Monumentos de Copán I
コパン遺跡の記念碑 I
コパン遺跡の魅力のひとつは何と言っても石像と呼ぶに相応しい沢山の石碑群で、このページでは石碑や祭壇等のコパンのモニュメントに注目し、
そこに刻まれた神聖文字からコパンの歴史の一端も見ていきます。
石碑芸術が頂点に達した 18 ウサギ王の石碑が並ぶグラン・プラサは王の庭とも呼ばれ、これ等 18 ウサギ王の石碑を初めにまとめて見た後、
ページを改め、時代を追ってその他のモニュメントを見る中でコパンの歴史を振り返ってみます。
(訪問日 2003年 8月24日、2015年 1月16日)
13代 18 ウサギ王の石碑 Estelas de Uaxaclajuun Ub'aah K'awiil
(石碑 4 に刻まれた神聖文字で 18ウサギ王を表します。)
画像をクリックすると大きな地図が開きます。
グランプラサの見取り図です。
■ は石碑 (Estela)、
● は祭壇 (Altar) の位置を示します。
石碑 J ESTELA J ( 9.13.10.0.0 7 Ahau 3 Kumk'u, Enero 24, 702 )
18 ウサギ王は 695年に即位し、738年にキリグアの謀反で落命するまで、8本の石碑を残します。 18 ウサギ王の時代がコパンの絶頂期になるので、
殆どの石碑がグラン・プラサにそのまま残されますが、即位後最初の石碑になる石碑 J は、中心部の東側でラス・セプルトゥーラスに抜ける場所に建てられます。
(Estela J colocada entre Gran Plaza y Las Sepulturas)
石碑 J は中心部の外れにあるので見落としがちですが、説明文が書かれた案内板も整備されており、是非足を伸ばされる事をお勧めします。
(Altar de Estela J)
石碑の前(西側)に置かれた祭壇のように見える石造物です。 藁ぶき屋根の形をしていて、もともと石碑上部に置かれていたものだそうですから
石碑の一部と言った方が正しいかもしれません。
石碑 J は屋根の付いた大変ユニークな石碑になり、王の肖像が刻まれた他の石碑とは異なり、グラン・プラサとラス・セプルトゥーラス
を隔てる道標の役割も持っていたようです。
(Lado Oeste) (Lado Sur)
写真左の石碑西側には聖なる大地ウィッツが表されます。 中央の縦長の四角が眼窩で囲われた両目で、下の渦巻きが鼻、更にその下の四角が口で周りが唇となり、
大地の怪物ウィッツの顔になります。 四角の外側は全面 マヤ文字で埋め尽くされます。 写真右は石碑の南側面で、全面碑文です。
(Lado Este) (Lado Norte)
写真左はラス・セプルトゥーラスを向いた石碑東面で、斜めに織り込まれた王権の象徴のゴザ目の中に碑文が複雑に刻み込まれます。
右は北側面で南面同様全面碑文です。
碑文は東面から始まり、石碑の奉納年に加え ここから聖なるグラン・プラサに入っていく事が示されるようです。
西面には聖なる広場を出て生と死の繰り返される現世のラス・セプルトゥーラスに入る事や、9バクトゥンを初代ヤシュ・クック・モが祝った事と
先代王の即位年、およびこれを正当に継承した18ウサギ王の即位年が記されるそうです。
コパンの石碑等の記念物について FAMSI からマニュアルが公開されています。 豊富な写真、模写、文字の解読を含む、難しいですが本格的なマニュアルで、
スペイン語と英語で書かれています。 興味のある方はこちらを参照される事をお勧めします。 6 部に分かれた PDF 版がダウンロード出来、
主だった石碑が殆どカバーされます。
Manual de los Monumentos de Copán, Honduras
石碑 C ESTELA C ( 9.14.0.0.0 6 Ahau 13 Muwan, Diciembre 3, 711 )
(Estela C)
石碑 J の9年後に14 カトゥン (9.14.0.0.0) を祝って奉納されたのが石碑 C で、18 ウサギ王の肖像が立体的に彫られ、グラン・プラサの中央北側に建てられます。
石碑は両面に王の肖像が彫られ、祭壇を伴います。
石碑 C は神々による宇宙の創造の活動に捧げられ、18 ウサギ王は世界樹に模して刻まれ、神々に代わって王が宇宙を支え続けると言う、言わば王を
神格化する目的を持って刻まれた石碑のようです。
(Lado Este) (Lado Oeste)
太陽の登る東側には若い王が刻まれ(左の画像上下)、鳥の頭飾りとワニの腰飾りを付けた王は両腕で王笏を抱え、笏からは幻視のヘビ出現して
