マヤ遺跡探訪
PLAYACAR
プラヤ・デル・カルメンはカンクン、コスメルに次いで近年急速に観光開発の進むリビエラ・マヤの中心地です。  青い海と白い砂浜が売りですが、街の南のプラヤカルと呼ばれる地域にマヤ遺跡が残されます。

遺跡としては大した規模ではなく殆ど紹介される事もありませんが、16世紀初めに難破船から流れ着いたスペイン人 の一人が奴隷として生き延びたのが当時シャマンハと呼ばれた現在のプラヤカルで、どんな遺跡が残っているのか 一度行って みたいと思っていました。

ウェブ検索しても情報も画像も殆ど出てこない遺跡ですが、それは遺跡の規模の他にも理由がありそうです。 それは下の方で。
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    (訪問日 2014年1月18日)
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旅程を組むにあたりウェブで情報を捜し、グーグル・アースで空から、ストリート・ビューで実際の目線で、偵察を試みまし た。 書かれた情報は INAH のページのごく限られた記述のみで、画像は殆ど出てきません。グーグル・アースで遺跡らしき ものは確認できるのですが、ストリート・ビューはプラヤ・デル・カルメンが隈なく網羅されているのに対してプラヤカル 地域だけは除外されていて、その入り口には検問所が見えます。

どうやら遺跡は警備が厳重な特別区域の中のようです。 プラヤ・デル・カルメンまで来て一泊して遺跡には行けませんでした、では 笑い話にもなりません。 念の為ホテルを特別区域内に取りました。 INAH のページで入場無料と書いてあるのに一般公開 されていないと断りがあるのはこの辺の事情があるのでしょう。

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 (Entrada al área de Playacar)

朝チェトゥマル北のバカラールを出発し、途中シアン・カーン内のムィル遺跡に寄り、昼過ぎに予定通りプラヤカルに到着。  目の前に写真の検問所が立ちはだかります。 でも宿泊先を告げて無事通過!

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 (Edificio simulado, Spa del Hotel)

海岸沿いのホテルは三食付きの滞在型超高級ホテルなので、リーズナブルな値段を探したらゴルフ場の真ん中の Hacienda Vista Real になりました。 写真はホテル付属のスポーツジム&スパで、マヤの異なる建築様式が組み込まれたグロテスクな造り でした。 こんな神殿ピラミッドは有り得ません。

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さてここから遺跡の紹介です。 赤で ”E" と書いた所が上の写真のエントランス、同じく ”H" はホテルです。  チェックインを済ませ、歩いて遺跡探索に出かけます。 道の両側にポルシェや BMW が普通に停まっている 超高級住宅街、 厳重な警備が頷けます。

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 (Pequeño santuario Maya)

海岸に近い遺跡ゾーンはグーグル・アースでチェックしてありましたが、途中シャマンハ通りとコバ通りの東南角に小さなマヤの 構造物がありました。 地図の上の方で小さな黄色い四角で囲んだ所です。  高さは 1m位で、祈りを捧げた祭壇といった感じ でした。

INAH の情報によると、B, C, D, E, F, H, L, M, N, Ñ と グループが 10 ある事になっていますが、ここはどれにあたるの でしょう?

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 (Señal para el Grupo C, cerca de la entrada)

海岸エリアを目指して東へ。 入り口の検問所のある円周道路の南に ”グループC” と海岸への歩行者用通路を示す標識 があります。 地図に黄色で ” C ” と書いてある所です。

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 (Caminito hacia la ruina)

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 (Explicación del sitio)

標識に従い石畳で整備された小道を行くと遺跡を説明するプレートが嵌め込まれた石碑のようなものがありました。 INAH ではな く、プラヤカルのコンドミニアム協同組合によるものです。

INAH のウェブページではプラヤカルという名前になってますが、古くはシャマンハ (北の水) と呼ばれており、カラフルな 説明プレートにはシャマンハとマヤの時代の名前が刻まれていました。 対岸のコスメルは古くは月の神イシュチュルの聖地で シャマンハはコスメルへの聖地巡礼の集合場所だった事、またシャマンハがベラクルスからホンジュラスへ至る海上交易路の 重要拠点だった事等が記されていました。 プラヤカルには三つの遺跡ゾーンと防塁が見られるそうですが、三つとはどの グループの事か?

