マヤ遺跡探訪
ALTUN HA
ベリーズ2日目は アルトゥン・ハ遺跡から。 起源はラマナイより時代的に少し新しくなりますが、それでも 古典期前期古典期後期初期の ふたつの広場が発掘整備され、国宝級の翡翠の発掘物があり、ベリーズでは最も有名な遺跡のひとつです。

ベリーズ・シティーから北へ 50Km、内陸へ10Km程入った所にあり、ベリーズ・シティーに定期的に寄航する大型クルーザーの 船客が大挙して押し寄せるので、水曜と木曜は避けた方が良いとの事、訪問日は月曜で閑散としていました。 良かった!

オレンジ・ウォークから行ったので、北部高速をベリーズ・シティー方向へ南下し、途中で旧北部高速に入り 10Km少々北上。  車で1時間強かかりました。

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     (訪問日 2009年11月30日)
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 (Billete de dos dolares que tiene dibujo de Altun Ha)

まず、どの位有名かと言うと、これはベリーズの2ドル札の裏面、中央にシュナントゥニッチ、右にルバーントゥン、そして左側に アルトゥン・ハが描かれています。 紙幣は6種類有りますが、遺跡が出てくるのはこの2ドル札だけ。

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 (En el logo de cerveza Belikin aparece dibujo del Piramide de Altun Ha)

お札だけでなくビールにも登場します。 ベリーズでビールと言うとベリキン ビア。黙ってビールをオーダーすると このベリキンが 出てきます。 そのベリキンのラベルに出てくるのが アルトゥン・ハという訳です。

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 (Estacionamiento de Altun Ha)

前置きが長くなりましたが、アルトゥン・ハ到着です。

アルトゥン・ハは遺跡近くの地名で、ユカテク・マヤ語で Rockstone Water 岩石の水?を意味し、これが遺跡の名前となります。  当時の名が残るマヤ遺跡は稀ですが、アルトゥン・ハは遺跡の確認が 1963年ですから、当然昔の名前は伝わっていません。

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 (Estructuras de Plaza A)

入口のビジター・センター(と言っても何もありませんが)を出ると直ぐに遺跡が見えてきます。
大きな土塁、崩れた石組みに立派なピラミッドもあります。

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まず地図の確認。 遺跡の案内図(右)から 整備されている北の部分を切り出して拡大しました。
ここが訪問可能な区域で、北に広場A、南に広場Bがあり、一枚上の写真で見えるピラミッドが広場Aの建造物 A-1、手前の 斜めになった低い石組みが建造物 A-7 の遺構でした。

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 (Lado este de Estructura A-6)

これは建造物 A-6 の東側面。 登攀用に後からつけられた階段がありますが、石組みは剥ぎ取られたのか土に埋もれているのか。  この横を通って広場Aに出ます。

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 (Lado frontal, A-6)

広場から見た建造物 A-6 の南正面。 中央に階段跡があり、登れないようにしてあるのでオリジナルの階段のようです。 A-6 は充分調査されておらず、詳しい事はわかりませんが、広場Aで一番大きな建造物で 550-600AD の建造との事。

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 (Estructura A-1)
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こちらが広場Aで一番整備されている建造物 A-1 の正面。 100AD 頃から建設が始まり、500AD 頃には現在見る形になった古典期前期 の建造物です。 550AD 頃の支配者の墓が見つかっており、300近い翡翠が残されていた為、緑の墓と呼ばれるそうです。 副葬品の祭礼 の品々や装飾品の中には、通常残り難い、毛皮、布、木製品があり、 コデックス の残骸も発見されている点は興味をひきます。

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 (Estructura A-3)

広場A西側の建造物 A-1 に隣り合う形で 幅広いスタンド状の階段を持つ建造物 A-2 (写真右端)があり、広場南面西側の建造物 A-3 (写真中央)と続きます。 A-3 は比較的原型を留めていた為、600AD 頃の姿を再現出来たとの事です。

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 (Lado norte de A-1)

建造物 A-1 に登ってみます。 正面階段からは登れませんが、上へ行きたい人の為に側面に登攀用の階段(写真右側)が設けられています。

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 (Parte superior de A-1)

上にあがると居室跡がある他、子柱を並べた プーク様式 にみられるような壁面装飾が認められます。 建物上部に子柱が左・中・右と3ヶ所あるのがわかるでしょうか。  (写真は下から撮ったものですが)

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 (Estructura A-5)

A-1 の天辺から正面(広場の東側)には、土色の建造物 A-5 見えます。 A-5 については説明が全然ありませんが、広場A全体が 250-600AD なので、A-5 も古典期後期に入る前に作られたのでしょう。 発掘修復されるとどんな形が姿を現すのか?