首を落とされたトウモロコシの神の頭を支えている、と言ったような図柄です。
太陽の沈む西側ですが(右の画像上下)、こちらは顎鬚を生やした年老いた王が表され、大きな頭飾りからは先祖や神々が顔を覗かせます。
宇宙を支え 天界、地上界、冥界を仲介する王の存在が示されます。
(Lado Norte) (Lado Sur)
石碑の南北側面は神聖文字が上から下まで並べられ、4本の柱で宇宙を支える創造物語とこれを司った神々の名前が記されているそうです。 左が
北面、右が南面になります。
(Artar de Estela C)
これは西面の年老いた王の前に置かれた双頭の亀の祭壇ですが、北側の亀は骸骨顔、右の亀は生きた亀の姿をしています。 マヤ神話では
亀は大海に浮く陸と考えられ、冥界から逃れた双子のトウモロコシの神は亀の背中から蘇生します。 石碑にトウモロコシの神の頭が彫られており、
亀の祭壇を通して復活し、こうした事象を神々に代わって王が司ると言ったところでしょうか。
石碑 F ESTELA F ( 9.14.10.0.0 5 Ahau 3 Mak, Octubre 11, 721 )
(Estela F)
次に建てられたのが 14カトゥン10トゥンのハーフカトゥン (
長期暦 で 1 カトゥンの半分、10年) を祝った 石碑 F で、石碑 J から
ハーフカトゥン毎に建てられた 3本目の石碑になります。 保護の為の屋根がありませんが、これもオリジナルの石碑なので早晩屋根が設けれるようです。
2003年に来た時は屋根は石碑 C だけで写真が撮り易かったのですが、現在はこの石碑以外 オリジナルは全て屋根が付けられています。
良い状態で石碑を後世に残す為には仕方ありません。
(Lado Oeste) (Lado Noroeste)
(Lado Este) (Lado Norte)
左上の写真が石碑の西を向いた正面、右上が北西面、左下が背面で、右下が北側面です。
石碑 F では 18 ウサギ王は明けの明星に関連付けられるジャガー神の姿で表され、断食を行いジャガー神の精霊を呼び出して石碑を捧げます。
両腕で抱えた王笏両端のヘビおよび 両足元からジャガー神が現れます。 上の全身の写真では見辛いので王笏左側のジャガー神を下に切り出してみました。
ジャガー神は自己犠牲にも関係し、王の腰飾り中央から編んだ縄が下に伸び、王が捧げる血が縄を伝って足元に垂れ下がります。 縄は石碑背面にも回り込んで
”8”の字を描き、縄で囲まれた部分に碑文が刻まれます。 碑文は石碑の奉納年から始まり、王が石碑をジャガー神に捧げる旨が刻まれるようです。
(Deidad Jaguar saliendo de barra de serpiente) (El rostro del Rey)
(Altar de Estela F)
石碑の前に置かれた祭壇には東西両面にジャガーの顔が彫られ、額に巻かれた三重の縄は放血儀礼に関係したもののようです。
石碑 4 ESTELA 4 ( 9.14.15.0.0 11 Ahau 18 Sak, Septiembre 15, 726 )
(Estela 4 a la izquierda)
石碑 4 は石碑 F の5年後のクォーター・カトゥンを祝って建てられ、石碑建立の間隔が短くなります。 石碑 F と対になる様式で、前面から側面まで
立体的に王を取り巻く彫刻が施され、碑文は背面のみに刻まれます。
(Lado Este)
(Lado Norte) (Lado Oeste)
上の写真2枚は東を向いた正面、下左は北東側、下右が石碑の背面です。
石碑 F とは様式だけでなく、扱っているテーマも同じで、放血儀礼に用いられた縄が、石碑 4 でも王の膝下にも現れます。 縄は背面に回って碑文を飾り、
前面に戻って腰布の中でペニスを貫いて、王の血を含んだ縄が下に垂れ下がります。
碑文は 6カトゥン( 8.6.0.0.0 159年 )にキニチ・ヤハウ・フンと言う想像上の王がコパンの守護神を受け取ると言う神話上の出来事に遡り、18 ウサギ王が
儀礼を行って大地に活力を与え、世界の均衡を保つ輝かしい後継者となる事が刻まれるようです。
(El rostro del Rey)
(Altar Y, Barrigon, Altar de Estela 4)
石碑 4 の前に3つの石造物が置かれています。 東側の(写真右)の球形のものは石碑と同時に捧げらた祭壇ですが、他の2つは石碑の下の隠し穴に
