街中の建物が黄色く塗られ植民地時代の面影を色濃く残すイサマルですが、実は古いマヤ センターの上に建設されており
市内各所にマヤの遺跡が見られます。
イサマルの歴史は古く、先古典期中期 (紀元前4世紀以前) には既に居住が始まり、古典期前期には 巨大建造物を伴う
街づくりが進んで北部ユカタンの中心的な存在になります。 古典期終末期になると
チチェン イッツァ に侵略されて没落の道を辿りますが、
スペイン人上陸後の植民政策の中ではまた大きな役割を果たす事になります。
イサマルはメリダから 72Km、国道180号を東へ行き、Hoctun かその先の Kantunil を北に折れていきます。 2004年の初回訪問時は
PCトラブルで大半の写真を失くしましたが、2014年 カンクン・メリダ移動途中に 10年振りに再訪を果たし、写真を撮り直しました。
(訪問日 2004年9月11日、2014年1月11日)
朝カンクンを出発し、チチェン・イッツァは とばして直接イサマルを目指します。 殆ど高速を使えるので距離は 260Km 位
ありますが、およそ 2時間半でイサマル到着です。
(Gran atrio de Convento de San Antonio de Padua)
イサマルに来たらまず修道院サン・アントニオ・デ・パドゥアから始めなくてはなりません。 大きな基壇上に修道院が
西向きに建てられ、広い中庭は南北と西を回廊で閉じられます。
実はこの基壇もマヤの遺跡で、パップ・ホル・チャク(Ppapp Hol Chac)という建築複合の基壇がそのまま利用され、上に
あったマヤの神殿は壊されて石材が修道院建設に転用されたようです。
(Fachada principal de Convento de San Antonio de Padua)
修道院の中庭では(マヤの基壇でしたが) 1993年に当時のローマ法王 フアン・パブロ二世がメキシコと中米のインディオ
にミサが行ない、神殿前、中央通路右側には法王の銅像が残されます。
(Pinturas murales de Siglo XVI o principios de XVII)
修道院は 1553年に建築が始まり 1562年に完成しています。 その後修復・改築が行われますが、正面入口横にある壁画は
16世紀末から 17世紀初めの当時のものが残されるそうです。
(Estatua de Fray Diego de Landa)
16世紀に修道院建設に尽力したディエゴ・デ・ランダの銅像はと言うと修道院の中ではなく、外周道路の南西角の路上に
建てられ、周囲に睨みを利かせています。 下は像のクローズアップです。
(Estatua de Fray Diego de Landa)
1971年に建てられた像の基部にはランダについて次のように説明されます。
「矛盾に満ちた鉄の管区長、狂信的な破壊者・疲れを知らない建設者、光と影。 異端審問官としてマヤを迫害し、司教としては
マヤの労働者を擁護します。 マニの焚書を行う一方、ユカタン事物記を著し、一級の歴史家でもあり、16世紀後半の傑出した
人物のひとりです。」 でも焚書ではどれだけの貴重な書物や偶像が失われたでしょう。
イサマルは、イツァムナとかサムナと呼ばれるイツァ族の神官を祀った場所で、多くの巡礼者が訪れる場所だったそうです。
スペイン人が到着した16世紀にはほぼ無人だったようですが、巡礼の地をキリスト教普及の拠点に変え、教会の建設材料
にはマヤ神殿の石材が活用でき、文字通り一石二鳥でした。
カメラに GPS を取り付けたので、訪問経路と写真の撮影位置・方向が後で確認でき、痴呆老人には大いに役立ちました。
赤いピンと紫の吹き出しは写真の撮影位置と方向で、GPS で確認した訪問経路を赤い線で書き加えました。
以下、訪問順に修道院北西角のカブールから紹介していきます。
KABUL カブール
(Esquina entre Calle 30 y 31)
カブールは修道院北西角の筋向いの区画の中で、修道院から見下ろした写真には遺跡のようなものも写っています。
カブールは 2004年に来た時は場所がわからず今回初めてで、修道院を出て入口を探してみます。
(Placas de Museo y Ruina)
角から2軒目の建物にイサマル文化民芸センターという博物館の看板があり、その下にはカブールの看板もありました。
カブールとはマヤ語で奇跡の手を意味するようです。
(Entrada a Kabul, la puerta cerrada con candado)
博物館に入ってみると係の人が、遺跡は博物館の奥だが現在調査中で公開されていない、と。 遺跡の入口の扉までは行ける
との事だったので、取り敢えず行ってみましたが、写真の通り鉄の扉が施錠されていて残念ながらここ迄。
(Solo una parte de Kabul)
止む無く扉の中にコンデジを差し込んで証拠写真だけ撮ります。 建物が目の前なので写真を2枚撮って合成しました。
カブールの説明書きによると、幅 61m、高さ 9m 強の基壇上に建造物がふたつあり、1840年には巨大な漆喰製の仮面が
残されていたそうです。 残念ながら仮面は既に失われていますが、キャサーウッドによるスケッチが今日に伝えられます。
(Dibujo de mascarón por Catherwood en 1843)
仮面は縦 2.4m、幅 2.13m もあるもので、キャサーウッドのスケッチはウェブ上に公開されており転載させて頂きます。
古いものなので著作権の問題はないかと…?
