(Desviación cerca de zona arqueológica)
州道を折れてモラル・レフォルマへ向かう分岐点です。 写真右が州道で、左折すると 3Km先が遺跡です。
(Señal en la desviación)
分岐点に建てられた案内板。 2010年の遺跡の再オープンに合わせて作られたようで、遺跡とその先の滝が示され、観光資源としての地元の
期待が感じられます。
(Acercando a la zona arqueológica)
左折して暫く行くと牧場の向うに自然の隆起があり、その先にピラミッドが見えてきます。 逆光の為にピラミッドの独特の形がシルエット
となって浮かび上がり、期待が膨らみます。
(Señal de Moral-Reforma por INAH)
そして直ぐに遺跡到着、遺跡の看板ではレフォルマとなっていました。 遺跡名はモラルとかモラレスとかレフォルマとか 資料によって
まちまちで、遺跡地図の中にはモラルとレフォルマとふたつ遺跡が有る事になっているものもありますが、遺跡はひとつです。 混乱を
避ける為、INAH のホームページにあるモラル・レフォルマの呼称に倣います。
遺跡の見取り図とGOOGLE EARTHによる現状の確認。 全部で35の建物の遺構が確認された内、修復の手が及んでいるのはグループ1と2の
5つの遺構だけで、グループ3、4、5は全て緑に覆われています。
(Caseta del Sitio)
遺跡の事務所が整備され、INAH の係員も常駐していますが、記帳のみで入場料の徴収はありません。 遺跡到着は2時過ぎでしたが、
その日の訪問者第一号。 遺跡を独占できました。
(Edificio 3)
まず修復されている建造物から紹介していきましょう。 これは遺跡事務所の真向い(南)にある建造物3です。 200AD 頃から
建造が始まり、その後2回にわたり増改築が加えられ、現在の姿は古典期終末期のもので、基壇の隅はまるくなっておりペテン様式を
汲むようです。
(Edificio 1 y Edificio 2)
建造物3の西側に建造物1(写真手前)と建造物2が並びます。 建造物1は既に修復済みで表面も古色を帯びてきています。
小神殿を二つ持つ低層の建造物だったものが、増改築の後に北側に正面階段を持つ現在の形になったそうです。 その向こうに白く
見えるのが建造物2で、度重なる盗掘で原型がかなり崩されていたそうですが…。
(Edificio 2 y Edificio 1)
建造物2の北側正面。 現在は写真の通り修復作業が進行中です。 原型が崩れていた割には随分細かく修復されつつありますが、
正確に復元されているのでしょうか? 2010年1月で修復作業が中断していますが、縄が張られてまだ作業続行中のようです。
(Lado oeste de Edifico 2)
これは同じ建造物2の西側面で、南西側の居住区へと繋がります。 修復作業中の為居住区へは降りられませんでした。
(Vista hacia norte, Conjunto 2)
建造物2の西側から北方向を望みます。 写真左手前の緑のマウンドは建造物4球戯場で、木々の奥に微かにグループ2の建造物14
の大ピラミッドが見えてきます。
(Edificio 3 Juego de Pelota)
建造物4の球戯場、写真上が球戯場の西側の建造物、写真下が東側です。 球戯場の形式は平面上に二つの建造物で球戯面を構成し、球戯面は
南北方向で閉じられていない一番単純な形で、パレンケやヤシチランの球戯場と同じタイプです。
(Edificio 14 de Conjunto 2 visto a través de Juego de Pelota)
球戯場の南側から球戯場の東西のバンクの間に建造物14のピラミッドが綺麗に見えてきます。 マヤでは球戯場は冥界と繋がる神聖な
場所で、モラル・レフォルマでも、祭壇や石碑の多くは球戯場の周辺に置かれていたそうです。
(Altar y Estela erosionados, al lado de Juego de Pelota)
球戯場の北側に石碑と祭壇と思われる残骸がありました。 石碑には文字が刻まれていたように見えますが、風化が進んで既に保護の
価値がないと言う事でしょうか、保護の屋根もなくただ地面に横たえてありました。
冒頭に石碑が発見されて碑文の解読が進んでいると書いたように、解読可能な石碑も回収されています。 でもポモナと違って
遺跡併設の博物館がなく、陸路 50Km 以上離れたバランカンの博物館まで行かないと見ることが出来ません。 この博物館については
最後にモラル・レフォルマの歴史を踏まえて紹介します。
(Parte frontal de Edifico 2 en restauración)
グループ2へ行く前にもう一度修復中の建造物2を。 一番上まで修復が完了するのは何時になるのでしょう?