納められていたそうです。 方形の石碑 Y は 11代王ブッ・チャンの時代のもので、石碑 4 同様に 159年の神話上の出来事が記されているようです。
中央の石像は先古典期に遡る”太鼓腹”と呼ばれるもので、
モンテ・アルト遺跡
等で多く見られますが、南部高地以南で作られたものがコパンにもたらされたようです。 首が落とされていますが、石碑 Y と共にコパンの古い歴史を誇示す為に
埋納されたと考えられそうです。
石碑 H ESTELA H ( 9.14.19.5.0 4 Ahau 18 Muwan, Diciembre 3, 730 )
(Estela H)
次に建てられたのが石碑 H で、石碑 H と次の石碑 A は 15 カトゥンまで夫々 260日、 200日と、15 カトゥンに近い日付に奉納されており、
15 カトゥンそのものを祝った石碑ではありませんが、それに関連した石碑と言えます。
石碑 H が 15 カトゥンの 260日前と言う事はツォルキン暦で 15 カトゥンの丁度 1年前 ( 13 ウィナル x 20 キン = 260 キン) になり、更に
この日をもって明けの明星が終わり、その後宵の明星として金星が再び空に現れるのが 15 カトゥン の始まる日で、長期暦の切れ目と金星の運行がぴったり
重なり、これを吉兆としてこの日付で石碑 H が奉じられたそうです。
(Lado Oeste)
(Lado Sur) (Lado Este)
石碑 H にはトウモロコシの神に扮した 18 ウサギ王が刻まれ、写真上は西を向いた正面、下左は南側面、下右が東の背面になります。
世界創造の神であり、世界を支える柱の役割を持つトウモロコシの神は、天界、地上界、地下界を媒介し、王はその神に代わり 自己犠牲の血を持って
永遠の太陽と生命の再生の任に当たります。 背面の世界樹には上から天界、地上、地下が表され、8文字の神聖文字が添えられ、
ウサギ王の名と石碑の奉納年等が刻まれるようです。
(Un olote de maíz saliendo del tocado) (El rostro del Rey)
王の被り物の上にはトウモロコシの穂軸が表され(写真左)、生命の再生が象徴されます。
(Altar de Estela H)
石碑の前に置かれた菱形の祭壇には東西面に動物の顔が描かれ上部が放血儀礼の縄が結ばれます。 南北面にはジャガーの装いをした神が刻まれ、
明けの明星の終了と次の宵の明星の出現を表現しているかのようです。
石碑 A ESTELA A ( 9.14.19.8.0 12 Ahau 18 Kumk'u, Febrero 1, 731 )
(Estela A)
石碑 A は 15 カトゥンに先立つ事 10 ウィナル前 (ツォルキン暦で 10ヶ月= 200日前)に奉じられた石碑ですが、やはり 15 カトゥンに関連した
石碑です。 写真は遺跡の王の広場にある石碑 A ですが、これはレプリカで、オリジナルは状態が一番良かったからか彫刻博物館に収められています。
(Lado Este) (Lado Oeste, Réplica)
(Lado Noreste) (Lado Suroeste)
左上の写真は博物館に移された石碑の正面、右上は遺跡のレプリカの石碑背面、下の写真は碑文で埋められた南北側面で、石碑 H に比べると碑文が豊富で、
沢山の史実が語られるようです。
王はコパンの守護神の姿で自己犠牲を行い、頭飾りの上にあるトウモロコシの神の頭からはトウモロコシの芽が伸びており(下の写真の左側)、死からの再生と
聖なる存在としての神格化が表されます。 王の後ろには幻視のヘビが現れ、祖父の先々大王 ブッ・チャンの精霊が呼び戻されます。
(Calavera de Dios del Maíz sobre el tocado) (Nombres de los gran reinos Maya)
長い碑文は 石碑 A の奉納年と 18 ウサギ王がこれを奉じた事から始まり、石碑 H の日付で先々代王の骨を切断する儀式を行い石のベンチを捧げて王を
敬った事が記され、これ等の儀礼には当時のマヤの超大国だったティカル、カラクムル、パレンケから高位の貴族が参列したと言う記述もあるそうです。
コパン王朝はティカルやパレンケと歴史的には友好関係を築いていたようですが、カラクムルは謂わば敵対する陣営の頂点です。 碑文研究からカラクムルは
695年にティカルに決定的な敗北を喫していた事が知られますが、735年にはコパンでの儀礼にティカルやパレンケと並んでカラクムルも参加していた
と言う事になります。 果たして史実なんでしょうか?