カブールは後で回るイツァマトゥール同様 太陽神が祀られた所で、仮面の前ではコパルが焚かれただろうとの事。
詳細な発掘調査がまだで正確な時代が特定されていませんが、一般的にマヤの巨大仮面は古典期前期に見られるので、
600年以前のものになるでしょうか。
グーグル・アースでカブールの辺りを拡大してみました。 赤い星印が博物館の入口で、奥の丸印が扉が閉まっていた
遺跡の入口です。 入口の左上に当たる所には大きな建造物が残されているように見えますが。
EL CONEJO コネホ
さてここから修道院周辺に点在する遺跡に向かいます。 歩いて回れる距離ですが、まだメリダまで運転しなくてはなら
ないので体力温存を考え乗り物を利用しました。 車は停める所に困るので馬車の利用です。
イサマルで一番の見どころはキニチ・カクモーの大ピラミッドですが、他にイツァマトゥール、コネホ、ハブークがあります。
中心部は一方通行が多いので ルートは御者の少年にお任せしました。 初めに 31番街から 22番に折れてコネホへ。
(Entrada a El Conejo)
コネホはスペイン語でウサギを意味し、入口の門柱にはウサギのエンブレムとスペイン語でコネホの文字、右の門柱にも
エンブレムとマヤ語でウサギを意味する トゥール (Tu'ul) の文字がありました。
(Lado este de plataforma de El Conejo)
入口を入ると南北に走る22番街に平行して写真の横長の石組みが目の前に広がります。 コネホには幅 50m、奥行き 40m、
高さ 4m の基壇が設けられていたそうで、正面は1枚の写真に収まらず2枚の写真を繋げました。
(Parte frontal de Plataforma de El Conejo, vista de norte a sur)
横長の石組みの北側にまわり 正面を横から見ると基壇上の建物の基部だけ残っています。
(Lado norte)
同じ場所から西方向にも崩れた基壇が伸びています。
(Lado oeste)
これは奥にまわって基壇の西側で、北から南方向へ建物跡が続きます。 コネホは最も破壊、盗掘が激しいグループで、建物は
基部を残して消失されていますが、その為に異なる建造時期の石組みが露出していて より大きな切り石が用いられた所
がより古い建造物になるそうです。
(Basamento de edificio sobre la plataforma)
基壇上には小さな建造物跡が多く見られ、貴族の住居だったと考えれるようで、多くの生活用の石器が発見されている
そうです。
グーグル・アースで見たコネホが位置するブロックで、遺跡は緑に覆われて殆ど見えませんが、星印をつけた入口前の
一角でした。
HABUK ハブーク
(Entrada de Habuk)
次に22番街を南進し、37番を西へ右折、更に28番を北へ右折してハブークへ到着です。 1 Km以上距離があり、馬車で
正解でした。 でも馬車の写真を後で見ると観光地とはいえ何とも気恥ずかしくなります。
(Lado poniente de plataformade Habuk)
ハブークは 90m 四方の基壇上に中庭を囲む形で4つの建物が設けられた建築複合で、写真は入口に面した西側面です。 基壇の
高さは 3.8m となっているので、高くそびえる石組みは基壇と基壇ぎりぎりに建てられた西側の建造物の背面になるようです。
(Parte principal de edificio poniente)
西側面の向かって左、つまり北側から基壇に上がり西側の建物を見てみます。 正面は東を向いていて、上の写真は北側面、下は
東から見た正面です。
(Parte superior de edificio poniente)
この建物は上まで行けたのですが、後で気が付いたら行き損なっていました。
ウェブ検索で上部の写真 を見つけたのでお借りします。
建物は上部が失われていますが、巨大な切り石が使われており、古典期前期のイサマルで残される最も古い部類の建物に
なるようです。
(Plaza y base de edificio oriente)
西の建物の正面には幅 30m、奥行き 25m の中庭が広がり、建物で囲まれていたそうですが、西の建物以外は写真の通り
