博物館は 2000年に開館されましたが、1972年に始まったトニナの発掘は現在も続いていて、新しい発見が相次ぎます。 その為トニナの歴史解明も
まだその途上にあり、その鍵がこの博物館に。 博物館は二つの展示室にわかれ、まず最初の展示室です。
(Primera Sala de Exhibición)
2003年についで今回は2回目の訪問でしたが、展示物はあまり変わっていません、逆に外部の展示会に持ち出されて留守中のものも…。 でも今回は
しっかり写真を撮ってきました。 この画像は博物館に入って直ぐ左。 ビデオからの切り出しで不鮮明ですが、まずは博物館の雰囲気を。
(Primera Sala de Exhibición)
最初の展示室を駆け足で一回りしました。 以下、個々の展示物を展示順に見ていきます。
(Monumento 155) (Cartel de Toniná con Monumento 155)
トニナの特徴的な図柄は支配者と支配者が捕えた捕虜で、このモニュメント 155 にはキニチ・バークナル・チャーク (688-708) の時代のアナイテ
からの捕虜が刻まれます。 博物館にはポスターが展示され実物は残念ながら不在、左は已む無くポスターを加工しました。
(Monumento 159)
これは見事な石彫りで、支配者8(~787-806~)の時代の 799年の火の儀式を記したモニュメント 159 。 中央に刻まれているのはポモイからの
捕虜です。
(Monumento 125)
縛られて仰向けに寝かされた捕虜が刻まれた モニュメント 125 。 国立人類学博物館にある モニュメント 127 と似ていますが、説明は特に
なく、詳細不明です。
(Monumento 106) (Monumento 144)
モニュメント 106 は入り口近くの壁に説明なしで展示されていましたが、6世紀前半の支配者1とされるトニナの初期の王が刻まれているようです。
右は半分失われた円板のモニュメント 144 とジャガー彫刻のような建物飾り? 博物館では個別の説明は少なく、モニュメントの番号は後で調べて
追加しました。
(Monumento 160)
この円板、モニュメント 160 には説明が付けられていました。 トニナでは最も古い石造物で 8バクトゥンの日付があるそうです、つまり 435年以前。
支配者1のモニュメント 106 より100年以上古い事になります。 円板中央やや左上に横顔と胸の中央に合わせた両腕が確認出来ました(写真下)。
トニナの石像、石板、円板は大半のものが砂岩ですが、このモニュメント 160 と 106 は石灰岩製です。
(Monumento 150)
これはモニュメント 150 の表と裏。 横に置かれた説明版にはトニナの碑文が長期暦に基づいていて、長期暦は紀元前 3114年 8月 13日 4アハウ 8
クムクに始まる事が書かれていますが、表の像については何も触れられていません。 裏の碑文はその 4アハウ 8 クムク で始まりますが、その後は
何が書かれているのでしょう、 3 バクトゥンは読めますが…。
(Monumento 162 y Monumento 170 Base)
最初の展示室の左奥に王の立像と思われるモニュメント 162 が台座のモニュメント 170 の上に載せて展示してあります。 立像も台座も碑文が明瞭
ですが、王の名も日付も読み解かれていないようです。 共にトニナの何処から出たのかも不明で、果たして立像と台座がセットだったのかどうか?
説明版には "El treceavo señor del tiempo" とあり、直訳すると「時の13分の1の男」。 260年の神聖暦の、ある「13アハウ」 の日に作られた、
とあるので、短期暦的な暦で時代が特定できず、どの王かもわからないのでしょうか? 研究が進めば王名も特定されるものと思いますが。
(Monumento 139)
これは直径 133cm もある大きな円板で、9.13.10.0.0. (702AD)のハーフ・カトゥンを祝ったものです。 キニチ・バークナル・チャーク (688-708)
はウシュマシンタ川流域を制圧し、球戯場1を築いて多くの捕虜の石板を残しますが、この大きな円板は球戯場1横の未発掘のピラミッド(H 6-1)の
前に奉納されました。
(Monumento 154) (Monumento 153)
ここから捕虜の石板です。 トニナでは王は着飾った姿で刻まれる一方、捕虜は飾りを剥ぎ取られ腰布ひとつで後ろ手に縛られ、
捕虜の名前と出身地、捕獲者の名前と生贄の儀式等の碑文が添えられます。
左のモニュメント 154 は『古代マヤ王歴代誌』によるとキニチ・ヒッシュ・チャパト王 (615-665?) の時代のものとされますが、捕虜の名前、
出身地、トニナの何処に置かれていたのかは不明です。
右のモニュメント 153 はマヤの特別展
"ROSTROS DE LA DIVINIDAD" に
持ち出されていましたが、もともとトニナ博物館所蔵です。 モニュメント 154 とよく似た石板ですが、キニチ・バークナル・チャークの後を
継いだ支配者4(708-721~)の時代で、彫られている捕虜がカラクムルの戦士と言うのは驚きです。
(Monumento 122, Museo Regional de Chiapas)
モニュメント 122 はトゥーストラ・グティエレスの チアパス地方博物館所蔵で、同じ支配者4の時代の 711年にパレンケに勝利して捕獲したカン・
ホイ・チタム2世が描かれています。 高位の王の為か翡翠の首飾りは残されていますが、縄を打たれているようです。
(Monumento 172) (Monumento ??)
