(Partiendo de Ciudad de Campeche rumbo a Tenabó)
カンペチェの街を出て国道 180号を北へ向かいます。 カンペチェから 40Km のテナボの町でカンキ遺跡へ右折 15Km の表示が
ありました。
(Pueblito de Kankí)
遺跡はカンキという人口 145人の小さな村の外れにあり、Google Earth では遺跡は残念ながら雲で隠れていましたが、☆ 印が遺跡の場所です。
カンキ村まで行けば、遺跡の標識があるので迷わないと思います。
(Última desviación hacia la ruina)
これが村外れの最後の分岐点で ここを左へ。 看板の先は未舗装で遺跡まで 1Km の一本道です。 道の左側は一面トウモロコシ畑、収穫後でしたが。
(Area de entrada a ruina de Kankí)
遺跡到着です。 東屋があり (と言うほど風流な趣ではありませんが) 遺跡の管理人の家族が寛いでいました。 INAH のロゴ入り
キャップを被っていたので、遺跡の管理を委嘱されているようです。
(Entrada al sitio)
これが遺跡の入り口、と言ってもポールが2本立っているだけ。 遺跡は正面の林の中です。
(Plaza y montículo cerca de la entrada)
入り口を入って左側には瓦礫の山に灌木が生え、下に円柱が散らばっています。 因みに遺跡の名前のカンキですが、黄色い花をつける灌木で
周辺に群生するようです。
(Fragmentos de columnas redondas)
円柱には彫刻が施されたものもあり、立派なプーク様式の遺跡だったようです。
(Montículo grande en frente d la entrada)
これは入り口を入って正面の林で、このパノラマ画像の左の奥にある建造物の壁がわかるでしょうか。
(Vestigio de las estructuras)
これがその壁の部分。 自然の起伏の上に設けられた建造物の一部でした。
(Estructuras medio enterradas)
近づいてみると外壁が失われ部屋の内部が露出していて、部屋が3つ繋がっています。 右の部屋は天井部分は無くなっていますが、戸口が
確認出来、上の方まで土砂で埋もれており、遺跡情緒たっぷりです。
(Otro lado de la misma estructura)
裏に回ってみると反対側にも部屋があり、天井は半分崩れていますが外壁が残っていました。
南北2列にわたって6室以上の居室跡が残されますが、果たして下の地図のどの建造物になるのでしょう?
(Página 14 de Edición Especial #25 de revista Arqueología )
帰国後に手元の資料とウェブでカンキについて調べましたが、Arqueología のカンペチェを特集した特別号 #25 以外に地図は 見当たらず、
これはその特別号にあった地図と写真をスキャンしたものです。
写真の建物が建造物 I 宮殿となっていましたが、宮殿には屋根飾りがある筈で、この建物は別物です。 では宮殿は何処にあり、
この建物は何でしょう? 折角見つけた地図ですが あまり当てになりません。 地図は遺跡の推定復元図で、実際は殆どが
土砂や灌木に覆われた廃墟です。
(Nuevo letrero de Kankí)
時間が前後してしまいますが、これは 2014年の2回目の訪問時に設置されていた遺跡の看板です。
(Parte nuclear del sitio)
看板の地図から遺跡の中央部分を切り出しました。 2回目の訪問でやっと重要な建物の位置が確認できました。 建造物 I、宮殿が ①、
Arqueologia にあった写真は 建造物 IV、階段状のマヤアーチで ②、最初に見た起伏の上の建造物は ③ でした。
(Lado norte de Estructura ③ )
これは建造物 ③ の北側のパノラマ画像で、建造物 ③ は南北両面に5部屋以上ある、かなり大きな建造物だったようです。
(Caminata dentro de la ruina)
建造物 ③ の北側から東の方へ進んでいったものと思いますが、周りは 建物の残骸だらけで、何処をどう行ったものか、多分地図に振ったアルファベット
の A から B 辺りだったと思います。
(Caminata dentro de la ruina)
マヤアーチを残す居室跡が土塁の中から顔を出し、広場には建造物を飾った円柱が転がり、まだまだ修復の余地がありそうです。
(Restos de bóveda falsa maya)
D の広場に向かうと南側の建物の残骸からやはりマヤアーチが顔を覘かせます。
(Foto panoramica de patio marcado como D )
同じ広場の西側の建造物には仮面の装飾が見えてきます。 南と西の建造物をパノラマ合成しました。
(Mascarón de Chac en la crestería de Estructura 1)
仮面装飾を正面から見上げるとこれです。 仮面は屋根飾りで 下にある建物は未修復で瓦礫の中ですが、この屋根飾りを持った建造物が
地図に ① と記した建造物 I、宮殿でした。
(Detalle de mascarón)
仮面部分を拡大してみます。 モザイク彫刻で成形されたチャーク像と考えられ、目と耳飾りは空洞になっています。 仮面装飾の下側に
円い小柱が配され、典型的なプーク様式です。
(Mascarón sobre montículo grande)
広場の北側から瓦礫を踏み固めて登っていくと仮面装飾の前に出られます。。
(Mascarón, decoración de mosaico de estilo puuc)
瓦礫を登っていく途中に北東側から見た仮面装飾で、鼻だけ前に突き出ているのがわかります。
(Estructura medio enterada, debajo de Mascarón)
仮面装飾の下には建物部分が一部露出していますが、殆どがまだ瓦礫に埋もれたままです。