建物の基部が残るだけです。
(Edificio de norte)
北側だけ少し大きめの構造物が残りますが、どんな建物だったかちょっと想像がつきません。
(Parte trasera de plataformade Habuk)
基壇の東側に回ってみました。 基壇の奥には私有地との境の塀が迫っています。
(Esquina sureste de edificio poniente)
西の建物に戻って、東正面の南東側です。 角は大きく湾曲していて、手前にも階段が取り付けられ、結構凝ったな造りだった
ようです。
遺跡を歩いてみても西の建物以外はかなり崩壊していて何が何だかよくわかりませんが、空からの画像でハブーク全体を
見てみると、東と南に基壇の境目の壁が確認でき、全体が人工の基壇で持ち上げられていた様子が窺われます。 星印の所が
馬車が止まっていた入口でした。
(Anuncio de Habuk en la esquina entre calles 28 y 35)
また馬車に乗って移動です。 28番街と 35番の角にハブークの標識があり、馬車を停めて貰い写真を撮りました。
"Habuc" と紹介される事が多いですが、正しくは "Habuk" になるようで、ハブークとは水の衣服を意味するそうです。
ITZAMATUL イツァマトゥール
(Entrada de Itzamatul)
35番街から 26番へ折れて北上し 31番を越すと左手に横長の大きな石組みが見えてきて、その先に写真のイツァマトゥールの
入口があります。
(Lado trasero de Pirámide de Itzamatul)
これが巨大な石組みの北東端にあるイツァマトゥールのピラミッドで、高さは 21m とやっと遺跡らしくなってきました。
でもこれはピラミッドの裏側で、正面は東を向いて イサマルのグラン・プラサに面していました。
当時のグラン・プラサはおよそ南北に 300m、東西に 200m の巨大な広場で、北をキニチ・カクモー、南を現在は修道院になった
パップ・ホル・チャク、西はカブール、そして東をこのイツァマトゥールで閉じられたそうです。 今では建物と道路で埋め尽く
されて広場の面影もありませんが。
(Lado principal)
北側から回り込んでいくと、基壇の上に出て西を向いたピラミッドの正面が見えてきます。
(Escalinata de lado principal)
正面中央に幅広の階段がありピラミッドの上まで続いています。 イツァマトゥールは 400-600年頃に四方に階段のついた
矩形のピラミッドが築かれ、その後 700-850年頃に現在見る形に増築されたようです。 950-1150年に更に増築されますが、
これは26番街に沿って見られた横長の石組みにあたるようです。
(Desde cúspide del pirámide)
ピラミッドに登ってみます。 見下ろすと階段の途中に小さな矩形の祭壇のようなものが残っていました。 イサマルは太陽神が
祀られた場所として 遠くから巡礼者を集めていたようですが、イツァマトゥールのピラミッドは太陽神に捧げられたものでした。
(Kinich Kakmó vista desde Izamatul)
ピラミッドの上部には何も残されませんが、ここから北西にキニチ・カクモーの大ピラミッドが見渡せ、ピラミッドがのった大基壇
の形を確認できます。 また南西に目を転じると鬱蒼と茂る木々の向こうに修道院の十字架と鐘楼も見えました。
(Lado suroeste)
ピラミッドを降りてさらに周りを見てみます。 これはピラミッドの南西側で、角は直角に仕上げられた所と丸みを帯びた
所とありますが、異なる時代のものが露出しているのかもしれません。
(Lado sur)
これはピラミッドの南側面で、古典期前期に築かれた階段は新しい石組みに覆われ、階段は東向の正面だけになったようです。
イツァマトゥールを上から見てみます。 星印をつけた入り口からピラミッドを反時計回りに南東角まできましたが、
先は高い基壇の上で降りられず、もと来た道を戻ります。 入口の前からピラミッドの南東角を通り、更に南に緑が続く
所は約 100m にわたって後古典期前期に築かれた高い基壇が残っていました。
