(St. Christopher's Hotel)
大変お世話になったのでホテル "St. Christopher's Hotel" の写真から。
家族経営で 部屋はこざっぱりしていて 快適な4晩を
過ごせました。 ベリーズ初日はこのホテルの裏からボートでラマナイへ、2日目はオーナーの息子アリ君の案内でアルトゥン・ハと
クエヨ、そして3日目の相談をしたら ラ・ミルパとチャン・チチが遺跡と自然を楽しめるとのお奨めでした。 アリ君の運転で、
昼食付き US$200。
(Confluencia de los ríos cerca de Blue Creek)
オレンジ・ウォークから南西へ下り、サン・フェリペから西進するとメキシコとの国境を流れるリオ・オンド(オンド川)に
ブルー・クリークやリオ・ブラボの支流が流れ込むポイントに出ました。 川の向こうはメキシコの筈です。
(Blue Creek, Frontera con México)
そして程なくブルー・クリーク、左が警察で右が税関、右の道を進むと船着場が有り、メキシコ側へ渡れるようです。 遠くの
山並みはメキシコ! 勿論メキシコへは行かずにラ・ミルパを目指して更に西へ進みます。
(La Milpa Field Station)
そしてラ・ミルパ、正確に言うと La Milpa Field Station に到着。 オレンジ・ウォークからは1時間半位の行程ですが、自然を
楽しみながらのノンビリ旅、2時間半位かかりました。
"Program for Belize" という団体がリオ・ブラボ生物保護区を管理し、保護区内に2ヶ所設けた宿泊施設のひとつがこの
フィールド・ステーションで、ラ・ミルパ遺跡の入口になっています。 事務所で登録を済ませて ラ・ミルパ遺跡へ!
(Entrada al sitio de La Milpa)
遺跡はフィールド・ステーションから西へ更に 5Km、車で 10分少々かけて やっとラ・ミルパ遺跡到着です。 看板と手摺りで
遺跡らしい雰囲気になってきましたが、ガイドが不在、アリ君と2人の珍道中になりました。 ラ・ミルパとはスペイン語で焼畑農法
の意味で当時の名前は不明です。
(Montículos de Juego de Pelota)
それでは遺跡探索開始です。
手摺りのある階段を登っていくと開けたエリアにでます。球戯場の遺構がありますが、林の中に土塁が沢山あるだけで、ガイド不在の為
何が何だかわかりません。
帰国後に色々調べてわかったのは、ここがラ・ミルパの中心となる広場Aで 北側から広場に入り球戯場の横に来たところでした。
地図はボストン大学考古学部のページ
Dept. of Archeology, Boston University から借用しましたが、この地図無しではこの場所が一体何処なのか分からず仕舞いだったところです。
(Montículo de Estructura 4)
右側の小さな土塁は球戯場の南側の構造物で、その裏にある大きな土塁は地図と照合すると建造物4でした。 建造物4は広場内に
建てられており周りには何も無い筈ですが、写真の様に後ろ側は緑に覆われています。 全くの手付かずの遺跡だと全体が
このような緑に覆われて訪問が難しいでしょうが、調査で人の手が入っていて 主要部は緑が間引かれている様です。
(Montículo de Estructura 1)
これは建造物1の北西側で、盗掘された後が窺われます。 広場Aには建造物1、2、3、4と大きな建造物が並びますが、
高いものは 24m にもなるようです。
(Plaza A)
広場の写真を撮ったつもりですが単なる雑木林にしか見えません。 非常に大きな広場で歩測してみたところ、東西は 100m 以上
ありました。 南北は植生に遮られてよくわかりませんでしたが、ボストン大学の資料では 18000㎡との事、南北 150m
東西 120m 位でしょうか。
ラ・ミルパには広場が24、建造物が85以上確認されていますが、この広場を見ただけでも
非常に大きなマヤセンターだった事がわかります。往時の人口は最大5万人位と推定されています。
(Plaza A)
広場の写真はパンして撮っていたので繋いで見ました。 上の写真は2本の白線の内側で左隅には下の写真の建造物5と石碑7が
写っています。 兎に角潅木の中、こうでもしないと位置関係がわかりません。
(Estructura 5 y Estela 7)
建造物5は小さいですがラ・ミルパで唯一石組みが露出していて、建造物1 の南西角に付設され、石碑7 を前に持った小神殿と
言った感じです。
(Estructura 5 y Estela 7)
ラ・ミルパの発見は 1938年に遡り、著名な英国人碑文学者のエリック・トンプソン氏が、チクレ採集者に案内されて初めて確認した
という事です。 石碑はラ・ミルパ全体で19本発見され、内16本が広場Aだそうですが、その内最も状態が良かったのが ここにある
石碑7でした。
(Estela 7)
写真の石碑7 からは 王の名前と780年の日付が確認されたそうですが、現在は写真のような状態でかなり風化しています。 碑文学者
のトンプソン教授に発見されたのが良かったのでしょう。
(Estela ?)
石碑7 の少し南側にも石碑が1本転がっていました。 文字通り苔むしていますが、図像が刻まれた跡が見て取れます。
(Juego de Pelota en el sureste de Plaza A)
広場Aの南東隅にもうひとつの球戯場がありました。 こちらはふたつの建造物が東西に並び、一般的な球戯場の配置のようです。
(Montículo saqueado)
1938年に遺跡が確認された後はまた殆ど忘れ去られた存在で、保護区が整備され本格的な調査が始まる前にかなり徹底的に盗掘されて
いました。 写真のような盗掘の跡が遺跡のあちらこちらで見られ、数多くの盗掘品が海外の収集家の手に渡ってしまったようです。
(Montículo sur de Plaza A)
これは広場Aの南側を閉じる横長の建物の遺構(写真左側)で 奥の緑の中には宮殿跡が隠れている筈です。
広場A全体は古典期後期の遺構になりますが、これ等の遺構の下には先古典期から古典期前期の遺構が埋もれているそうです。
(Chultún o Depósito en la Plaza A)
南面の細長い建造物の前に 貯蔵庫があり梯子が取り付けられていましたが、ガイドも無く蛇や毒虫の危険もあるので入る事は
憚れました。
広場Aからは盗掘を免れたの王墓が発見され、古典期前期 450AD 頃のものとされ、副葬品の立派な翡翠の首飾りはベリーズ博物館
に展示されています。
(Montículo al sur de Plaza A)
遺跡は広場Aの南に更に広がっており、何があるのかわかりませんが兎に角 行ってみました。 土塁は沢山ありますが、何が何やら。
(Más estela al sur de Plaza A)
途中 マヤ神聖文字が刻まれた石碑も転がっていましたが、石碑何番なのか、何が刻まれているのか ???です。
(Plaza B o Plaza C)
多分南東にある広場B か広場C 辺りに行き着いたのだと思いますが、定かではありません。 植生の向こうには広場を囲む
建物遺構が見えますが、とにかく何が何だか分からず道も途絶えてきたのでこの辺で戻る事にしました。
唯一石組みが見られた建造物5 は、1992年から始まったボストン大学のプロジェクトで 取敢えず掘り出されたもののようです。
周辺に大きな村落もスペイン人の教会もなく、ピラミッドの石材が新しい建物の材料に持ち出されたようにも見えないので、
土と樹木に覆われた土塁の下には石組みが残っているものと思います。 発掘、修復されると良いのですが、一体何時の事やら。
ラ・ミルパを後にして次の
チャン・チチ遺跡 へ向います。