(Ruta hacia Dzilam Gonzalez en Google Map)
ユカタン半島北端のリオ・ラガルトスからチスミンを西へ。 バヤドリーまで行けば高速道路で快適なドライブですが、ここは長閑な田園地帯を。 ブクソッツで
州道に入りジラム・ゴンサーレスを目指します。
(Ubicación de Ruinas de Dzilam Gonzalez)
ジラム・ゴンサーレスは海岸線に程近い、人口 6000人に満たない小さな街ですが、歴史を辿るとモンテホ総督がメリダの次に 1544年に建設した由緒ある街で、
この時から組織的な遺跡破壊が始まったと言えます。 その後ペルーで金銀財宝が発見され、ジラム・ゴンサーレスの街は発展せず、お蔭で遺跡の徹底的な破壊を
免れたのかもしれません。 Google地図の ”I”と ”Capilla”の間の 22番通りに車を停めました。
(Capilla de Dzilam Gonzalez)
まず教会の方へ行ってみます。 いつの時代に作られたものか定かではありませんが、マヤの建造物の前ですから 16世紀の街の建設時に遡るのかもしれません。
建築資材は間違いなく目の前のマヤの建造物からの転用で、礼拝堂(Capilla)と呼ばれますが、街の中心的な教会(Iglesia Principal de Dzilam Gonzalez)
になるようです。
(El atrio de la iglesia y tercera estela encontrada)
礼拝堂西側正面の参道脇に彫刻が残る石碑の基部が保存されています。 2005年に行われた INAH による正式な調査で教会の中庭で見つかったもので、
保存の為の屋根があったそうですが、ハリケーンで飛ばされたのでしょう、意味のない柱だけ。 下の石碑1 とおよそ同時代になるようです。
(Estela 1, Gran Museo de Mundo Maya, Mérida y Estela 2, Museo del Pueblo Maya, Dzibilchaltún)
これが冒頭で書いたように博物館に収められているジラム・ゴンサーレスからの石碑です。
左が石碑1 (メリダ・マヤ大博物館蔵) で図柄は2人の捕虜の上に立つ王ですが、王の膝から上の部分は失われています。
捕虜の一人はチチェン・イッツァ近くのイチムル・デ・モーレー出身という説もあり、時代は古典期後期8世紀後半辺りになるようです。
右は石碑2 (ジビルチャルトゥン・マヤ民族博物館蔵) で、王の全身像が残されますが、風化が進んでいるため文字から歴史を辿る事は難しそうです。
石碑の様式から古典期後期から古典期終末期のものと考えられます。
(Estela 1 estaba empotrado a la pared de Palacio Municipal, Arqueologia #122)
ジラム・ゴンサーレスについては Arqueologia #122 Jul-Aug 2013 に6ページにわたる記事があり参考になりました。 左の写真は この記事の中にあったもので、
石碑1 が街の役所の壁に嵌め込まれ、王の脚の上に銃剣付きライフルを持った兵隊が漆喰彫刻で繋げられています。
遺跡は 1544年に街が建設されてから 300年も経って、マヤの探検家 ステファンズとキャザウッドが訪れ、1843年にその著書で世の中に紹介され、その後
テオベルト・マーラーやシルバヌス・モーレーといったマヤの冒険家、考古学者により調査されますが、遺跡は既に大規模に盗掘、破壊を受けており、
マヤ語のジラムは ”剥ぎ取られた” と言うような意味だそうですから、かなり以前から崩壊が進んでいたようです。
石碑1 は 1920年代に壁から取り外され、石碑2 と共に州都のメリダへ送られたそうです。
(Ubicación de Ruinas de Dzilam Gonzalez)
石碑はこの辺にして遺跡に行ってみましょう。
(Lado oriente de Estructura 1)
これは礼拝堂の前から通りを挟んで西側に見える建造物1 です。 19世紀後半の調査では 南北に 100m、東西 70m で高さは 18m 近くあり、廃墟からは
二層の建造物だった事が確認されて宮殿だったと考えられたようです。 20世紀に入っても住宅や道路の建設に石材が持ち出され遺跡の破壊は続き、
廃墟は大分小振りになったでしょうか。
(Lado oriente de Estructura 1)
建造物の西側面は表面が全て剥ぎ取られたようで、外壁の痕跡も見当たりません。 乾季で石ころだらけの土塁は滑りやすく、ちょっと登るのは憚れました。
いい年した日本人がカメラを持って斜面を滑り落ちたなんてシャレになりませんから。
(Esquina entre Calle 22 y 17)
建造物1 の北側に遺跡の入口のように見えるマヤ民家がありましたが、これは普通の民家。 ここからの遺跡侵入は諦めて、ジラム・ゴンサーレスで
残されたもう一つの建造物を捜してみました。
(Estructura 2 sobre la cale 24)