KINICH KAKMÓ キニチ・カクモー
(Entrada de Kinich Kakmó)
イツァマトゥールからキニチ・カクモーはすぐ近くです。 29番街から直ぐに 28番に折れて最初の角を 27番に曲がった所が
キニチ・カクモーの入口でした。 キニチ・カクモーはイツァマトゥールのピラミッドの上から見えた大基壇と円形ピラミッド
で、霊廟の神の名前です。
(Pasillo hacia Gran Plataforma de Kinich Kakmó)
入口の扉を通り抜けると大基壇まで石の階段がまっすぐ伸びています。 コネホからイツァマトゥールまでは他に
観光客は一人もおらず 全くの無人でしたが、流石にここは切れ目なく人が来ています。
(Vista panorámica de Gran Plataforma)
石の階段を進み途中から正面と左右を写真に撮りパノラマ合成してみました。 階段が南面の中央ではなく西寄りにあるので
合成写真がいびつになりました。 空からの画像では東西に階段がふたつ見えるので、この通路は後から人工的につけられた
ものかもしれません。
(Subiendo a la Plataforma)
基壇の中腹は踊り場になっていて、その先には基壇奥のピラミッドの頭が見えてきました。
(Gran Pirámide de Kinich Kakmó y plaza en frente)
基壇に上がると円形ピラミッドが遠くに見えます。 基壇は幅 180m、奥行き 200m の巨大建造物なので基壇の端から
ピラミッドまではまだかなり距離があります。 左右に瓦礫が転がっており円形ピラミッド以外にも建物があちこちに
あったようです。
(Gran Pirámide de Kinich Kakmó)
円形ピラミッドに近づいて全景です。 南を向いた正面は 90年代に修復されており、中央階段は途中から石組みが
崩れていますが、問題なく上まで登れます。 高さは 34m とチチェン・イッツァやウシュマルのピラミッドの高さに
匹敵しますが、 34m は大基壇の下からで、広場からはそれ程高さを感じません。
(Hacia cuspide de Pirámide)
崩れた階段を登り切ると頂上には平らな空間が広がり、周りの景色を楽しみながら暫し休憩です。
(Convento de Izamal vista desde Kinich Kakmó)
頂上から登ってきた方向を見返すと視線の先に黄色く塗られた修道院が見えます。 24mm 広角です。
(Convento de Izamal vista desde Kinich Kakmó)
100mm ズームで撮るとこの写真です。 前述の通りこの修道院がマヤのパップ・ホル・チャクのピラミッドがあった所で、
手前はグラン・プラサで広場だった筈ですが 現在は建物と緑で占められます。
(Gran Pirámide de Kinich Kakmó, Lado sureste y Lado sur)
キニチ・カクモの円形ピラミッド、最後に南西角と東側面の写真です。 共に 24mm で1枚の写真に収まらず2枚撮って
合成してあります。 側面から背面にかけて石材が剥ぎ取られて無くなっていますが、修復前の写真を見ると石材は前面の
中央に少し残されるだけで、これでもかなり修復された姿です。
巨大な基壇は古典期前期に当たる400-600年頃に造られたようですが、イサマルのミニガイドによるとピラミッドの方は
1000- 1200年頃に建造されたと推定されるようです。
イサマルのマヤセンターは 16世紀以降に作られたスペイン人の新しい街に埋もれ、その価値が過小評価されて
きましたが、徐々にその重要性が認識され、チチェン・イッツァに征服されるまで ユカタン半島中北部で最大のマヤセンター
だった事が判り、70年代から調査・地図作成が始まり、92年にはプロジェクトが始まってキニチ・カクモーの発掘・修復が
始まったそうです。
グーグル・アースで見た大基壇と円形ピラミッドです。 大基壇には四方に階段が付けられていた様子が確認できます。
情けない事にこの外周道路には足を運んでおらず、帰ってからストリートビューで見る事になりました。 ピラミッドに
登って満足して帰ってくる人が多いと思いますが、是非外周道路を回って基壇の大きさを実感したい所です。 歴史的にも
