GRUPO NÚÑEZ CHINCHILLA - COPÁN
ヌニェス・チンチーリャ グループ
9L-22, 9L-23
13代 18 ウサギ王の石碑が林立するグラン・プラサの北側に ヌニェス・チンチーリャ グループ があります。 2003年から
2009年にかけて日本の支援により発掘・修復されたエリアで、2012年の 10月頃に公開が始まったようです。
日本の支援はODAの無償資金援助に止まらず、発掘修復は中村誠一氏がディレクターを務めるプロジェクトにより行われており、
ラストロホンと共にコパン再訪の折は是非寄ってみたいと思っていました。
(訪問日 2015年1月16日)
ヌニェス・チンチーリャ グループ Grupo Nuñez Chinchilla
コパン遺跡内にあるコパン遺跡の案内図では ヌニェス・チンチーリャ と通称されますが、これは 60年代に滑走路拡張計画の為の緊急調査を行った
責任者の名前で、計画は中止されて調査は未完のまま現場が放置されたのに名前だけ残っているのも変な話です。
(Como llegar al Grupo Nuñez Chinchilla, Grupo Residencial 9L-22 y 9L-23)
チンチーリャ グループへは遺跡区域の入口から細道を通って林を抜けて行けますが、グラン・プラサの北東角から抜けていくと近道です。
(Escalinata a Grupo Chinchilla ubicada a la esquina noreste de Gran Plaza)
写真はグラン・プラサの北東角にある階段で、この階段を通ると 150m 位先にチンチーリャ・グループがあり、近道です。
(Indicación al Grupo 9L-22, 23)
階段の先にこの案内板があり、ここでは 住居グループ 9L-22、9L-23 と表記されます。 記号では味気ないので将来的に 中村グループとでも
改称されたらと思いますが…。
(Centro de Interpretación)
これは住居グループ 9L-22、9L-23 の前にある情報センターで、休憩所も兼ねているようです。
(Reconocimiento para la coopoeración de Japón)
情報センターの前には日本の支援に感謝する記念碑が建てられています。 日付が 2011年12月になっていて、同グループ公開に先立って
作られていますが?
(El interior del Centro de Interpretación)
これは情報センターの内部です。 流石に日本人の指導で作られただけあってパネル展示で説明が充実しており、遺跡の復元模型まであります。
(Plano del Grupo 9L-22, 23)
パネルにあるグループの見取り図を切り出しました。 東側の 9L-22 グループ、西側の 9L-23 グループと、更に北西に広がるエリアがあり、グループ
全体で建造物が 23 と埋葬が 145 確認されています。
住居グループ 9L-22 Grupo Residencial 9L-22
(Lado suroeste del Grupo 9L-22)
まず 9L-22 グループから見ていきます。 情報センターのすぐ北で、写真はグループの南西角です。
(Réplica de Entierro 61)
南側の建物 (建造物 103) 西側に、発掘された埋葬を発見当時の姿で再現してあり (埋葬 61)、複製の 50cm 下にあったものだそうです。
被葬者は頭蓋変形された成人男性で、顔を東に向け、頭は北側に南北に埋葬されています。 他地域からの移入品と思われる副葬品の土器があり、
魚が描かれた皿はアクロポリスの王墓にあったものと類似していて、その関連が指摘されます。 埋葬は 550年頃のものと考えられるようです。
(Plano del Grupo 9L-22)
グループ 9L-22 の見取り図。 案内板にあったもので、日本人のプロジェクトだけあって説明も丁寧です。
(Vaso de Waxaklajun Ub'ah K'awil "18 Conejo")
見取り図で Vaso/Vase Waxaklajun Uba'ah K'awil と書いてある所 (建造物 102 の南側) から、断片化した壺が発見され、写真と説明文がありました。
修復すると捕虜を従えた王が描かれており、碑文の解読から 5人の捕虜を捕った王として 18 ウサギ王が描かれていた事がわかり、文化芸術に造詣が厚かったと
思われていた 18 ウサギ王の別の面が窺い知れるそうです。
(Patio de Grupo 9L-22)
これは南西角から中庭B 超しに左が建造物 101、右が建造物 100 です。
(Estructura 100)
建造物 100 の正面北側には説明板があり、ここからは子供の埋葬 (埋葬 10) が発見されています。
(Entierro 10)
これがその説明板で、地下 1.5m の所で発見された埋葬は彩色された陶製の笛や翡翠を含む豪華な副葬品を伴い、高位の貴族の子供が埋葬されたものと
考えられるようです。
(Estructura 103)
これは広場から見た南側の建造物 103 で、西側 (写真の右側) に埋葬 61 がありました。 奥に見えているのが情報センターです。
住居グループ 9L-23 Grupo Residencial 9L-23