左はモニュメント 172 で、Arqueologia #135 Sep-Oct 2015 で、692年の戦闘で捕虜にした カウィール・モと言うカン・バラム2世の臣下と
読み解かれています。
右も捕虜が縛り上げられた石板ですが、番号を含めて詳細不明です。
(Monumento 147) (Monumento 100)
モニュメント 147 は頭飾り等が残されますが腕は縛られています。 詳細は不明。 右のモニュメント 100 もアクロポリスの頂上近く
E 5-5 で発見されたこと以外は詳細不明です。
(Monumento 152) (Monumento 151)
詳細不明ばかりで消化不良になりますが、モニュメント 151 も 152 も詳細はわかりません。 ただ下の写真にあるように背中にほぞがある為、
建造物に取り付けられていたようです。
(Disco hecho en estuco) (Monumento 115)
(Monumento 149) (Monumento 165)
(Monumento 121) (Monumento ??)
次に円盤型のモニュメント。 窓際に6つまとめて展示してあります。 モニュメント 121 は小さく、直径 31cm、その右の番号のわからない
モニュメントが一番大きく、モニュメント 115、149、165 は 60cm 強です。 一番上右の中央の四つ葉が羽飾りで縁取りされたものは
漆喰製で、建物飾りかもしれませんが、その他の5つの円板は記念碑的な祭壇だと思われます。
モニュメント 165 は 9.14.5.0.0. の4分の1カトゥンを祝ったもので、支配者4の重臣が彫られているそうです。 トニナではカトゥンの
変わり目の儀礼にはこうした円形の祭壇が奉納されたようです。
(Altorrelieve de Estructura Piramidal de Toniná)
これはトニナのアクロポリスのレリーフ。 900年頃にかけてのトニナの繁栄期の姿を表わしたもので、実際遺跡で目にするのは廃墟ですが、
当時の姿を偲ばせてくれます。 レリーフの右が太陽の登る東にあたり、重要な場所として豪華な宮殿郡が築かれ、太陽の沈む西側は
質素に作られているそうです。
(Maqueta de Toniná y las Plomadas)
展示室の角にはアクロポリスの模型も設えてありますが、アクロポリスは
トニナの
ページ で見る事にして、ここでは上から吊り下げられた石の説明です。
(Las Plomadas)
小さな石に糸を通す穴が開けられた 「下げ振り」 と呼ばれる建築用の錘で、アクロポリスの建築の位置決めで使われ、発掘の過程で沢山発掘
されているそうです。
(Altar de piedras ?)
加工された石で祭壇のようなものが組まれていました。 ガラスでカバーされているので重要なものだと思われますが、説明が付けられていないので
意味不明でした。 2003年に来た時はここに石像の頭部が飾られていましたが(写真右)、今回はこれが持ち出されていて金属の台だけ。
(Reproducción de Mural de las Cuatro Eras)
これはアクロポリスの5段目のテラスにある「4つの時代の壁」とか「4つの太陽の壁」と呼ばれる装飾壁の復元図です。 実際は彩色は消えて
乳白色の漆喰彫刻ですが、異様な図柄の壁画で見る者を圧倒します。 実物は遺跡で。
(Monumento 148)
この復元図の下に置かれたモニュメント 148 には二人の人が彫られ、カトゥンを祝った祭壇とは図柄が異なりますが、詳細はわかりません。
「4つの時代の壁」 と関連があるのかどうか?