(Vista general de Edificio 14)
遺跡事務所の横を通ってグループ2へ向かいます。 グループ2とグループ1はグラン・プラサを挟んで向かい合い、グループ2が
広場を北側で閉じる形で位置します。 そしてグループ2の中心はこの建造物14の二つの塔を持つピラミッドです。
(Acercando al Edificio 14)
横長の基壇の前まで来ました。 基壇は幅 70m、奥行き 50m あり、その上に建造物が築かれ、西側と中央に大きな塔が聳えます。
建造物14は2010年の3月から発掘・修復が始まり、2010年1月に修復が完了したばかりの出来立てほやほやのピラミッドです。
(Dos torres de Edificio 14)
西側の塔の高さは 27m になり、見上げるとかなりの急傾斜です。 有名なパレンケの碑銘の神殿が 22.8m ですから その高さも
凌ぎます。
(Escalinata angosta hacia arriba)
そしてこの塔は上まで登れます。 写真は途中まで登って上を見上げたところ。 幅の狭い急な階段ですから結構な恐怖感を覚えます。
両側に手摺がある作りで助かりました。
(Vista desde la cúspide de Edificio 14)
27m の塔に登ってその眺望です。 正面に建造物2のピラミッドと球戯場が見え、真下には建造物14の前に石碑や丸い祭壇が
沢山認められます。 その間にある土色と緑に覆われたマウンドは、土色の方がピラミッド再建時の建築材料の砂のように見えますが、
緑の方は低い基壇の遺構でしょうか。
(Vista panorámica desde la cúspide de Edificio 14)
上の写真とその左の方を繋いでパノラマ合成しました。 左の方は遺跡に至る道の反対側になりますが、グループ3の遺構と思われる
土塁が確認出来ます。
(Monticulo de Conjunto 3)
グループ3の遺構を拡大してみました。 牧場の中ですが一応柵が設けてあり保護されているようです。 でも遺構の上に電信柱が
立っているのが何とも…。 グループ5のある西の方は逆光になるので写真がありませんでしたが、GOOGLE EARTH の画像からすると
林になっているようです。
(Torre este visto desde la cúspide Torre Oeste)
塔の上から東側には中央の塔が見下ろせます。 二つの塔は高さが異なりますが形状も少し違うようです。 普通マヤの建造物は
シンメトリックに作られるのですが、この建造物14はどう見てもシンメトリックとは言えません。 東側に西側と同じ塔があれば
シンメトリックになるのですが…。
例えばこんな風に。
(Bajando de Torre oeste)
そして下りです、登ったものは降りなくてはいけません。 でもこの急傾斜、後ろ向きになって恐る恐る降りて行きます。 階段は
全部で70段です。
(Lado oeste de Edificio 14)
建造物14を西側から見てみました。 後ろ側は修復せずにそのまま残してあります。
(Parte trasera de Edificio 14)
そして後ろ側(北面)の状況です。
(Lado este de Edificio 14)
東側は全面的に修復されていました。
(Proceso de restauración, recortes de You Tube)
修復中の映像が You Tube にあったので、切り出せて貰いました。 左は修復当初の様子ですが、基部こそ階段が認められるものの、
二つの塔は単なる崩れた山です。 これが修復が進むと右の画像のように立派なピラミッドが出来上がっていって…。
博物館で INAH の職員と雑談している時に Piramidiota と言う言葉を聞き、笑ってしまいました。 つまり功を急ぐ余り充分な
