めてマヤの理解を深める事が出来る訳で、是非遺跡の方も訪問
して頂きたいと思います。