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 (Vista aérea de Grupo C)

”グループC” の標識はシャマンハ通りにありましたが、遺跡は小道を抜けて海岸通り沿いにあります。 グーグル・アースの空からの写真で 右上から左下にかけて石造物が4つ確認できますが、これがグループC になる ようです。

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 (Edificio suroeste)

小道を暫く歩いていくとマヤの建物が見えてきます。 上のグーグル・アースの画像で一番南に見える建造物で、 写真はその西側にあたります。

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 (Parte frontal de Edificio suroeste)

正面に回り込むと建物は横長の基壇の上にのっていました。 東が正面で海に向かって建てられています。 基壇上に幾つか の神殿が設けられていたように見えますが、大分崩れていてよくわかりません。

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 (Un templo sobre plataforma de Edificio suroeste)

南側に上部構造まで残った神殿風の建物があり、写真左が東正面、右は北側面です。 頭でっかちの建物の形は典型的な 東海岸様式 を示しています。   ヤシで葺いた屋根は保護の為で、神殿は平らな屋根だったでしょう。

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 (Plataforma derruida al lado de Edificio suroeste)

二番目の建造物は崩れた基壇だけで、原型が全くわかりません、専門家にはわかるのでしょうが。

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 (Otra plataforma y templo superior)

三番目の建造物は少しマシですが、あまり原型を留めません。 東向きに建てられていたように見えます。

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 (Edificio noreste)

道路に近い一番北側の建造物が一番しっかり残っています。 写真手前左は三番目の建造物の基壇です。

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 (Lado sur de Edificio noreste)

上の写真で見えていたのは正面ではなく南側面でした。 壁面上部から天井まで残っているようです。

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 (Parte frontal de Edificio noreste)

南東側から見た一番北の建造物と、下は海岸を向いた東側にある正面です。 入り口部分が残念ながら少し崩れ落ちて いますが、プラヤカルで残された中では一番大きく立派な建物で、正面階段の右下には木製の説明プレートがありました。

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 (Panel de explicacion erosionado)

これがその木製プレート。 プレート自体風化が進んで説明は部分部分しか読めませんが、それでも 1300-1500年とグループC および遺跡名のマヤ語の意味は読み取れました。

こうしたプレートが取り付けらた時もあった訳ですが、このプレートの現状が物語るように、今ではあまり見向きもされなく なっているようです。

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 (Foto panorámica del interior de Edificio noreste)

建物の入り口に立って建物内部を左右と正面から写真に撮り、パノラマ合成してみました。 歪んでいますが内部神殿の 様子がわかります。

内部神殿があり左右と正面に通路を持つ建造物は東海岸地域では良く見られ、大きなものではトゥルム のフレスコ画の神殿の1階部分がこれにあたりますが、通常内部神殿が時代を追ってより大きな建造物で覆われていったよう です。 カリカ シェルハ では内部神殿に壁画が残されますが、この神殿も綺麗に彩色されていたかもしれません。

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 (Lado norte de Edificio noreste)

これは同じ北側の建造物の北側面です。 建物は石を積み上げた上に漆喰を塗り固めて彩色されるのが一般的ですが、この 北の建造物はかなりの部分にまだ漆喰が残されます。 見た所あまり修復の手が加えられておらず、崩れた入り口もそのままに なっており、もしかしたら未修復で当時の姿をそのまま伝えているものかもしれません。 そうであれば学術的にも貴重なもの の筈ですが…。


さて、プラヤカル (シャマンハ) はここだけではありません。 でも何処へ行ったら…? 道行く人にインタビューを試みる も遺跡に無関心の人が殆ど。 やっと有力情報を得て南へ。

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 (Vista aérea de Grupo D ? )
海岸通りを 250m 程下ると道路が遺跡に沿って半月型に湾曲していました。

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 (Edificio de Grupo D ? )

基壇の上に建物があり、その上に木の枠組みがあります。 保護の為の屋根があったものが、ハリケーンで吹き飛ばされたので しょう。 2005年のハリケーン・ウィルマでしょうか。 修復されずに木枠だけ残されます。 グループC の南に位置し、 時計回りに番号を振っていくとここがグループD になるでしょうか?