(Plano del Grupo 9L-23 y Área noroeste)
グループ 9L-22 の西側にある グループ 9L-23 と北西に広がるエリアの見取り図です。
(Lado noreste de Estructura 112)
まず建造物 112 の外側から。 建物の裏にあたる北東側で、ここにも発掘された埋葬が復元してあります。
(Réplica de Entierro 124)
建造物 112 の北東部からは 112 もの埋葬が発見されており、そのひとつがここに再現してあります (埋葬 124)。 被葬者は中年女性で、副葬品がないことから特に位の高い
貴族ではないようです。 埋葬は伸展葬ではなく背屈葬になっています。
(Lado trasero de Estructura 112)
これは建造物 112 裏側の全景で、2枚の写真を繋ぎました。 建物の向こう側が グループ 9L-23 の中庭です。
(Lado trasero de Estructura 104)
グループ 9L-23 の中庭には北側から回り込んでいきました。 写真はグループの外側の北西部から見た北の建造物 104 の背面です。
(Patio de Grupo 9L-23)
建造物 105 の南側まで来ました。 左側は建造物 105 の上部、奥が建造物 104 の前面、右側の崩れた建物が建造物 124 になります。
(Parte superior de Estructura 105 y Temazcal)
建造物 105 の上部は針金で囲ってありますが、ここにテマスカル (スティームバス) が保護されています。 下の写真の奥がテマスカルで、手前に
水路が見えます。
(Estructura 104 en frente)
手前左は建造物 105 の前面、正面が建造物 104 です。
(Escalinata frontal y suelo estucado de la habitación superior)
北側の建造物 104 の正面階段と、上部の居室跡で、居室の床にはまだ塗り込められた漆喰が残ります。
グループ 9L-23 は自然の高台を整地して 7世紀に作られ、建造物 104 の建造は 7世紀の初めに遡り、下の復元画は 8世紀頃の様子を再現している
そうです。 コパン王朝衰退後の 9世紀に入って東側にもう一部屋追加された跡があるようです (下の復元図でピンクの部分)。
(Reconstrucción hipotética de Estructura 104)
北西部のエリア Area noroeste
見取り図にあるように グループ 9L-23 の北西側に更に建造物群が広がります。 ただここから先は説明のプレートが設置されていないので、
詳細はよくわかりません。 写真で紹介していきます。
(Lado trasero de Estructura 105 y Área noroeste)
これは 9L-23 の建造物 105 の南側から見た、建造物 105 の裏側と北西部のエリアです。
(Estructuras al noroeste de Grupo 9L-23)
9L-23 の北西部の外側になる建造物。
(Estructura cuadrada y una tumba recuperada)
これは建造物 104 の西側にある矩形の構造物で、上部から葬室が見え、3枚の蓋石がありました。
(Plataformas de las estructuras)
これは矩形の構造物の奥の建物の遺構で、建物の基部だけです。
(Escalinata y los Monolitos)
西側に広がる大きな中庭のような所を通り過ぎると西側に降りる階段があり、階段の途中に記念碑のような円柱が立っています。
説明が無いので石碑なのか何なのか、いつの時代のものなのか、不明です。
場所は見取り図で Monolitos と書いてある所になります。
(Rampa al lado oeste de 9L-23)
これでヌニェス・チンチージャ グループはほぼ終了で、写真のスロープを降りて、グループ 9L-23 の南側に出ます。
(Pozo de agua)
スロープの下に階段が繋がっていて、ここが見取り図にある Pozo de agua (井戸) に当たるようです。 写真下はスロープの下から北東方向へ
9L-23 を見上げたところで、写真上は逆に 9L-23 の上から南西方向を見下ろした所です。
(Reconstrucción hipotética de Grupo Residencial 9L-22 y 9L-23)
コパンの人口は8世紀にかけて 28,000人に達したそうです。 コパンでは役割に応じて住む場所が分かれ、人口の増大に伴いに街は拡大していき、
10代王の時代に中心部から西、現在のコパン遺跡村に居住区が拡張されたようです。 グラン・プラサの中心部も北側に居住区が拡大され、
これが住居グループ 9L-22, 23 にあたります。
グラン・プラサのすぐ北に位置するこの居住区は中心部で行われる祭祀を司った人達が居住した場所と考えられ、特に王の庭とも呼ばれるように
グラン・プラサを自らの石碑で飾った 13代 18ウサギ王とは関係が深かったと考えられます。 断片化した 18ウサギ王の壺は、738年の王の非業の最期の後の
祭司たちの運命を物語っているのかもしれません。