大基壇の方が古く重要でしょう。
下はグーグル・アースで見た 西の階段および北の階段です。
(Escalinata de lado poniente) (Escalinata de lado norte)
CHALTUN-HA チャルトゥン・ハ
さて 修道院に戻り馬車の少年に別れを告げて、最後に車で町はずれのチャルトゥン・ハへ向かいます。
33番街から38番に
左折南進し、45番の住宅地を外れた辺りがチャルトゥン・ハの入口です。
(Entrada a Chaltun Ha)
道路際に青い小さな看板があり、これを目印に小道を西方向に進んでいくと黄色く塗られた門柱があります。
ここは 10年前に来ており 多少土地勘もありました。
(Plataforma de Chaltun Ha)
門柱の中に入ると低層の基壇が目の前に広がります。 チュツトゥン・ハでは 90年代以降発掘作業が進み、60m 四方、高さ 3m
の基壇中央に階段状の基壇を持つ神殿がひとつ修復されています。
(Templo superior)
基壇は北西角から上にあがれますが、殆ど訪れる人もないようで 基壇上は荒れ放題。 雑草をかき分けて中央の建造物へ
向かいます。
(Vista de la plaza en frente)
正面の階段から神殿に登りました。 神殿前の中庭には低木が生い茂ります。 チャルトゥン・ハはイサマルの中心部から
南南西に約1Km と離れていますが、真っ直ぐサクベで繋げられており、重要な意味合いを持った神殿だったかもしれません。
(Escalinata principal del templo)
これは北東側から見た神殿の正面階段です。 神殿はほぼ真っ直ぐにイサマルの中心部を向いて建てられていたようです。
チャルトゥン・ハはマヤ語で平石の水だそうですが、何を意味するのか?
(Esquina suroeste del templo)
神殿の四隅は角を切って円形に処理された独特な形をしています。 正面角は逆光で見にくかったので、これは背面になる
南東角の写真です。 イサマルのミニガイドにもこのアングルの写真が表紙に使われており、やはりイサマルで特徴的な
形になるようです。
最後に空からチャルトゥン・ハのおさらい。 上から見ると基壇の形がよく分かります。 星印の所からスタートして
門扉を通過ぎて最初に見えたのが基壇の北東で、石組みの角が丸く処理されていました。 北西角も同様です。 基壇の南端
に神殿が築かれ、基壇の北辺には矩形の張り出しがついていて、多分その先にサクベが伸びてイサマルの中心に繋がって
いたものと思います。
最新の調査・研究によると、大きな切り石を用いたイサマルの建築様式は、海岸地域を含めおよそ 6,000㎢ の範囲に広がっており、
古典期前期末の 600年頃にはイサマルは広大な地域をその支配下に治めていた事がわかってきました。
アケまで西へ 29Km のサクベが築かれ、南はカントゥニルへ至る 13Km のサクベも確認されています。 サクベの幅はおよそ
12m ですが、その長さを考えると途方もない材料と労働力を要した壮大な土木工事だったと考えられます。 またキニチ
・カクモーの大基壇は体積が 70万㎥ にもなる巨大建造物で、メキシコではプエブラ州のチョルーラのピラミッド、
テオティウアカンの太陽のピラミッドについて3番目に大きな建造物になるという指摘もあり、今更ながらイサマルの歴史的
重要性が認識されてきました。
こうして隆盛を誇ったイサマルですが、古典期後期には徐々に衰退が始まり、古典期終末期から後古典期前期にはチチェン・
イッツァの支配を受け、1200年以降の後古典期後期には殆ど無人になったようです。
しかしマヤの聖地として巡礼の対象であり
続けた為に、スペイン人によるキリスト教改宗の拠点となって、遺跡が破壊されてしまったのは何とも皮肉な話です。
イサマルの遺跡紹介は普通キニチ・カクモーだけか、せいぜいイツァマトゥールまでですが、街はずれのチャルトゥン・ハ
まで詳細に紹介しました。 でもまだ他にも調査されていないグループもあるようです。 古典期には後のチチェン・イッツァに
匹敵するユカタン北部最大の遺跡だったイサマルです。 今後更なる調査と実態解明が期待されます。