根拠なく想像を働かせてピラミッドを再建してしまう考古学者の事で、Piramide(ピラミッド)と Idiota(バカ、まぬけ) の造語です。
建造物14が Piramidiota による所作でない事を祈ります。
(Máscaras recuperadas durante proceso de restauración)
発掘修復作業中には建物に埋納されたと思われる彩色された彫刻のマスクが出土し話題になりました。 バランカンの博物館には展示されて
おらず、今どこにあるのでしょう。 写真は
"NOTICIA TABASCO" からお借りしました。
Museo Dr. Jose Gomez Panaco
(Vista exterior del Museo)
さて場所は変わって、写真はタバスコ州バランカン郡の郡庁所在地バランカン市にある博物館、MUSEO DR. JOSE GOMEZ PANACHO の外観です。
モラル・レフォルマはバランカン郡にあり、出土物はこの博物館と州都ビリャエルモサの地方考古学博物館に移されています。
ルートの関係で市の博物館は午前中ポモナの前に偵察済みでした。 モラル・レフォルマからバランカン市は直線で 20Km程ですが、
湖沼地域を迂回せねばならず、車で 50Km 位走る事になります。
(Exhibición de las Estelas y Altares)
博物館は無料と聞いていましたが、2ペソの徴収がありました。 2ペソって超円高の現在は10円チョット、殆ど只です。
写真は博物館1階の石造物が集められたコーナーで、石造物はモラル・レフォルマとサンタ・エレナ(テノシケからモラル・レフォルマ
へ向かう途中にあるようです) からのかなり風化の進んだ石碑と祭壇でした。
(Estelas y altar desde Moral-Reforma y Santa Elena)
写真の通りかなりの風化です。 モラル・レフォルマでは 1937年に石碑1(756年)が発見され、1945年に石碑2(711年)、石碑3
(735年)、1959-61年に石碑4と石碑5(633年)が発見と、碑文の刻まれた石碑が5本になり、略奪を防ぐ為にバランカン市へ運ばれた
そうです。 (括弧内は石碑に刻まれた日付) 博物館の開設は 1979年なので、それまで雨ざらしになっていたのか、酷い痛みです。
(Estela 4 de Moral-Reforma conocido como Señor de Balancan)
石碑4は「バランカンのセニョール」と呼ばれる立派な石碑で、非常に状態が良くあちこちで写真が紹介され、一度実物を見たいと
期待していたのですが、写真で見たものよりかなり風化していてチョットがっかりでした。
(Estela 4 escaneado de Guía de Tabasco) (Lado trasero de Estela 4)
メキシコで発行されている州毎のガイドブック "El Estado de Tabasco" の 111頁に写真があり比較の為にスキャンしました。
図像がより明瞭で文字もはっきりしています。 風化してしまったのでしょうか? でも大事なのは記録されて解読可能だった事です。
右は博物館でガラス越しに外から撮った石碑の背面です。
石碑には前面に王杓をもったモラル・レフォルマの王 Craneo Halcon (骸骨ハヤブサ)が足元に二人の捕虜を伴って彫られ、石碑の
側面には捕虜の名前が彫られているそうです。 そして歴史を物語るのが 6 列 15段に渡り背面一杯に彫られた神聖文字です。
メキシコの隔月刊 Arqueologia 61号(2003年5‐6月号)でこの石碑が特集されていて、解読された部分からは驚くべき史実が明らかに
なっています。 何と骸骨ハヤブサ王は3度に亘って即位の儀式が行われたそうで、その背景にあるのがマヤ列強の勢力争いです。
石碑に刻まれた史実を列挙すると、骸骨ハヤブサ王は 656年に生まれ 661年に先王を継いで5才で即位、しかし翌年 662年にはカラクムルの