(Acercamiento del mascarón)
仮面の前に出て、今度は南東側から。 今立っている所は建物の屋根の上です。 典型的なプーク様式のチャーク像は鼻が丸く前に伸びていますが、
ここでは真っ直ぐ伸びた突起が残っているだけ。 でも瓦礫だらけの遺跡に こんなものが残されていたのは幸運でした。
(Resto de estuco aplicado sobre piedra de mosaico)
良く見てみると右側の縦長の窓の下には漆喰が残り、線と丸が刻まれています。 元々は仮面全体に漆喰が塗られ 彫刻、彩色
されていたのでは思います。 専門家の想像復元図を見てみたいものです。
チチェン・イツァやウシュマルの推定復元画では建物装飾が赤、黄、青、緑、白等で彩られていますが。
(Parte trasera de la decoración de Chac)
仮面の装飾の後ろに回ってみました。 中央の一対の四角い穴がチャークの目です。 モザイク装飾は無く、丸い小柱もないシンプルな仕上げで、
こちらが建物の裏側になるでしょうか。 遺跡の看板に書かれた説明文によると、この建物は
650-700AD の建造になるようで、古典期後期でも比較的古い時代になります。
(Fotos encontrados en Google Earth y Flickr)
遺跡の看板の説明には チャーク像の目の窪みを利用して太陽の観察をしていたと書かれていましたが、ウェブで情報を探してみると、毎年5月3日夕方7時頃に
西に沈む太陽が目の窪みの後ろに回って目を輝かせる現象が観察され、太陽の神 キニチ・アハウが降臨し、雨季の始まりと種蒔きの時期を告げた
と解釈されるようです。
理解しやすいようにウェブで見つけた画像を2枚貼らせて貰いました。 左は Google Earth のカンキの場所に貼られていたもの、右は Flickr にあったものです。
一度輝く目の写真を撮りに行きたいものです。
(Patio en frente de la structura 1)
建造物 I、宮殿の前の広場です。 宮殿の向かいにある建物の居室跡が少しだけ修復されていました。 大々的な修復活動はないものの、少しづつ遺跡
の整備は進んでいるようです。
(Patio en frente de la structura 1)
屋根飾りの前から東側に広がる広場を見下ろしたところで、細い道が東へ伸びていて、道の先は 地図に E と記した広場です。
(Otra plaza y estructura)
広場 E は三方が瓦礫の山で、写真左が北の土塁、右が東側の土塁です。
(Estructura IV con bóveda escalera invertida)
そして南側だけ建造物が残され、これが地図の ② 建造物 IV、階段状のマヤアーチになります。
(Estructura IV)
北西側から見た建造物 IV です。 Arqueologia の記事の中で間違って 建造物 1 宮殿と紹介されていた建物でした。
(Estructura IV)
これは北東側から。 幅広の建造物の割には入り口がひとつしかありません。 二層になっていたのかもしれませんが、上部は崩れています。
(Boveda Escalera Invertida)
入り口から中に入ってみると持ち送り式のアーチ天井になっていて、ここだけ他のアーチ天井とは造りが違います。 ペテン様式からプーク様式への
移行期にこうした階段状のアーチ天井が見られるそうで、屋根飾りの建造物 I より古く、600-650年頃の建築と考えられるようです。 建物の裏側にも
崩れたアーチ天井がひとつ露出しており、やはり同じ階段状のものでした。
(Uno de los Chultunes que hay mucho en Kinkí)
広場は 10 以上あり、数多くのチュルトゥン(地下の水溜)があると書かれていますが、これは戻る途中にあった チュルトゥンが
地上に空けた穴です。 一応柵や目印が置かれますが、中は水瓶に使われた大きな空洞ですから 要注意です。
(Encargado del sitio dedicado al mantenimiento)
入口近くまで戻ってくると INAH のキャップを被った管理人さんは草刈り機で遺跡の整備をしています。
荒れ果てたマヤの遺跡で 雨の神チャークの壁面装飾を見つけて、これぞ遺跡巡りの醍醐味。 ドライバー氏は盛んに "Ruina virgen"、
つまり「手付かずの遺跡」を連発していましたが、石ころだらけで荒れ果てた遺跡はまさに遺跡情緒たっぷり。 でも遺跡は 1940年に発見
された後 全く手つかずと言う訳ではありません。 古い写真と見比べると修復ないしは手を入れられた跡が確認できます。
(Parte sureste del sitio)
ここまで 2011年に回った場所のおさらいでした。 他に見るべきものはないか念の為に聞いてみると、もうひとつグループがあるとの事で、案内
して貰いました。 看板の地図にも 南東の中庭として記載があります。
(Patio Sureste)
東の方向へ道なりに歩いていくとものの数分で建物跡が見えてきました。
(Parte sur de Edificio Sur del Grupo de Patio Sureste)
入口近くにあった ③ の建造物に似た建物が露出しており、マヤアーチは平らに仕上げられていてプーク様式と言えるようです。
(Detalle de la bóveda expuesta)
まだかなりの部分が瓦礫に埋もれたままで、これからの発掘修復が楽しみです。
(Patio Sureste)
アーチが露出していたのは南の建物の南側で、建物に囲まれた中庭はこんな感じでした。
地図は不正確でしたが、Arqueología Especial #25 によると他に北のグループもあり、図像と文字が刻まれた石板も2つ発見されているそうです。
発掘修復を進めていけばまだまだ新しい発見が沢山ありそうなカンキ遺跡です。 文字資料が出てきて周辺のセンターとの関係がわかると面白いのですが。
カンキ遺跡を後にして、次の
シュカルムキン遺跡 に向かいます。