17番通りを24番通りへ北へ折れると建造物2 がありました。
(Lado poniente de Estructura 2)
これが建造物2 の西側面です。 古くは東西 50m、南北 45m で、高さは 16m 近くあったそうですが、現在は通りに面した南北は 30m 程を残して民家に
挟まれています。
(Parte superior de Estructura 2)
建造物2 は元々四方に階段のついた矩形のピラミッドで、城(Castillo) と呼ばれたそうで、イサマル等の巨石 (Megalitico) 様式を残します。
(Esquina suroeste)
階段は崩れていますが、上部の南西角はコーナーが窪んで丸く処理され、古典期前期の巨石様式を示し、イサマルではよく似た形を持つ建物が見られます。
(Esquina noroeste)
上部の北西角は巨石の名の通り、大きな切り石で作られた壁が見えました。 イサマルは南へ 40Km 程で、文化の共通性を有する事から当時はイサマルの交易の為の
拠点だったと言う推論もあるようです。
(Calle 19 y casa privada)
建造物1 には一部当時の石組みが残っている筈で、南側に回り込んでみました。 写真は建造物1 の南側にある 19番通りで、右の写真で白い壁がある所までは
国有化されているようですが、石を積んだだけの塀の部分は私有地です。 写真左がその私有地の民家、ここでお願いして中に入れて貰いました。
(Jardín de la casa Maya y Muro de Estructura 1)
民家の庭です。 あるではないですか、延々と続くマヤの壁が。 壁は優に 10m を超えます。
(Muro poniente del cuerpo inferior de Estructura 1)
これが建造物1 西側の南から北へ延びる石組みで、様式は巨石様式より新しい時代の 初期プーク様式とされます。 およそ石碑1 と同時代になるでしょうか。
(Muro y edificio superior ?)
長く続く石組みの上には崩れた建造物があり、壁は建造物が載った基壇のように見えます。 二層の宮殿だったようですが、どんな形をしていたのでしょう?
(Detalle del Muro)
壁のクローズアップ。 細かい切り石がかなり精巧に組み合わされています。 1000年を超えてこの壁が残ったのはその精巧な造りによるものと思います。
(Parte norte de Muro poniente)
壁に沿って北の方へ行ってみると石ころだらけの土塁があり、その先に粗い石組みが続いています。 表面が剥ぎ取られたのか、それとも後の時代のものに
なるのかわかりません。 生い茂る雑草に阻まれて、行けるのはこの辺りまででした。
(Muro poniente que rebasa 2m de altura)
最後に壁をバックに記念に一枚。 壁の高さは優に 2m を超えそうです。
(Parte de construcción sobre el cuerpo inferior ?)
親切に庭へ入れてくれた民家にお礼を言い、子供さんにと心づけを置いて、19番通りに戻ります。 国有地と民家の境をもう一度覗いてみると何やら別の
石組みが見えました。 望遠で撮ってみましたが、基壇とは異なり上部神殿の一部のようです。
もっと調査して出来るところは修復したらと思いますが、調査は 2005年の1シーズンだけ。 166 の住居跡を確認しマッピングは終わったようですが、
その後はまた荒れ放題。 街に埋もれた遺跡は巨大漆喰仮面や漆喰壁画が回復された
アカンケー や
巨大ピラミッドのキニチ・カクモーが有名な
イサマル があり、遺跡の修復整備が進められましたが、
破壊が進んで魅力の薄れたジラム・ゴンサレースには予算は回ってこないようです。
(Estructura 1, lado sureste)
建造物1 の南東角です。 修復される日は来るのでしょうか?
(Campanario de la Capilla)
イサマルの修道院を建設したディエゴ・デ・ランダがジラム・ゴンサーレスを訪れた 16世紀中頃にはまだ巨大な石碑が数多く見られたそうですが、
壊されて建築資材になったのか、密売されてしまったのか?
イサマルでは石碑は見られませんが、ジラム・ゴンサーレスはイサマルが衰退した後も繁栄を続けた事が残された石碑から窺い知れます。
チチェン・イッツァの支配下で繁栄を続けたのか、この辺りは定かではありません。
チチェン・イッツァの衰退後 マヤパンがユカタン半島の覇権を握りますが、そのマヤパンも 1441年に没落、ユカタン半島は 16 の小王国分裂の時代を迎えます。
アー・キン・チェルというチェル族の王国が イサマルやジラム・ゴンサーレスを中心に栄えたそうですが、その痕跡は現在のジラム・ゴンサーレスの遺跡からは
あまり見られないようです。
失われたマヤの都…、当時の建物の痕跡は残しますが、このまま放置したら消滅の一途でしょう。
最後にジラム・ゴンサーレスの礼拝堂の鐘楼の写真でこのページを終わりにします。