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 (Plaza A y al fondo Estructura B-4)
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カメラを右に振ると A-5 の右手前に緑のマウンドが見えます。 建造物 A-4 の遺構です。 これは低層の基壇のみで広場Bとの境界 の役割を果たしたようです。 A-4 の後ろに立派なピラミッドが見えますが、これは広場Bの建造物で、説明は追って。

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 (Estructura A-3)

更に右方向が建造物 A-3 です。

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 (Parte superior de A-3)

A-3 は登らなかったので、上部を拡大してみました。

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 (Estructura A-2)

更に右、建造物 A-1 から南方向を見下ろしたところで 奥が A-2 になります。 この辺りは古典期後期以降に手が加えられたのか、遺跡地図とはあまり 合致しません。

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 (Estructura A-8)

建造物 A-2 の裏側(西側)に現地の地図にはありませんでしたが、もうひとつ建造物跡がありました。 建造物 A-8 になるようで、 地図に書き加えておきました。

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 (Mascarón de A-8)

A-8 の南東角には写真の仮面の建物装飾が残されている為、敢えて A-8 を書き加えました。 人の背丈ほどの大きな仮面です。  上に建物が被せられていたので残ったのでしょうが、その分古そうです。 古典期前期でも中盤以前でしょうか。

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 (Parte tracero de B-2)

広場Aを終えて広場Bへ移ります。 広場Bへは建造物 B-2 の裏を回っていきました。 写真の石組みは B-2 の裏側です。

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 (Parte frontal, B-2)

広場に面したB-2 の正面は建築材料としてかなりの石材が剥ぎ取られ、写真の様に緑のマウンドになっています。 建物の詳細は不明ですが、 低層の居住区だったようです。

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 (Estructura B-4)

B-2 の前、広場Bの南西角から見た 建造物 B-4、アルトゥン・ハで一番際立つ建物です。 右手前は建造物 B-3 の西側角。

広場Bは 広場Aの建築活動が終わりつつある古典期前期末 550-600年頃から広場Aに追加する形で築造されたようです。

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 (Parte tracero de B-3)

広場Bは南側を建造物 B-3、B-5、B-6 で閉じられいて、これは手前の B-3 の裏側。 B-5 の方向へ階段が伸びています。

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 (Parte tracero de B-5)

建造物 B-5 の裏側には居住区のような遺構が広がります。 写真左上の傾斜は建造物 B-6 の背面です。

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 (Ventana de forma T, B-5)

B-5 には屋根は失われていますが厚い壁で仕切られた居室が残り、壁にはT字型の窓がありました。 窓からは緑のマウンド A-4、 低い石組みの B-1と、その後ろに A-5 の南面が覗けます。

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 (Estructura B-1)

B-5 前面から広場北側を見ると、広場の北面東側を閉じる建造物 B-1 の横長の全面が確認できます。

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 (Estructura B-4, Templo de los Altares de Manpostería)
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カメラを右に振ると建造物 B-4 が近づいて、建物下部の横長の階段中央と左右に仮面の壁面装飾が見えてきます。 B-4 は石造祭壇の神殿 とも呼ばれ、550AD 頃から建造が始まり、調査の結果8度に及ぶ改装が加えられているそうで、7つの墓室が見つかっている事から 埋葬の度に改築が繰り返されたようです。

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 (Mascarones de B-4)

広場に面した中央階段の左右と中央に仮面の装飾があります。 現在目にする B-4 の姿はおよそ 600-650AD のものと言われますが、 仮面装飾は通常古典期前期の様式ですから、積み重ねられた新しい建造物の下にあったものでしょうか。 5つの仮面を見てみます、上から右側、中央、左側の順で、 風化が進んでいますが、仮面を取り囲む枠組みを見ても全てほぼ同様の仮面だったように見えます。

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 (Cámara con arco falso, B-4)

仮面のある正面下部の階段を登った所に9つの角柱の基部が残りその後ろは居室が左右に広がります。 正面階段は柵がしてあり居室には 入れませんが、横から見ると逆V字型の所謂マヤ・アーチが確認されます。

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 (Esquina suroeste, B-4)

建物保護の為 正面階段は登れませんが、建物の南側面に手摺り付きの階段が設えてあり、ここから神殿の頂上まで登れます。  高さは 60ft ですから、18m ちょっとになり、見た目ほどには高くありませんが、幅も奥行きもある大きく立派な神殿です。

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 (Altar redondo en el cúspide de B-4)