ユクノーム・チェーン2世の後見のもと再度即位の儀式が執り行われている。 その後 687年と多分689年に戦いがあり骸骨ハヤブサ王は
石碑4に刻まれている2人の捕虜をとって勝利。 そして 690年に今度はパレンケのカン・バラム2世の後見のもと三度目の即位の儀礼が
行われる、と言った具合です。
5才で即位と言う事は先王は若くして戦争で落命したのでしょうか。 そして即位したものの 翌 662年にはカラクムルに敗れて服従王と
なったのでしょう。 その背景としてこの時期ウシュマシンタ下流域を巡って カラクムルとピエドラス・ネグラスの連合軍とパレンケ軍との
間に勢力争いが繰り広げられ、カラクムルが優勢だったようです。 その後 684年にパレンケのカン・バラム2世が即位していて、その
助力もあったのか、骸骨ハヤブサ王が2度に亘る戦勝を収めたのでしょう。 その後カラクムルは衰退に向かい、690年にはパレンケの王が
正式にモラル・レフォルマの優越王になったと考えられます。 695年にはティカルがカラクムルに勝利し、カラクムルが弱体化していった
事実と符合します。 1本のモラル・レフォルマの石碑から古典期マヤ全体の歴史が垣間見れる、何ともロマンのある話になって
きました。
(Estelas fragmentadas)
博物館には他に断片に崩れた石碑も置いてあり、博物館の係員が倉庫の中まで案内してくれました。 Arqueologia 61号には石碑4の他、
石碑1、2、3の画像もありましたが、既に写真の様に断片化してしまったのか、或いは州都の地方考古学博物館にあるのか気になります。
( 2013年1月に 州都の地方考古学博物館
に行きました。 かなり風化していますが、立派な石碑1 と石碑2 が入り口を入った所で来館者を出迎えてくれます。)
(Bodega del Museo)
倉庫の中と係員の方。 棚には土器や石器とその破片が集められ、床には石造物の断片が山積みされていました。
(Piezas líticas de estilo Olmeca)
こんなオルメカの石の彫刻もあるよ、と棚から出してくれたのが左の写真です。 この博物館はキューバ人 Dr. Jose Gomez Panaco
の寄贈品を元に作られたもので、タバスコと言う場所柄オルメカ関連の収蔵品も数多くあり、右の彫刻は2階の展示室に
陳列されていました。
(Figurillas de estilo Olmeca)
オルメカの焼き物の顔も沢山飾ってあります。 紀元前の先古典期中期頃のものでしょうか。
(Mujer en parto) (Cerámicas de Maya)
左の人形は出産中の女性だそうで、口を開けて手を頭に当てて苦しみを表現し、足元には赤ん坊が頭を出しています。
安産を祈願したものでしょうか、よく見ると眉間に皺がよって口の中には喉仏まで見え、何とも凄まじい石像です。
(と言うのが係員の人の説明でしたが…、2014年にメキシコ市国立宮殿にこの人形が出展されていて、
そこでは自己犠牲を行い苦しんでいる様子、と言う説明がついていました。 さて?)
右の写真は同じく2階にある展示品の中からマヤの壺類です。
(Vasija policromada con diseño geométrico y jaguar)
最後に見事な彩色土器、同博物館の目玉のひとつでしょう。 濃い赤の背景に幾何学模様とジャガーそして鹿が描かれて
います。 出土場所はわかりませんが、タバスコ州東部からのものと思います。
モラル・レフォルマ遺跡はまだあまり知られていない遺跡ですが、発掘修復が進み、碑文からその歴史が解明されてきて、とても
興味深い遺跡でした。 願わくば修復が飽くまで忠実たらん事を祈るばかりです。
パレンケに腰を据えたタバスコ・チアパスの探索は好天に恵まれ、予備日にはグアテマラ国境に近いサン・クラウディオまで足を
延ばせました。 ちいさな遺跡ですが、次は近年発掘が行われた
サン・クラウディオ遺跡 です。