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 (Estructura superior)

基壇に上がって建物に近づくと天井は無くなっていますが部屋が2つ以上ありました。 入り口の枠組みは石の鴨居部分まで そのまま残り、内部は赤やライトブルーで彩色されていたように見えます。 でも失われた保護の屋根はそのままで、更なる 遺跡保護の意図はないようです。

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 (Vista aérea de Grupo E ? )

また聞き込みを再開。 今度は近くの住人が見つかりすぐにわかりました。 海岸通り沿いに更に 200m 位南です。 時計回り だとグループE になります。

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 (Edificio de Grupo E ? )

ここは基壇が高く、何層かのピラミッド基壇になっていたようで、上に小さな神殿風の建物があるようです。 近づいてみると 上部神殿にはやはり木の枠組みだけ残され、保護の屋根は吹き飛ばされた?

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 (Lado sur de Plataforma y Templo superior)

基壇の北側に廻ると低層の基壇が西側へ向かって延びています。

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 (Plataforma intrincada en frente de Templo superior)

低層の基壇の上がってみると構造物がいろいろ入り組んでいたように見えますが、何がなんだかサッパリ?

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 (Templo superior)

低層の基壇の東側に最初に基壇上に見えた神殿があり、ステップの先に神殿の戸口がある事から、西向きに建てられていた ような印象です。

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 (El interior de Templo superior)

保護の屋根がつけられていたと思われる神殿内部です。 石組みの上に塗られた厚い漆喰の壁が残りますが、苔か黴で 黒ずんでいました。

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 (Señal que indica Grupo E y F sobre Paseo Xaman-Há)

また教えられるままに森を内陸側に抜けてシャマンハ通りに出るとグループE、F の標識が見つかりました。  地図に黄色で ” E y F " と記してあります。

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 (Vista aérea de Grupo F ? )
グーグル・アースの画像で左上に走るのがシャマンハ通りで、通りの内側に建物が3つ並ぶ様子が確認できます。  一番南の基壇が大きい建造物の正面に当たるシャマンハ通り際に標識が設置されていました。

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 (Estructura suroeste)

南側の建造物です。 横長の基壇の南西側に小さな神殿風の建物がひとつだけ。 何だかよくわからない建物で、次の 建物へ移動します。

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 (Estructura del medio)

これは2番目の建造物を南西側から見た所です。 3つの建造物は太陽の向きとは関係なく並んでいますが、地図で 確認すると海岸線に沿って建てられていたようです。

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 (Estructura del medio)

2番目の建造物の南東側に廻るとこちらが建物の正面で、やはり海を向いて建てられています。

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 (Estructura del noreste)

これが3つ目の一番北東側にある建物で、この建物は海側ではなく北東を向いて建てられていました。

3つ一列に並んだ建物は何か共通の目的を持っていたものと思いますが、基壇上の建物は居住用にしては小さく、 祭事に用いられた建物群だったでしょうか。

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 (Otro señal para Grupo H, pero dónde ? )

シャマンハ通りに戻ると、通りの反対側にグループH と書いた標識もあります。 茂みに分け入って捜してみましたが 何も見つかりません。 ゴルフ場に取り込まれたか、遺跡の確認だけで埋め戻されたのか、それとも既に喪失されて しまったのか。


プラヤカルは90年代にフェーズ I として海沿いの北東部が開発され、その後ゴルフ場を中心にフェーズ II が整備 されて現在のプラヤカル地区が形成され、現地で確認できた グループ C-F はフェーズ I の中、最初に見た小さい祭壇風 の構造物はフェーズ II 地域です。

INAH 情報によると 10 グループあるそうですが、現地で捜索できたのはここまで。 以前からこちらにお住まいの方 の話だと開発に伴い姿を消していった遺跡もあるようで、何グループが残されているのでしょう?


冒頭で触れた16世紀初めのスペインの漂着民ですが、これは 1511年の事で、パナマからドミニカに向かったスペイン船が 難破して生存者15名がユカタン半島に漂着します。 大半が捉えられて生贄に供される中、逃げ延びたゴンサーロ・ゲレロ は軍事指揮官としてマヤに同化して子供も儲けます。

もう一人の生き残りのヘロニモ・デ・アギラールは奴隷としての生活を送り、その場所がシャマンハだったそうです。  アギラールは8年後の 1519年 エルナン・コルテスに見いだされ、通訳としてメキシ征服に同行する事になります。  そんな歴史を思い浮かべるとプラヤカルの遺跡もまた感慨一入です。



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