石碑 B ESTELA B ( 9.15.0.0.0 4 Ahau 13 Yax, Agosto 20, 731 )
(Estela B a la derecha)
15 カトゥンに先立って石碑 H と石碑 A の2本の石碑が建てられていましたが、正式に 15 カトゥンを祝って奉じられたのが石碑 B です。
9 バクトゥンの 15 カトゥンは長期暦の始点と同じツォルキン暦の 4アハウに当たり、これは 13 カトゥンに一度、つまり長期暦の260年に一度しか
来ない記念すべきカトゥンの始まりで、特に重要だったようです。
(Lado este) (Lado oeste)
(Lado norte) (Lado sur)
石碑は東向きに建てられ、写真上左が正面で王の像が彫られ、上右が背面です。 下左が北、下右が南側面で側面のみ碑文が刻まれます。 王はコンゴウインコの山
と呼ばれる聖なる大地ウィッツからチャーク神の姿で現れ、祖先に香を撒き血を捧げてコパンの繁栄を祈願します。 王の背景と石碑裏面は全体が聖なる大地で、
背面には大地の怪物の目と口が表され、ウィッツの記号(下の写真の左側))が彫り込まれます。
(Signos de Witz) (El rostro del Rey)
石碑 D ESTELA D ( 9.15.5.0.0 10 Ahau 8 Chen, Julio 24, 736 )
(Estela D)
15 カトゥンからクォータートゥン(長期暦の5トゥン=5年)経過し、石碑 D が奉納されます。 グラン・プラサの 18ウサギ王の石碑は全て東か西を
向いていますが、この石碑だけグラン・プラサを北側で閉じる建造物 2 の前に南を向いて建てられます。
(Lado sur) (Lado este)
(Lado norte) (Lado suroeste)
石碑 D は 18ウサギ王の最後の石碑だけあって、彫りが深く立派な仕上がりです。 写真上左が南を向いた正面、上右は東側面、下左が全面に全身体のマヤ文字
が刻まれた北側の背面、下右は正面西寄りになります。
王は四匹の幻視のヘビに囲まれ、ヘビの口からは稲妻と王権や生命の神であるカウィール神が出現し(下の写真の左側)、王は老いた太陽神かトウモロコシの精霊
のように描かれ、自己犠牲を行い、カウィール神から啓示を受けます。
(Dios K'awiil en la cúspide) (El rostro del Rey)
(Altar de Estela D)
石碑 D の前に置かれた祭壇には大地の怪物ウィッツが刻まれ、石碑を向いた北側は肉の付いた顔、南側は肉の削げた骸骨顔になっていて、生と死の輪廻を
表しているようです。
この石碑 D が 18ウサギ王の最後の石碑になりますが、即位後40年にわたりコパンの繁栄を導いてきた王が、この石碑建立から2年を経ずして
自らが後見したキリグアの王に命を絶たれるとは思ってもいなかったでしょう。 この石碑が建てられたのが西暦で 736年7月24日、王の落命は
738年5月1日とされます。
(Estelas de 18 conejo en Gran Plaza, foto en 2003)
最後に石碑 D の裏側にあたる建造物 2 からグラン・プラサを見下ろしてみました。 正面が南です。 2003年の写真なので、石碑 C だけ屋根が
付いています。
左列(東側)奥から石碑 H と石碑、祭壇 G-1、2、3 を挟んで、石碑 F と石碑、中央手前が石碑 D と石碑、屋根の付いた石碑 C と祭壇、
右列(西側)に移って手前から 石碑 B、石碑 4 と祭壇、方形の建造物 4 の手前が石碑 A でした。
18ウサギ王の石碑以外にもコパンの遺跡や博物館を訪れて目にする事が出来る石碑、祭壇が沢山あります。 ページを改めて
第2部 でこれらの記念碑を紹介していきます。