頂上に登ると丸い石組みの祭壇があります。 B-4 は別名 石造祭壇の神殿(Temple of the Masonry Altars)と呼ばれますが、祭壇とは この丸い祭壇を意味するのか、Altars と祭壇が複数になっているので別の祭壇を意味するのか??  いずれにせよ神殿の頂上でこの 祭壇を使って何らかの儀式が行われたのでしょう。

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 (Estructuras B-6, B-5 y B-3)

B-4 の上からは、建造物 B-3、B-5、B-6 が見下ろせるので、手前の小神殿 B-6 と その向こうの居住区だった B-5、B-3 の様子が よくわかります。 

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 (Plaza A desde B-4)

最初に行った広場Aを広角で撮りました。 上から見ると殆ど禿山に見えた A-5、A-6 にも上部に石組みが残って いるのがわかります。

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 (Estructura A-1)

広場Aの中心的な神殿 A-1 を望遠で大きくしてみました。 ここには緑の墓と呼ばれる 550AD 頃の墓所があった訳ですが、今いる B-4 にも合計7つの墓室があり、盗掘を免れた墓所からは数々の貴重な副葬品が回収されています。

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 (Sr. Ali a la derecha, de Hotel St. Christopher's)

右側はアルトゥン・ハからグアテマラ国境サン・イグナシオまで車の運転と案内をお願いした Hotel St. Christopher's (Orange Walk) のオーナーの息子、アリ君。 次に行くクエヨ遺跡で活躍してくれるのですが、ここではその立っている所に注目!

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 (Estructura B-4)

B-4 の望遠写真で頂上まで伸びる階段の上部に垂直に構造物が付属されていますが、実は上の写真はこの構造物の上部で、墓室の上なのです。  この墓室こそアルトゥン・ハを一躍有名にしたものでした。

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 (Tumba de sacerdote del alto rango de B-4, exhibición en Museo de Belice)

墓室の様子はベリーズ・シティーの博物館に再現されており、高位の聖職者とされる被埋葬者の遺骨と共に豊富な副葬品を目に する事が出来ます。 およそ 575-600AD 頃の墓所と推定されます。

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 (Panel de exhibición de Visitor Center)

これはビジターセンターにあったパネルを写真に撮ったものですが、パネル右上にある翡翠彫刻の説明です。  上の博物館の写真で中央に黒ずんで茶色く見える石がこれで、高さ 14.9cm、重さ 4.42Kg とマヤで見つかっている翡翠製品で最大の ものになり、ベリーズの国宝です。 太陽の神 Kinich Ahau の頭部が彫刻されていると言われます。

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 (Ofrenda de Jade dibujado en los billetes de Belice)

再度お札の登場ですが、この翡翠の太陽神の頭部は 名目上の国家元首のエリザベス二世と共に 6種類全てのお札の左上隅 (赤丸で囲んだところ)に描かれています。 エリザベス女王にマヤの神様の彫刻、珍しい取り合わせです。

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 (Selva que rodea el sitio arqueológico)

B-4 の頂上から南の方角をみると緑の樹海の中に少し盛り上がった部分も見えます。
遺跡の案内図には番号を振った構造物も記され、 貯水池もあるようですが、調査はされても修復は全く手付かずです。 これだけの規模の古典期の遺跡ですから、球戯場は必ず存在した 筈で、更なる調査・発掘が期待されます。

球戯場は捜せばあるのでしょうが、ふたつの広場に共通して古典期特有の石碑が存在しない点は特筆されます。 NICH(National Institute of Culture and History)、ベリーズ国立文化歴史局の資料では、石碑建立の風習がマヤ東端に位置するアルトゥン・ハには 伝播しなかったのではとの推論もあります。 コデックスの残骸が回収されているので文字は存在した訳ですが…。

石碑が存在しなかったとしても、大量の翡翠製品を有するアルトゥン・ハですから、裕福で有力なマヤセンターであったことは間違い ありません。 海に近く 交易ルートを支配下に治め、メキシコ中央高原とも交易を通じて繋がっていたと言う説もあり、興味の尽きない ところです。

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 (Estacionamiento, Dspedida a Altun Ha)

アルトゥン・ハでの建築活動は古典期後期中盤以降衰退に向かい、他の主要古典期マヤセンター同様 900AD 辺りを境に崩壊の道を辿った ようです。 1200-1400AD 頃に再度センターとして活用されたようですが新たな建築活動の形跡も無く、また一寒村として埋もれてしまいます。

写真はアルトゥン・ハの駐車場と3日間の愛車です。 まだ陽も高く、昼食を済ませてからオレンジ・ウォーク郊外の クエヨ遺跡 へと向います。



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