チチェン・イッツァの海洋交易拠点だったと言われるセリートス島。 エク・バラム遺跡から北へ 約 90Km のユカタン半島北端の保養地 リオ・ラガルトスが
訪問の拠点になります。
2008年にエク・バラムを訪問した時にリオ・ラガルトスへ行き遺跡を捜したのですが、近くに遺跡は無いと言われてフラミンゴを撮って引き揚げました。 今回
位置を確認しリオ・ラガルトスに宿泊して聞いてみると、波の穏やかな早朝なら船で行けるとの話、お願いしました。
(Lado noreste de Isla Cerritos)
セリートス島はリオ・ラガルトスから海岸沿いに 15Km近く西で、幅 200m 程の小島です。 遺跡と言っても殆ど見るべきものはなく、現在は水鳥の集団営巣地に
なっていて、遺跡目当てに訪れる人は殆ど皆無、地元の人もまず行かない秘境です。
(訪問日 2017年1月26日)
(Ubicación de Isla Cerritos en Google Map)
早朝6時半にリオ・ラガルトスを出発、内海を早朝の船旅です。 サン・フェリペ漁港を左に見ながら外洋へ。 北東側から島に近づきました、冒頭の写真です。
(Residente actual de la Isla)
着いてみてビックリ。 聞いてはいましたが鳥だらけ、手付かずの自然です。 数えきれないペリカンが羽を休め、枯れ木には喉の赤い袋を膨らませたグンカンドリも。
(Desembarque a la Isla, "A")
島の近くは水深が浅く、船は船外機のエンジンを切り櫂を漕いで接岸しました。 海と空が繋がって何だか神秘的。 ここに来る人は泊まった宿からは年 2-3組で、
他の船を含めても殆ど人の来ない無人島です。
(Ruinas de Isla Cerritos, Arqueología #33)
セリートス島は 1984-85年に調査され、その時の記事が Arqueologia #33 Sep-Oct 1998 に載っていて、地図はここからスキャンさせて頂きました。 上は
Google の地図に写真を撮った地点と方向をマークしたもので、"A" が上陸地点です。
(Parte sur de la Isla, "B")
船頭のペドロの案内でまず島の南へ。 地点 "B" から東側は写真にあるように開けていて建物があったような感じですが、はっきりした痕跡は確認出来ず
(発掘すれば出てくるのかもしれませんが)、上陸地点へ引き返します。
(Subidita al montículo)
(Montículo de una pirámide)
上陸地点近くから灌木の間の小道を登っていくと建物の残骸のように見える崩れた石組みがありました。 (上の Google の地図の "C" 地点)
Arqueologia にはこの辺りに 5m を超すピラミッドがあったと書かれていたので これかもしれません。
位置的には外からくる交易船にとって目印になったでしょう。
(Nido de las aves)
ピラミッド跡と思われる土塁は鳥の巣で囲まれ、一度水際に戻って北側に回り込みます。 左上は巣立ち前のカッショクペリカンの幼鳥、右上は
抱卵中のミミヒメウ、写真下はその卵で孵化前の卵が3つ見えます。
(Basamento de Estructura, "E")
ペドロの後をついていくと矩形の建物の基部がありました。 "D" とマークした所です。 Arqueologia によると石の平屋根を持つ石造りの建物も
あったそうですが、多くは石組みの基礎の上に植物性の材料で壁と屋根を作った簡素な建物だったようです。
(Restos de Estructura ?)
案内されるまま奥へ。 この辺りも住居跡でしょうか。
(Resto de Estructura, "E")
更に奥へ進むとなだらか起伏の上にまた住居跡(Google地図の "E" 地点)。 こちらは少し大きいようです。 船頭のペドロは勿論マヤの専門家ではなく、
普段は観光客相手の船を操っているのですが、彼の知る範囲で島の遺跡を案内してくれた訳です。
(Sillares expuestos)
ところどころ壁と思われるものや四角い切り石があり、建物があった事が裏付けられます。
(Resto de Estructura, "E")
なだらかな起伏を北東方向から見ると横長の建物の基部がはっきり確認出来ました。 起伏の上に東西に細長い建物が設けられていたようです。
(Más y más restos de Estructura)
更に東へ。 建物跡が続きますが、遺跡の地図と比べ合わせても何処が何処やら。
(Resto de Estructura, "E")
大きな石柱があったとの事で探してくれましたが、灌木で覆われて見つからないと。 ユカタン半島北部はハリケーンの通り道で、高木は全くありませんが、
遺跡調査の後はまた灌木で覆われてしまったのでしょう。
マヤの遺跡としてはあまり見るべきものはなく、一番大きな建物跡を大きめの写真でもう一度。
セリートス島での居住は紀元前に遡るそうですが、750年頃までは近距離交易の拠点として機能し、繁栄期を迎えたのは古典期終末期からになるようです。
西暦900年頃にかけての所謂 古典期マヤの崩壊に伴い交易ルートが陸上から海洋ルートに変りセリートス島の重要性は飛躍的に高まります。
当時ユカタン半島北部一帯を支配したチチェン・イッツァはセリートス島を対外交易の拠点とした為、セリートス島の人口は数百人に達したと考えられるそうで、
島で見た建物跡はこの頃のものになるようです。
(Vasijas y collares encontradas en la Isla) (Entierro encontradas en la Isla con las ofrendas importadas)
ユカタン半島では黒曜石や翡翠は産出されない為、塩や蜂蜜、綿花に奴隷等との交換で、こうした鉱物質のものを入手し、更に上質な陶器類、
トルコ石や金銅製品の装飾品などを入手していたとされます。
写真左はセリートス島からの出土品の一部で、湾岸地域やグアテマラ南部高地のからもたらされた土器と貝製の装飾品です。(Arqueologia から)
チチェン・イッツァではコスタリカやパナマからの金銅製品も確認されており、交易は北はアメリカ南西部やメキシコ北部、南はパナマ辺りまで
広く行われていたようです。
写真右は同じく Arqueologia から、副葬品を伴った貴族の埋葬です。 小島ですが重要な拠点でチチェン・イッツァの貴族が居住していたのでしょうか。