(Colección de las cerámicas y las figurillas)
トニナで発掘された土器や土偶が集められています。 独創的で質の高い石造物に比べると土器類は驚くようなものはあまり無いようです。
下は中でも見栄えのする彩色土器2点です。
(Objetos líticos relacionados con Juego de Pelota)
これは最初の展示室の最後のコーナーで、球戯場からの発掘物が集められています。
(Monumento 65)
球戯場1の斜面には飾り板 (モニュメント 65) と捕虜の半身像がマーカーとして6か所に取り付けられていたそうで、これはそのひとつです。 球戯場1
はキニチ・バークナル・チャークが 699年に造ったとも言われ、この時代トニナはパレンケと度々戦火を交えており、マーカーの捕虜の何人かは
パレンケの貴族と考えられています。
(Réplicas colocadas en el sitio)
博物館の崩れた石造物では判り難いですが、遺跡にはマーカーの複製が置かれていて、捕虜の姿がリアルに復元されています。
(Monumento ??) (Monumento 175)
8世紀の後半に球戯場1は改修され、新しいマーカーが追加されたようで、球戯場の斜面南側には異なるタイプのマーカーの複製が置かれています。
蛇の口から人の顔が覗く石像で、モニュメント番号はわかりませんが、左の画像のマーカーがこれに当たるものと思います。
右のモニュメント 175 は断片ですが、水の太陽の紋章が彫られていてテオティウアカンとの関係を示すものとしてここに展示されていました。
球戯場にあったものではなく、球戯場北の未発掘の大きな土塁の瓦礫の中から見つかったもので、時代を含めて詳細はわかりません。
(Escultura en frente de la Segunda Sala)
最初の展示室を終え、一度奥へ抜けるともうひとつ展示室があります。 奥の展示室の前に写真の小像が置かれていますが、あまりマヤ的には見えません。
古典期 トニナ王朝が衰退した後にトニナに入った部族のもののようです。 トルテカ系の部族とか、チェネク人とか言われるようですが、詳しい事は
わかりません。
(Colección de los objetos ofrendados)
奥の部屋に入って直ぐの所に装飾品(副葬品?)や道具類をまとめた展示ケースが有りました。 特に説明も添えられていなかったので、画像
だけ紹介しておきます。 貝を使って人の顔を表したものは目を引きますが、何分 詳細不明です。
(Segunda Sala de Exhibición)
奥の展示室には捕虜を刻んだ石造物は無く、代わって王の立像が並びます。 そして円形の祭壇が…。
上の写真は展示室に入って奥の方を見渡したところで、下段の写真はその右奥です。
(Monumento 146 y Monumento 174 Base)
まず奥にある王の小さな立像、モニュメント 146。 立像が置かれている台座はモニュメント 174 です。 横に置かれた説明版によると、
この王の名前は「超自然のジャガー」で、雷紋の神殿にある花の玉座を作った王、支配者 8 になるようです。 立像は 146cm で少し小振りです。
(Monumento 156)
王の立像の横に置かれた台座、モニュメント 156。 見事な彫刻で、王の立像を載せたものかもしれませんが、詳細不明。
(Monumento 168, Gobernante Tzots Choj)
これはトニナの王の立像で最も完全で有名なモニュメント 168 で、1989年にアクロポリス上部で3つに割れた状態で発見されたものです。
碑文から立像は6世紀のトニナの初期の王 「ジャガー・鳥・イノシシ」 で、568年即位と考えられるようです。
この立像は今回持ち出されていて展示がなく、写真は 2003年に撮ったものです。 2003年には上の名称不明の王の立像の横に置かれていました。
遺跡ではアクロポリスの中腹にこの立像の複製が据えられ、トニナの街を見下ろしています。
(Monumento 26, Gobernante 2)
この王の立像、モニュメント 26 は古い時代に遺跡から持ち出され、遺跡の何処から見つかったものか不明ですが、碑文から支配者2 (688-708)
と考えられ、現在首都の国立人類学博物館に展示されています。
(Esculturas de los Gobernantes)
これは頭部の失われた立像7体で、 モニュメント番号を書き加えました。
(Esculturas de los Gobernantes)
更に横にもう4体 展示されます。
(Monumento 169) (Monumento ??) (Monumento 3)
(Monumento 5) (Monumento 163 y 104 Base) (Monumento 134)
(Monumento 20) (Monumento 176) (Monumento 142)
(Monumento 12) (Monumento 102)
この11体の首なし立像の中で、時代が特定されているのは4体で、モニュメント 3 とモニュメント 134 はキニチ・バークナル・チャーク (688-708)、
モニュメント 20 とモニュメント 169 は支配者8 (~787-806~)になるようですが、それ以外は不明です。 モニュメント 104 の台座には 837年と
ウー・チャパト王の文字が記されていますが、台座に載った立像は直接関係ないもののようです。。
首から下はかなり綺麗な状態で残っているのに何故頭部が欠けているのか疑問です。 パレンケの勢力がトニナに侵入して頭部を落としたのか、或いは
トニナが衰退した後に入った異民族の手によるものか。 それとも トニナで頭部を落として埋納したものなのか???
(Monumento 161 y Monumento 110)
(Monumento 111) (Monumento 161)
(Monumento 113)
(Monumento 136) (Monumento 137)
奥の展示室には円形の石造物も沢山集められています。 儀礼を行う際に奉納された祭壇と考えられ、多くは新しいカトゥンを祝うものだった
ようです。
アクロポリス南側に隣接して設けられた小さな球戯場2 (G 5-2) の南に祭壇が4つ並べられ、展示されているモニュメント 113、111、110 は
ここからのものでした。 モニュメント 113 は支配者2の時代 (668-687)、モニュメント 110 は支配者4の時代 (~708-721~) に
なるようで、直径 170cm 前後のかなり大きなものです。
球戯場1横の未発掘のピラミッド(H 6-1)の北側にも同様に祭壇が4つ並んで発見され、モニュメント 136、137 及び上の方で紹介済みの
モニュメント 139 がこれにあたります。 モニュメント 139 は 9.13.10.0.0. (702AD)のハーフ・カトゥンを祝ったもので、他の祭壇も
同形式なので、おそらく同じようにカトゥンを祝った記念物ではと思います。 モニュメント 136 は支配者4の時代、モニュメント 137 は
キニチ・イチャーク・チャパトの時代 (723-739~)で、直径 140cm 近くある結構大型の祭壇でした。
モニュメント 161 は直径 77cm で少し小振りですが、キニチ・イチャーク・チャパト (723-739~) の時代にあたる 730年に行われた火を入れる儀式
を記念したものだそうです。
(Más objetos colgados en la pared)
此処まで トニナの遺物をたっぷり見たのでもう食傷気味かもしれませんが、あと少しで終わりです。
(Monumento 158)
壁にかけてあった展示品のアップです。 左の頭部は首から下だけの立像から泣き別れしたものでしょうか?
中央の小さな立像はモニュメント 158 で、アクロポリス最上部の D 5-2 に904年に置かれた最後の王の支配者10 (~901-909~)の立像です。
この時代になると王の立像も 54cm と小型で作りも粗雑になります。
(Escultura de Anciano) (Los glifos esculpidos)
左は写実的な彫刻で前回も注目したのですが、今回は持ち出されて不在。 でも 6日後にグアダラハラで行われていたマヤの特別展で再会できました。
右は神聖文字が刻まれた小片です。 バラバラになっては文意を為さないと思いますが、ひとつひとつは見事な彫刻です。
(Monumento 10) (Estela 1, Pestac)
奥の展示室の最後に石造物が2つありました。 左のモニュメント 10 は詳細不明ですが、右の石碑はキニチ・ヒッシュ・チャパト
(615-665?)の古い時代のものでした。 トニナの南 1.5Km のぺスタックという所で発見されたもので、665年の8分の1カトゥンを刻んだ
ものだそうです。 5年毎の4分の1カトゥンのものはありますが、8分の1の記念物は殆どありません。
(Monumento ??) (Monumento 141)
この2点は 2003年に展示されていましたが、今回は持ち出されていました。 右のモニュメント 141 はトロントへ出張中。
(Monumento 101)
トニナで最も古い石造物のひとつとされるモニュメント 74 の石碑と、最も新しい日付を持つモニュメント 101 もカナダへ持ち出されて
いたようで、ちょっと興醒めです。
トロントの博物館の動画からモニュメント 101 を切り出させて貰いました。 表面は腰から上の王の姿が彫られ、裏側にはこの長期歴が刻まれます。
10.4.0.0.0. (909年1月15日)で、長期暦で刻まれた日付としてはマヤで最も若い日付となり、マヤの中心から少し外れたトニナでは、古典期マヤの
センターが没落していく中、最後まで長期暦を刻み続けていた事がわかります。 ( 写真右 = モニュメント 101 は 2016年には戻っていました,
手前の展示室です。)